「またそんな風に顔を洗っているのか。まるで猫だな」
怜弥様の口元が笑っている。
いえ。狐の白面に隠されているので表情はまったく分かりません。だけれどもそんな風にしか思えなかった。
いけない。またやってしまった。ほっと息をついたり緊張したりすると手を丸めて顔や髪を撫で付けるようにしてしまう癖が出ていた。この仕草はもう何度も目撃されていてその度恥ずかしかった。
「日向。ここへ来い」
「え? ですが」
「いいから来い」
「は、はい」
そこまで指示をされたからには行かないわけにはいかない。主の命令は絶対だ。
怜弥様に視線を送りながら足を進めたその時。
誰のなんの悪戯か春の嵐のように風が吹いた。
たくさんの桜の花びらが舞い散り空を隠すようだった。無数の枝を風が激しく揺らす。東屋へと向かい歩いていたわたしの顔を花満開の枝が掠めた。
「あ!」
「日向!」
「大丈夫かい!? 怪我は!?」
東屋に設けられた腰掛けから立ち上がって様子を伺うお二人の声にわたしを心配する色があった。
わたしとお二人をまるで隔てるようにたくさんの桜の花びらが舞っている。花びらの向こうに怜弥様が見える。
怜弥様が花びらの隙間から見えた時に感じた。狐の白面に隠された怜弥様の表情がわたしのことをとてもとても心配していただけているのではないのかと。
そう思ってしまった。だから、怜弥様の全身を見つめ返していた。
病に臥せて苦しむ姿をもう見たくないと。健やかに微笑むそのお姿をわたしの瞳に映したいと。
「はい。何も問題はございません。どこも痛みはありませんし、怪我もございません」
春風が止んだ。舞っていた桜が地に落ちて大池の水面に揺蕩う。
「日向さん?」
「日向。目が……」
「え?」
なんでしょう?
怜弥様と凌恂様がわたしの顔を見つめて不思議な顔をしている。
「あ」
気づいた時には遅かった。顔に手をやると巻木綿(包帯)がない。春の強い風に攫われて大池の水面に揺蕩っていたのだ。
わたしの瞳を見ないでください!
そう口にするよりも早く、怜弥様に異変が生じていた。
「ぐ、うう」
「どうした怜弥!?」
怜弥様が体をくの字に、狐の白面を押さえてひどく苦しんいる。なんの病かは未だに知らされてはいない。けれど明らかにこれまでよりも激しい変調をきたしているように見えた。
間違いなく容体が急変し、悪化しているように思われた。
「怜弥様! お部屋にお戻りになりましょう!」
上月家に嫁入りした者としての役割を果たそうと、いえ、一人の人間として怜弥様を支えたいという思いで手を伸ばした。
手を伸ばすと激しく咳き込む怜弥様の手がわたしに縋り付くように顔を掠めていた。
「その細く赤く輝く目はなんだ!?」
目にきつく巻いたつもりの巻木綿(包帯)は春風に攫われてすでにない。そのことに改めて動揺しつつ、目を見開いたわたしの瞳にはっきりと怜弥様のお姿が映っている。怜弥様の目には赤く輝くわたしの瞳が映っているのだろう。
「赤い目?」
疑問の声を真っ先に上げた凌恂様のお姿もわたしの瞳に捉えてしまっていた。
「ぐ!? 俺には黒々しく丸く輝いて見えるぞ!?」
胸を押さえる凌恂様のお顔が苦しげだ。
「も、申し訳ありません! わたしの瞳を見ないでください!」
顔を背けて瞳を隠す。とうとう見られてしまった。しかも赤と黒の二色も。赤く輝く瞳は猫目のように細く、輝く黒は常人の瞳にあるような黒色ではなくて大きく丸く黒より深い黒となる。
わたしの目の前で、怜弥様と凌恂様が苦しみ出している。
これは一体どういうこと。こんなことは初めてだった。
「くそ! まさか瞳術か! 刺客ではあるまいな! 僕か! それとも怜弥か! 気を許したところで命を狙ったのか!? 無能の異形と言う話は欺くためか!」
立て掛けられていた軍刀を手にして抜き放たれた刃が春の陽射しを受けて反射している。凌恂様の構える刃が今にもわたしの小さな体を斬りかからんばかりだった。
わたしが無能の異形という風に広まっているのかどうかは知らないけれど、凌恂様の耳には間違いなく届いているのですね。軍に属しているような方にも広まっているとするなら、それこそ知らない人はいないのかも知れません。
もしも上月家からも居場所がなくなってしまえば……高輪に戻ることさえできず、もうどこへ行く宛もないと確信できる言動だった。
「欺くなどというようなことはございませんが、無能の異形というのはその通りでございます。今まで黙っていて申し訳ございません。お斬りになりたければ如何様にも」
そう。別に斬り殺されても問題はない。
命が終わるだけ。
これまで、自ら命を断つ事はできなかったけれども、いつどのように死したとしても何の未練もない。そう思うと心が静かになった。
ただギンコさんにお別れを言えないのは寂しい。
それに、怜弥様がお元気になられたお姿を見ることができないのは忍びない。
瞳を閉じた。
直立して姿勢を正す。閉じられたわたしの瞳には何も映っていない。これまでに生きてきたことを思い返すと、空っぽの心は冷え切って未来もない。
ただ、暗いだけだ。心臓の音が静かに耳に響いている。
この時には気づかなかった。
わたしは思い違いをしていたのだ。
怜弥様とギンコさんとの関係に未練があったことを。
心臓の音に僅かに感じる変化があったことを。
決して心が空っぽではないことを。
「待て凌恂。刀を下ろせ」
「どうした!?」
落ち着きながらも戸惑いを隠せない声で制止を求める怜弥様がいる。
それに対してなぜ止めると言わんばかりの反応を声に表す凌恂様。
閉じた瞳には何も見えていないけれど何かあったのでしょうか?
「体が……楽だ」
朱色が施された雅な狐の白面がカラリと音を立てて東屋の石床に落ちた。つい今し方まで白面を押さえていた手が掻きむしるようにしていたせいか面を結ぶ紐が解けていた。
楽。という言葉を聞いて両の瞳を開いてしまっていた。驚きと喜びに満ちつつ、戸惑いの色を隠せない怜弥様の声に心が惹かれていたから。
「怜弥様……お顔が」
美しい。
女性とも見紛うほどの美麗な顔立ち。もちろん男性らしい端正なお顔ではあるけれど。
驚きを隠せないように長い睫毛がぱさぱさとまばたいている。切れ長ではあるけれど少し垂れた目尻には苦しみから解放された雫が溜まっていた。すっきりとした高い鼻筋。艶のあるシュッとした唇。滑らかな白い肌。
肌の爛れが完全になくなったわけではなく、ところどころに残っているはけれど凌恂様と並ぶ、いえ、凌ぐほどの美男だった。
だけれども……
「日向? どうした? む。なぜだ。日向の瞳の色が赤ではなくなっている。そうだな。よくある普通の色だ」
息を飲んで驚くわたしの瞳に視線を向ける怜弥様がいる。何が起きているか理解できてないといった面持ちだった。
「怜弥! 顔が治ってるじゃないか!」
わたしの一言を耳にした凌恂様が怜弥様の両頬を押さえていた。凌恂様に視線を向けないようにしているせいか、苦しまれることはないようだった。それもまた不思議に思いつつ、お二人のやりとりをただ眺めていた。
「なん……だと?」
自らの顔に何度も手をあてて撫でるようにして感触を確かめていらっしゃる。滑らかな手触りに驚いているような怜弥様が勢いよく立ち上がって大池まで駆け寄ると水面を覗き込んでいる。
「まさか……呪いが解けたのか?」
「いや。水面では分からないだろうが、呪い紋は残っている」
「そう……か。穢れが消えたわけではないか。いや、爛れがここまで消えただけでも信じられん」
桜の花びらが揺れる水面では鏡のように自らを確認することはできない。水面から視線を外して振り返る怜弥様がわたしのことを見ていた。
やはり綺麗なお顔立ちをしているけれど……。
わたしの瞳にその紋様がはっきりと確認できた。
鼻筋の左側から右眼を通り越し、額に向かう黒い異形の影。歪な長い爪、まるで餓鬼のように朽ちた鬼の手が紋様として怜弥様の美麗なお顔に刻まれていた。それは恐ろしく禍々しく見えて蠢いているようにさえ錯覚を覚えさせるものだった。
これがどういったものかはともかくとして、先ほどまであれほど苦しんでいた怜弥様の容体が心配だった。
「怜弥様。お身体のお加減はいかがでしょう? 痛みませんか?」
「すこぶる良い。奇跡のようだ」
呪い紋と言われた紋様はともかく。お肌の色艶も良く、爛れが消えた痕は嘘のように滑らかになっていて爽やかな笑顔を見せてくれている。
わたしの心臓の鼓動が跳ねるほどに綺麗で朗らかな表情だった。
「怜弥、これは一体どういうことだ。あれほど苦しんでいた穢れがだいぶ和らいでいるじゃないか。日向さんの瞳に晒された途端じゃないか。これは日向さんの力によるものなのか?」
わたしの瞳に? わたしの力?
そんなことはないはず。わたしは無能の異形なのだから。
「俺にも分からん。凌恂。お前こそ苦しかったのではないか?」
「いや。そういえばもう何とも。ぐあ!?」
わたしは怜弥様から視線を外さずにお二人のやりとりを聞いていた。怜弥様が凌恂様へとお声をかけていらしたことで、うっかり視線の先にいた凌恂様に瞳を向け直してしまっていた。
「日向さん! お、俺を見ないでくれ! その黒々しく丸く輝く瞳はなんだというんだ!?」
「も、申し訳ありません!」
今度は軍刀の切っ先を向けられることはなかった。
もがいて苦しむ凌恂様から顔を背ける。
加えて言うなら怜弥様を見ることをしてはいけないとも思った。何がどうかはともかくわたしの瞳を恐れない人はいなかったのだから。
わたしの瞳の色と形が変わることは高輪で散々恐れられ、忌み嫌われて蔑まされていたから知っている。
うっかりわたしの瞳を晒そうものなら悲鳴を上げられ、それは酷く醜い言葉でなじられたものだから。
だけれども、わたしの瞳に映った人がこんな風になることはなかった。まったく訳が分からない。一体何が起こっているというのでしょう。
「日向。もう一度俺を見てみろ」
「み、見れません。わたしの目は穢れています」
顔を背けたまま瞼を閉じて両手で瞳を隠した。
早く巻木綿(包帯)を大池から拾って目に巻かないといけない。
高輪では色と形の変わった瞳を家族に向けようものなら妹の清浄の炎で灼かれていた。幼い頃から受けた手酷い仕打ちの数々で無感情になったわたしだけれども炎に灼かれる恐怖は耐え難かった。
「主人の言うことが聞けないのか? 良い。俺を見ろ」
怜弥様はわたしのことをよく解っていらっしゃる。
そのように言われては逆らえない。
高輪にいた頃から何よりも命令が絶対だった。
怜弥様の口元が笑っている。
いえ。狐の白面に隠されているので表情はまったく分かりません。だけれどもそんな風にしか思えなかった。
いけない。またやってしまった。ほっと息をついたり緊張したりすると手を丸めて顔や髪を撫で付けるようにしてしまう癖が出ていた。この仕草はもう何度も目撃されていてその度恥ずかしかった。
「日向。ここへ来い」
「え? ですが」
「いいから来い」
「は、はい」
そこまで指示をされたからには行かないわけにはいかない。主の命令は絶対だ。
怜弥様に視線を送りながら足を進めたその時。
誰のなんの悪戯か春の嵐のように風が吹いた。
たくさんの桜の花びらが舞い散り空を隠すようだった。無数の枝を風が激しく揺らす。東屋へと向かい歩いていたわたしの顔を花満開の枝が掠めた。
「あ!」
「日向!」
「大丈夫かい!? 怪我は!?」
東屋に設けられた腰掛けから立ち上がって様子を伺うお二人の声にわたしを心配する色があった。
わたしとお二人をまるで隔てるようにたくさんの桜の花びらが舞っている。花びらの向こうに怜弥様が見える。
怜弥様が花びらの隙間から見えた時に感じた。狐の白面に隠された怜弥様の表情がわたしのことをとてもとても心配していただけているのではないのかと。
そう思ってしまった。だから、怜弥様の全身を見つめ返していた。
病に臥せて苦しむ姿をもう見たくないと。健やかに微笑むそのお姿をわたしの瞳に映したいと。
「はい。何も問題はございません。どこも痛みはありませんし、怪我もございません」
春風が止んだ。舞っていた桜が地に落ちて大池の水面に揺蕩う。
「日向さん?」
「日向。目が……」
「え?」
なんでしょう?
怜弥様と凌恂様がわたしの顔を見つめて不思議な顔をしている。
「あ」
気づいた時には遅かった。顔に手をやると巻木綿(包帯)がない。春の強い風に攫われて大池の水面に揺蕩っていたのだ。
わたしの瞳を見ないでください!
そう口にするよりも早く、怜弥様に異変が生じていた。
「ぐ、うう」
「どうした怜弥!?」
怜弥様が体をくの字に、狐の白面を押さえてひどく苦しんいる。なんの病かは未だに知らされてはいない。けれど明らかにこれまでよりも激しい変調をきたしているように見えた。
間違いなく容体が急変し、悪化しているように思われた。
「怜弥様! お部屋にお戻りになりましょう!」
上月家に嫁入りした者としての役割を果たそうと、いえ、一人の人間として怜弥様を支えたいという思いで手を伸ばした。
手を伸ばすと激しく咳き込む怜弥様の手がわたしに縋り付くように顔を掠めていた。
「その細く赤く輝く目はなんだ!?」
目にきつく巻いたつもりの巻木綿(包帯)は春風に攫われてすでにない。そのことに改めて動揺しつつ、目を見開いたわたしの瞳にはっきりと怜弥様のお姿が映っている。怜弥様の目には赤く輝くわたしの瞳が映っているのだろう。
「赤い目?」
疑問の声を真っ先に上げた凌恂様のお姿もわたしの瞳に捉えてしまっていた。
「ぐ!? 俺には黒々しく丸く輝いて見えるぞ!?」
胸を押さえる凌恂様のお顔が苦しげだ。
「も、申し訳ありません! わたしの瞳を見ないでください!」
顔を背けて瞳を隠す。とうとう見られてしまった。しかも赤と黒の二色も。赤く輝く瞳は猫目のように細く、輝く黒は常人の瞳にあるような黒色ではなくて大きく丸く黒より深い黒となる。
わたしの目の前で、怜弥様と凌恂様が苦しみ出している。
これは一体どういうこと。こんなことは初めてだった。
「くそ! まさか瞳術か! 刺客ではあるまいな! 僕か! それとも怜弥か! 気を許したところで命を狙ったのか!? 無能の異形と言う話は欺くためか!」
立て掛けられていた軍刀を手にして抜き放たれた刃が春の陽射しを受けて反射している。凌恂様の構える刃が今にもわたしの小さな体を斬りかからんばかりだった。
わたしが無能の異形という風に広まっているのかどうかは知らないけれど、凌恂様の耳には間違いなく届いているのですね。軍に属しているような方にも広まっているとするなら、それこそ知らない人はいないのかも知れません。
もしも上月家からも居場所がなくなってしまえば……高輪に戻ることさえできず、もうどこへ行く宛もないと確信できる言動だった。
「欺くなどというようなことはございませんが、無能の異形というのはその通りでございます。今まで黙っていて申し訳ございません。お斬りになりたければ如何様にも」
そう。別に斬り殺されても問題はない。
命が終わるだけ。
これまで、自ら命を断つ事はできなかったけれども、いつどのように死したとしても何の未練もない。そう思うと心が静かになった。
ただギンコさんにお別れを言えないのは寂しい。
それに、怜弥様がお元気になられたお姿を見ることができないのは忍びない。
瞳を閉じた。
直立して姿勢を正す。閉じられたわたしの瞳には何も映っていない。これまでに生きてきたことを思い返すと、空っぽの心は冷え切って未来もない。
ただ、暗いだけだ。心臓の音が静かに耳に響いている。
この時には気づかなかった。
わたしは思い違いをしていたのだ。
怜弥様とギンコさんとの関係に未練があったことを。
心臓の音に僅かに感じる変化があったことを。
決して心が空っぽではないことを。
「待て凌恂。刀を下ろせ」
「どうした!?」
落ち着きながらも戸惑いを隠せない声で制止を求める怜弥様がいる。
それに対してなぜ止めると言わんばかりの反応を声に表す凌恂様。
閉じた瞳には何も見えていないけれど何かあったのでしょうか?
「体が……楽だ」
朱色が施された雅な狐の白面がカラリと音を立てて東屋の石床に落ちた。つい今し方まで白面を押さえていた手が掻きむしるようにしていたせいか面を結ぶ紐が解けていた。
楽。という言葉を聞いて両の瞳を開いてしまっていた。驚きと喜びに満ちつつ、戸惑いの色を隠せない怜弥様の声に心が惹かれていたから。
「怜弥様……お顔が」
美しい。
女性とも見紛うほどの美麗な顔立ち。もちろん男性らしい端正なお顔ではあるけれど。
驚きを隠せないように長い睫毛がぱさぱさとまばたいている。切れ長ではあるけれど少し垂れた目尻には苦しみから解放された雫が溜まっていた。すっきりとした高い鼻筋。艶のあるシュッとした唇。滑らかな白い肌。
肌の爛れが完全になくなったわけではなく、ところどころに残っているはけれど凌恂様と並ぶ、いえ、凌ぐほどの美男だった。
だけれども……
「日向? どうした? む。なぜだ。日向の瞳の色が赤ではなくなっている。そうだな。よくある普通の色だ」
息を飲んで驚くわたしの瞳に視線を向ける怜弥様がいる。何が起きているか理解できてないといった面持ちだった。
「怜弥! 顔が治ってるじゃないか!」
わたしの一言を耳にした凌恂様が怜弥様の両頬を押さえていた。凌恂様に視線を向けないようにしているせいか、苦しまれることはないようだった。それもまた不思議に思いつつ、お二人のやりとりをただ眺めていた。
「なん……だと?」
自らの顔に何度も手をあてて撫でるようにして感触を確かめていらっしゃる。滑らかな手触りに驚いているような怜弥様が勢いよく立ち上がって大池まで駆け寄ると水面を覗き込んでいる。
「まさか……呪いが解けたのか?」
「いや。水面では分からないだろうが、呪い紋は残っている」
「そう……か。穢れが消えたわけではないか。いや、爛れがここまで消えただけでも信じられん」
桜の花びらが揺れる水面では鏡のように自らを確認することはできない。水面から視線を外して振り返る怜弥様がわたしのことを見ていた。
やはり綺麗なお顔立ちをしているけれど……。
わたしの瞳にその紋様がはっきりと確認できた。
鼻筋の左側から右眼を通り越し、額に向かう黒い異形の影。歪な長い爪、まるで餓鬼のように朽ちた鬼の手が紋様として怜弥様の美麗なお顔に刻まれていた。それは恐ろしく禍々しく見えて蠢いているようにさえ錯覚を覚えさせるものだった。
これがどういったものかはともかくとして、先ほどまであれほど苦しんでいた怜弥様の容体が心配だった。
「怜弥様。お身体のお加減はいかがでしょう? 痛みませんか?」
「すこぶる良い。奇跡のようだ」
呪い紋と言われた紋様はともかく。お肌の色艶も良く、爛れが消えた痕は嘘のように滑らかになっていて爽やかな笑顔を見せてくれている。
わたしの心臓の鼓動が跳ねるほどに綺麗で朗らかな表情だった。
「怜弥、これは一体どういうことだ。あれほど苦しんでいた穢れがだいぶ和らいでいるじゃないか。日向さんの瞳に晒された途端じゃないか。これは日向さんの力によるものなのか?」
わたしの瞳に? わたしの力?
そんなことはないはず。わたしは無能の異形なのだから。
「俺にも分からん。凌恂。お前こそ苦しかったのではないか?」
「いや。そういえばもう何とも。ぐあ!?」
わたしは怜弥様から視線を外さずにお二人のやりとりを聞いていた。怜弥様が凌恂様へとお声をかけていらしたことで、うっかり視線の先にいた凌恂様に瞳を向け直してしまっていた。
「日向さん! お、俺を見ないでくれ! その黒々しく丸く輝く瞳はなんだというんだ!?」
「も、申し訳ありません!」
今度は軍刀の切っ先を向けられることはなかった。
もがいて苦しむ凌恂様から顔を背ける。
加えて言うなら怜弥様を見ることをしてはいけないとも思った。何がどうかはともかくわたしの瞳を恐れない人はいなかったのだから。
わたしの瞳の色と形が変わることは高輪で散々恐れられ、忌み嫌われて蔑まされていたから知っている。
うっかりわたしの瞳を晒そうものなら悲鳴を上げられ、それは酷く醜い言葉でなじられたものだから。
だけれども、わたしの瞳に映った人がこんな風になることはなかった。まったく訳が分からない。一体何が起こっているというのでしょう。
「日向。もう一度俺を見てみろ」
「み、見れません。わたしの目は穢れています」
顔を背けたまま瞼を閉じて両手で瞳を隠した。
早く巻木綿(包帯)を大池から拾って目に巻かないといけない。
高輪では色と形の変わった瞳を家族に向けようものなら妹の清浄の炎で灼かれていた。幼い頃から受けた手酷い仕打ちの数々で無感情になったわたしだけれども炎に灼かれる恐怖は耐え難かった。
「主人の言うことが聞けないのか? 良い。俺を見ろ」
怜弥様はわたしのことをよく解っていらっしゃる。
そのように言われては逆らえない。
高輪にいた頃から何よりも命令が絶対だった。
