そしてまた幾日。
目元に置いてあった手のひらがするりと落ちる。
「ん。ううん」
陽射しを瞼に感じて目が覚めた。あたたかい初夏の陽射しを受けてまどろんだ瞳が瞬く。
そんなわたしを照らす光を影が遮った。
「起きたか?」
目を開けると怜弥様の端正な顔がわたしを見下ろしている。微睡みながら視線を送るとわたしの横で怜弥様が腰を下ろしていた。
朱色が施された狐の白面は頭の横につけられたまま。狐の耳と尾は眩しいくらいに白く、隠されないままふわりと揺れている。
ゆったりとした動きからするとご機嫌がいいのだろう。
怜弥様のお心が穏やかなのは良いことです。
そんなことが頭の中にのんびりと思い浮かんだ。
……あれ?
「え? あ!」
どういうこと!?
慌てて膝をそろえて座し衿を正す。
雑巾で板間の拭き掃除をしていたのに陽射しがあまりにも心地よくて、少しだけと横になったらそのままうたた寝をしてしまっていた。こんなこと高輪では絶対にあり得ない。それこそ清浄の炎で灼かれてしまう。
「丸まった寝姿がまるで猫のようだったな」
「お、お見苦しいものを……」
改めて居住まいを正してかしこまる。わたしは眠る時は必ずと言っていいほど体を丸くして寝てしまう。もちろん伸びている時もあるけれど。
怜弥様に寝顔を見られてしまうなんて……は、恥ずかしくて顔がうつむいてしまう。
「ふ。寝顔も可愛いものだ」
「ひう」
心臓の鼓動が跳ねる。
正座したわたしの体も跳ねてしまう。
頭の中で繰り返される怜弥様のお言葉で心臓が止まりそう。
思えば思うほどに体が硬直してしまう。
うつむいたまま視線だけを向けると怜弥様の朗らかな笑顔がわたしの瞳に映った。
そして瞳が重なる。
くう。視線が、視線が……直視できません!
思いっきり首を反対側にそらして事なきを得た。
「どうした? 何を顔を赤くしている?」
「いえ……なんでもございません」
かろうじて返事をするものの言葉が辿々しくなってしまう。
怜弥様から続く言葉がなく、少し間が空いたのでどうしたのかと首と視線を巡らした。
「まだ少し赤いな。もしや熱でもあるのか?」
そんなわたしの目の前で膝をついて囁く怜弥様の瞳が優しい。
お体がすっかり良くなった怜弥様は白い寝巻きではなくなっている。
先染めの絹織物、紬の着物に変わっている。西洋のアールヌーヴォーと花鳥風月の装飾が取り入れられた華やかな着物で細くともたくましく美麗な怜弥様にとてもよく似合っている。
「いえ! 陽射しで少しのぼせただけでございます!」
慌てて弁明した。少し大袈裟な身振り手振りを加えて。
「そうか。元気ならばいい」
わたしの奇妙な仕草を見て笑っていらっしゃる。
おかしい。
それにしてもおかしい。
この間から怜弥様がおかしい。
少し悪戯っぽくも感じる笑顔が優しくてわたしがおかしくなりそうになる。
一体これはどういうことなのか。
考えても顔が赤くなるばかりで……。
「紅茶を用意した。こい」
「怜弥様!? またですか!?」
立ち上がる怜弥様に手を差し伸べられた。
積極的にその手を掴むことができずに、おずおずと指先に触れると骨ばった手でわたしの手のひらが優しく包まれた。
今となってはこういうことがあまり珍しくなくなっている。
やはりおかしい。
招かれるままに足を運ぶ。
外に面した回り廊下を歩む。
新緑が美しく初夏の爽やかな風が心地いい。少し暑くなってきてはいるけれど大池から吹く風は涼を感じるくらいだ。
季節に応じて変化する居心地の良さと趣向が凝らされた設計は卓越した造園職人の腕があるからこそ。
怜弥様の居室の縁側から眺める上月家の庭園は素晴らしく見事なもので心が静かに落ち着くはずのもの。
そう。落ち着くはずのもののはず。
だけどわたしの心は……。
怜弥様の背中に視線を合わせると忙しなく奏で始める心臓の音。
お願いです。
落ち着いて。
そして今、怜弥様に促されるままにいる。
少しだけ、自分自身の所在の置き場に困りながら。
「こうして茶を飲むのは良いものだな」
「は、はい」
朱色に向日葵の花が絵付けされ、和の趣が融け合った洋食器《ティーカップ》の持ち手をつまんで口につける。
渋みと甘みが程よく香りが爽やかだ。
「どうだ? 熱くはないか?」
「は、はい。その、わたしの好みです」
いつもわたしが怜弥様へとご用意するお茶はもっと熱い。
それに比べると少し、いえ、かなりぬるい。
猫舌のわたしのためと気を遣っていただいている。
紅茶というと舶来の品として高級なもの。
老舗の大店が輸入した外国製の銘柄は上流階級からハイカラ好きを中心に庶民へと広まりつつあって気軽に口にできることが多くなっているのだ。
なのだけど、上月の懐事情を傷めてはいないでしょうか。心配です。
そんなことを思いながら口に運ぶ。
しっとりと柔らかく甘ったるいくらいのカステラと良く合って心が……。
落ち着かない。
まったく心が落ち着かない。
板間の縁側に座布団を敷いて正座するわたしなのだけれど。
すぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に怜弥様がいる。
片足だけを縁側から外へと放り出すように腰掛けて、毛先が燃えるように黒いもふもふの白いしっぽがわたしの腰に巻かれている。
それは意識してなさっていることなのですか?
それとも無自覚なのですか?
いつもはギンコさんとお茶を啜る時間なのだけれど、ここ最近は毎日のように怜弥様と同じ時間を過ごしている。
ごめんなさいギンコさん。
「ところで日向」
「はい。何でしょう?」
真面目な顔で声をかけられて真顔で聞き返していた。
「その猫髭はやはり可愛いな」
「ひう」
なぜそんなにもそんな言葉を口にされるのか分からない。
わたしは何かしたでしょうか?
やっぱり怜弥様の瞳が優しい。
先だってわたしの頬に髭が生える事案が露見してしまった。高輪では誰にも悟られないように剃り落としていたのに。
なぜ急に生えたのか不思議でならない。
さっさと剃り落としたいのに怜弥様からお許しが出ずにそのままにしている。
ある意味、瞳の色と形が変わるよりも気にしていることなのに。
「何をもじもじと手遊びしている? 俺の願いを忘れたのか? その可愛らしい手をどうする?」
「はう」
このお茶の時間では必ず怜弥様からお願いされることがある。
端から小さく切り取ったカステラに銀の突き匙を突き刺す。左手で着物の袂を押さえながらカステラを持ち上げると、突き匙を持つわたしの手が骨ばった硬い手に握られた。
ひい。
艶のある開いた唇に近づけると口の中に頬張られる。咀嚼する頬の動きがなまめましく喉仏がごくりと上下した。ぺろりと舌が唇を濡らしている。
「柔らかいな」
「カステラですから」
「日向の手のことを言っている」
「ひう」
このお人は何を言っているのでしょう?
わたしを甘い言葉で焼き殺すおつもりでしょうか?
よほど妹の清浄の炎の方がマシというもの。
顔が熱すぎていたたまれません。
自ら望んで行っていた水仕事が減らされて、わたしの手荒れはなくなってすっかり滑らかになっている。
それは怜弥様の配慮によるものだ。
ギンコさんからは『わたしがあれほど申し上げてもお止めになりませんでしたのに。うふふ』と笑われてしまった。
だって……止めないと怜弥様がなかなか離れてくれないんですもの。
「その着物とリボンもよく似合っている」
「このように高価な物をあ、ありがとうございます」
怜弥様と同じく流行りの装飾が施された紬の着物を与えられ身に付けている。
上等な絹の肌触りが心地良い。
ダウンスタイルの長髪に雛菊の飾りがあしらわれた大きなリボンをつけている。こんなにハイカラな装いなんてわたし如きが良いのでしょうか?
それに上月家の懐事情が気になります。
「少し調べた」
怜弥様から話が続けられる。
何を調べたかどうとかよりも気になることがあってしょうがない。
「あ、あの。わたしの手をお離しください」
「なぜだ?」
「その、わたしの汗が……」
「しっとりとして肌触りが良いが?」
「ひう」
突き匙を奪われたわたしの右手が怜弥様の頬にぴとりとつけられる。
どっと汗が噴き出る思いです。
顔から火が噴き出そうです。
もう、もう。
このような仕打ちを受けるなど……。
高輪では考えられなかった!
目元に置いてあった手のひらがするりと落ちる。
「ん。ううん」
陽射しを瞼に感じて目が覚めた。あたたかい初夏の陽射しを受けてまどろんだ瞳が瞬く。
そんなわたしを照らす光を影が遮った。
「起きたか?」
目を開けると怜弥様の端正な顔がわたしを見下ろしている。微睡みながら視線を送るとわたしの横で怜弥様が腰を下ろしていた。
朱色が施された狐の白面は頭の横につけられたまま。狐の耳と尾は眩しいくらいに白く、隠されないままふわりと揺れている。
ゆったりとした動きからするとご機嫌がいいのだろう。
怜弥様のお心が穏やかなのは良いことです。
そんなことが頭の中にのんびりと思い浮かんだ。
……あれ?
「え? あ!」
どういうこと!?
慌てて膝をそろえて座し衿を正す。
雑巾で板間の拭き掃除をしていたのに陽射しがあまりにも心地よくて、少しだけと横になったらそのままうたた寝をしてしまっていた。こんなこと高輪では絶対にあり得ない。それこそ清浄の炎で灼かれてしまう。
「丸まった寝姿がまるで猫のようだったな」
「お、お見苦しいものを……」
改めて居住まいを正してかしこまる。わたしは眠る時は必ずと言っていいほど体を丸くして寝てしまう。もちろん伸びている時もあるけれど。
怜弥様に寝顔を見られてしまうなんて……は、恥ずかしくて顔がうつむいてしまう。
「ふ。寝顔も可愛いものだ」
「ひう」
心臓の鼓動が跳ねる。
正座したわたしの体も跳ねてしまう。
頭の中で繰り返される怜弥様のお言葉で心臓が止まりそう。
思えば思うほどに体が硬直してしまう。
うつむいたまま視線だけを向けると怜弥様の朗らかな笑顔がわたしの瞳に映った。
そして瞳が重なる。
くう。視線が、視線が……直視できません!
思いっきり首を反対側にそらして事なきを得た。
「どうした? 何を顔を赤くしている?」
「いえ……なんでもございません」
かろうじて返事をするものの言葉が辿々しくなってしまう。
怜弥様から続く言葉がなく、少し間が空いたのでどうしたのかと首と視線を巡らした。
「まだ少し赤いな。もしや熱でもあるのか?」
そんなわたしの目の前で膝をついて囁く怜弥様の瞳が優しい。
お体がすっかり良くなった怜弥様は白い寝巻きではなくなっている。
先染めの絹織物、紬の着物に変わっている。西洋のアールヌーヴォーと花鳥風月の装飾が取り入れられた華やかな着物で細くともたくましく美麗な怜弥様にとてもよく似合っている。
「いえ! 陽射しで少しのぼせただけでございます!」
慌てて弁明した。少し大袈裟な身振り手振りを加えて。
「そうか。元気ならばいい」
わたしの奇妙な仕草を見て笑っていらっしゃる。
おかしい。
それにしてもおかしい。
この間から怜弥様がおかしい。
少し悪戯っぽくも感じる笑顔が優しくてわたしがおかしくなりそうになる。
一体これはどういうことなのか。
考えても顔が赤くなるばかりで……。
「紅茶を用意した。こい」
「怜弥様!? またですか!?」
立ち上がる怜弥様に手を差し伸べられた。
積極的にその手を掴むことができずに、おずおずと指先に触れると骨ばった手でわたしの手のひらが優しく包まれた。
今となってはこういうことがあまり珍しくなくなっている。
やはりおかしい。
招かれるままに足を運ぶ。
外に面した回り廊下を歩む。
新緑が美しく初夏の爽やかな風が心地いい。少し暑くなってきてはいるけれど大池から吹く風は涼を感じるくらいだ。
季節に応じて変化する居心地の良さと趣向が凝らされた設計は卓越した造園職人の腕があるからこそ。
怜弥様の居室の縁側から眺める上月家の庭園は素晴らしく見事なもので心が静かに落ち着くはずのもの。
そう。落ち着くはずのもののはず。
だけどわたしの心は……。
怜弥様の背中に視線を合わせると忙しなく奏で始める心臓の音。
お願いです。
落ち着いて。
そして今、怜弥様に促されるままにいる。
少しだけ、自分自身の所在の置き場に困りながら。
「こうして茶を飲むのは良いものだな」
「は、はい」
朱色に向日葵の花が絵付けされ、和の趣が融け合った洋食器《ティーカップ》の持ち手をつまんで口につける。
渋みと甘みが程よく香りが爽やかだ。
「どうだ? 熱くはないか?」
「は、はい。その、わたしの好みです」
いつもわたしが怜弥様へとご用意するお茶はもっと熱い。
それに比べると少し、いえ、かなりぬるい。
猫舌のわたしのためと気を遣っていただいている。
紅茶というと舶来の品として高級なもの。
老舗の大店が輸入した外国製の銘柄は上流階級からハイカラ好きを中心に庶民へと広まりつつあって気軽に口にできることが多くなっているのだ。
なのだけど、上月の懐事情を傷めてはいないでしょうか。心配です。
そんなことを思いながら口に運ぶ。
しっとりと柔らかく甘ったるいくらいのカステラと良く合って心が……。
落ち着かない。
まったく心が落ち着かない。
板間の縁側に座布団を敷いて正座するわたしなのだけれど。
すぐ隣、肩が触れ合うほどの距離に怜弥様がいる。
片足だけを縁側から外へと放り出すように腰掛けて、毛先が燃えるように黒いもふもふの白いしっぽがわたしの腰に巻かれている。
それは意識してなさっていることなのですか?
それとも無自覚なのですか?
いつもはギンコさんとお茶を啜る時間なのだけれど、ここ最近は毎日のように怜弥様と同じ時間を過ごしている。
ごめんなさいギンコさん。
「ところで日向」
「はい。何でしょう?」
真面目な顔で声をかけられて真顔で聞き返していた。
「その猫髭はやはり可愛いな」
「ひう」
なぜそんなにもそんな言葉を口にされるのか分からない。
わたしは何かしたでしょうか?
やっぱり怜弥様の瞳が優しい。
先だってわたしの頬に髭が生える事案が露見してしまった。高輪では誰にも悟られないように剃り落としていたのに。
なぜ急に生えたのか不思議でならない。
さっさと剃り落としたいのに怜弥様からお許しが出ずにそのままにしている。
ある意味、瞳の色と形が変わるよりも気にしていることなのに。
「何をもじもじと手遊びしている? 俺の願いを忘れたのか? その可愛らしい手をどうする?」
「はう」
このお茶の時間では必ず怜弥様からお願いされることがある。
端から小さく切り取ったカステラに銀の突き匙を突き刺す。左手で着物の袂を押さえながらカステラを持ち上げると、突き匙を持つわたしの手が骨ばった硬い手に握られた。
ひい。
艶のある開いた唇に近づけると口の中に頬張られる。咀嚼する頬の動きがなまめましく喉仏がごくりと上下した。ぺろりと舌が唇を濡らしている。
「柔らかいな」
「カステラですから」
「日向の手のことを言っている」
「ひう」
このお人は何を言っているのでしょう?
わたしを甘い言葉で焼き殺すおつもりでしょうか?
よほど妹の清浄の炎の方がマシというもの。
顔が熱すぎていたたまれません。
自ら望んで行っていた水仕事が減らされて、わたしの手荒れはなくなってすっかり滑らかになっている。
それは怜弥様の配慮によるものだ。
ギンコさんからは『わたしがあれほど申し上げてもお止めになりませんでしたのに。うふふ』と笑われてしまった。
だって……止めないと怜弥様がなかなか離れてくれないんですもの。
「その着物とリボンもよく似合っている」
「このように高価な物をあ、ありがとうございます」
怜弥様と同じく流行りの装飾が施された紬の着物を与えられ身に付けている。
上等な絹の肌触りが心地良い。
ダウンスタイルの長髪に雛菊の飾りがあしらわれた大きなリボンをつけている。こんなにハイカラな装いなんてわたし如きが良いのでしょうか?
それに上月家の懐事情が気になります。
「少し調べた」
怜弥様から話が続けられる。
何を調べたかどうとかよりも気になることがあってしょうがない。
「あ、あの。わたしの手をお離しください」
「なぜだ?」
「その、わたしの汗が……」
「しっとりとして肌触りが良いが?」
「ひう」
突き匙を奪われたわたしの右手が怜弥様の頬にぴとりとつけられる。
どっと汗が噴き出る思いです。
顔から火が噴き出そうです。
もう、もう。
このような仕打ちを受けるなど……。
高輪では考えられなかった!
