狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

「奥様。日に日に美しなってやしませんか? なんてぇかこう、お顔は拝見したこたあないですけど明るくなってますねえ!」
「え? そんなことは……」

もうすぐ西陽が傾く頃。今日はいつもよりも遅い時間に行商さんが上月家を訪れていた。

何を突然にどうしたのでしょう?
いつもいらしていただく行商さんからの買い物を終えたところで摩訶不思議なことを話し始めるものだから、困るというよりも面食らってしまう。
この行商さんの前でももちろん巻木綿(包帯)をしているから素顔を晒したことはないのに、そんなことを言われるとは夢にも思わなかった。

「いや、間違いねぇですよ。初めてお会いした時は言っちゃ悪いがジメッとされて、そりゃあ陰気な……おっといけねぇ。奥様、最近流行の化粧品なんかもうちで扱ってますんでお持ちしますわ! きっと旦那様に喜んでいただけると…………おっといけねぇ! こんな時間だ! すいやせん! 次があるんで今日はお暇しますんで! また旬の食材をお持ちしますんでご贔屓を!」

「あ。はい。またお願いします」

自分からそんな話をしてきたのに。軽く見上げてから急に血相を変えてあっという間に帰り支度をするとそそくさと荷車を引いて走り去っていた。
少し失礼なことを言われた気もするけど、わたし自身も自分に対する評価が同じだから特に気にすることもない。
毎回毎回、ほんとによくしゃべる人だけど。

「急にどうしたんでしょう?」
「日向」
「ひゃい!」

背後から急に名前を呼ばれて心臓がどきりとしてしまった。振り返ると怜弥様が両腕を組んで身構えるようにしている。いつも通り狐の白面をお顔につけていらっしゃるので表情は分からないけれど何か物々しい雰囲気を感じた。

「ふん。行商はいつもの奴か。調子のいいことをほざいていたな」

調子のいいこと。確かにその通りだと思う。
だけどなんでしょう? 何かご機嫌が悪いような。何か気になることでもありましたか?

「日向……行商が言っていたこと……化粧がしたいか?」
「化粧ですか? いえ。わたしはこの通り目を患っておりますので必要ございません」

巻木綿(包帯)で隠したままのわたしの目のことはずっと話していない。
病、という漠然としたことしか伝えていないのだ。
説明はまったくしていないけれど詳しくは聞かれなかった。それはきっと、怜弥様の病についても教えられていないことへの代わりなのだろうと思っている。

お互いに脛に傷を持つ。そんな風に触れてはいけない暗黙の了解のようなものがあったのかもしれない。
わたしが無能者で高輪では忌み嫌われていた存在ということはとうに知られているのだから。

それに、化粧道具については嫁入りしたあの日に持ってきていたもので十分だ。実のところ化粧らしいことはあまりしていないのでまったく減ってもいない。
だから新品の流行りの化粧道具なんていう華やかなものはわたしに必要ないものだもの。

流行りにも色々ある。
化粧道具というと、少し前までは欧米から輸入していた舶来品が上流階級のご婦人たちの間で人気を博していた。
庶民である世の女性たちにはとても手の届かないものだったけれど、大衆向け婦人雑誌を元に新しい化粧法が広まったこともあり、最近になって普及し始めた国産品をこよなく愛用するようになっているという。

化粧下地のクリームに粉白粉《こなおしろい》とパフが入った鏡付きのコンパクト。眉を細く剃り美しく見せる眉墨に健康的な美しさを表現する頬紅。そして唇に紅を差す棒紅《リップスティック》は便利で重宝される。目をぱっちりと大きく見せるまつ毛の化粧法としてマスカラやビューラーなんて道具も登場している。

どれもわたしには縁のないものだけれど、妹の葵と母は高額な舶来品を惜しみなく使い、上流階級の社交界やサロンでは美しさを競っていた。
豪華な酒席《パーティー》を開くこともある高輪では当たり前のこと。
だけれど……さっぱりした薄化粧に仕上げるのが定番らしいのに二人とも化粧が少し濃かったのではないだろうか?

使用人として働いていたわたしはそんな様子を給仕をしながら眺めていた。
比べると、わたしは疲れた肌をしていて水仕事でガサガサと荒れた手は比べるべくもなかったものだ。
高輪にいた女中の方がよほど流行に敏感で、目を盗んでは美しく変身できる化粧法について華を咲かせていたことを耳にしていた。

「そうか……買った物はこれで全部か。台所に持っていけばいいな」

え。怜弥様が?
行商さんから買い上げた食材は木製の縁台の上に敷いてある風呂敷の上に乗っている。疑問に思ううちに風呂敷の端をつまんで結び始めていた。

「いけません怜弥様。お身体に障ります。わたしが運びますのでどうかお休みになっていてください」
「気にするな。体調ならそこまで悪くはない」

怜弥様は最近おかしい。
少し前までは、夜のお勤めを除くとお部屋から出ることもなく、酷い咳に苦しまれて床に臥せているか、文机に向かい万年筆を走らせているばかりだった。
最近でもお具合の悪いときは多い。それでもわたしが嫁入りした頃に比べればいくらか減っていた。
つまりお元気な風にされている時間がある。たった今、目の前でされているように。

いえ。それ自体はとても喜ばしいことではあるからそれはいい。
それはいいけれど、なぜかわたしの前に現れることが増えているのでは?と思うことがある。とは言っても短い時間のこと。

両手に抱えた風呂敷をものともしないで足を進めている。慌てて後を追いかけた。

「お待ちください。わたしも運びます」
「待たん。運ばんでいい」

素っ気ない答えが返ってきた。
なんでしょう? 一体どういうことでしょう?
訳が分からない。

「関守石《せきもりいし》から外に出るな。いいな」
「はい。心得ております」
「それならいい。俺は部屋に戻る」
「はい。お食事が出来次第お持ちします」

お辞儀をして見送ったはずがお食事の話にぴたりと立ち止まる怜弥様。

「む。今日はなんだ?」
「え? そうですね。今日はうちの鶏たちの卵と春菊で厚焼き卵にいたします。もちろん油揚げもございますから。蕪《かぶ》と一緒にお味噌汁にいたします。他には……」

今日はお肉もお魚もないけれど。いつだったか怜弥様に言われた通りお料理の幅を狭めることなく、やりくりしながらお好みのお食事をご用意している。

「ふふ。そうか」

朱色が施された狐の白面が背を向けた。台所からお姿が離れていく。心なしか足取りが軽いように感じられる。
今……もしかすると……ほんの少しだけ笑い声を上げられた?

「日向様。遅れて申し訳ありません。夕餉のお支度を……どうされましたか?」

勝手口からやってきたギンコさんが立ち止まったままのわたしを見て不思議そうにしている。

「あ。いえ。なんでもありません」

素知らぬ顔をして答えてしまっていた。とは言っても巻木綿(包帯)で隠されたわたしの表情は読み取りにくいものと思う。

「うふふ。先ほどまで怜弥様がいらしたのですよね。何かいいことでもございましたか?」

ギンコさんが口元に両手を添えて悪戯っぽく微笑んでいる。
もしかして……ずっと見ていたのではないでしょうか?

「え。いえ。いえはい。今日は体調が良いとのことで裏門からたくさんの食材を運んでいただいたのです。おかげ様で往復をしないで楽をさせていただきました」

素直にあったことを言う他ない。
高輪の女中や妹のようにわたしを貶めるような嘘を言う必要はないのだから。

「それはようございました。日向様、怜弥様の良いところは発見されましたか?」
「その……分かりません」

良いところと言われても……。
この老婦人は嫁入りしたすぐ後からずっと、怜弥様のこととなるとまるで教えてくれないのだ。だからいつも困ることになる。

「そうですか? ですが日向様。とても楽しそうにしていらっしゃいますよ」
「わたしが、ですか?」
「はい。怜弥様に向ける表情が、日向様の頬が緩んでいらっしゃいましたから」

この老婦人はやっぱりずっとわたしと怜弥様のことを見ていたらしい。
お人が悪いです。
それはともかく。わたしの頬が緩む?
そんなことがある訳がない。

「日向様。こちらに初めていらしていた頃よりもだいぶ雰囲気が柔らかくなっておいでです。お優しい笑顔が素敵でございますから。うふふ。しばらく笑っていただくことがなかったのでわたしは嬉しいですよ」

笑う? わたしが? 本当にそんなことが?
わたしの心には何もないはず。わたしはずっと、笑うことも悲しむことも怒ることもない空っぽの心なのだから。

そして幾日。
このところ少し変化を感じていた。
配膳だろうとお掃除だろうと、あれほどにわたしを寄せ付けようとしなかった怜弥様の冷たい物言いがほんの少しだけ柔らかくなっている。そしてそれが連日のように続いているのだ。

怜弥様の居室を掃除をしていた時のこと。

『日向。余計なことはするな。そこまでしろとは言っていない。それよりもだな……もう少し身なりに気を遣え。いくらかは自分のことを気にしないでどうする。しっかり精進しろ』

ふと、文机の見えないところの埃が気になって整頓していたら厳しい口調で注意をされてしまった。怜弥様ご自身で管理されているのだから当然のこと。うっかり手を出してしまったことに謝罪をした。
そして、わたし自身のだらしなさも注意をされてしまった。掃除をする時は高輪にいた頃と同じ傷んだ着物を身につけていた。形だけとはいえ妻であるわたしがみすぼらしければお気に召さないこともあるだろうと思う。

後日。ギンコさんから新しい着物が渡された。素朴ではあるけれど華やかなものだった。どうも怜弥様が用意してくださったらしい。

そしてまたある日。
お日様のあたたかい光が届かない冷えた板間で拭き掃除をしていた時のこと。

『なんだこの桶に入った水は。ギンコに聞いたところ凍えるほどの冷水で毎回毎回掃除をしているそうだな。身を粉にするのはいいが……自身を顧みないほど体を酷使するのはどういうことだ。ふざけるのも大概にしろ。しっかりしてから働け。……寒さが体に堪えるだろう。今日は陽がいい。ここはそろそろ終いにして縁側の掃除でもするがいい』

おかしい。口調は厳しいところがあるのに、なぜか叱責を受けた気がしない。
なぜか言葉の奥に冷たさ以外のものが感じられた。

そんな日々を過ごしている。怜弥様とわたしはすれ違うほどのほんのわずかな時間を共にするようになっていた。なぜか怜弥様からわたしの方へと近づいてくるのだ。
最初は気にいらないことを注意するための行動だと思っていたけれど……。
いつしか、わたしから怜弥様に瞳を向ける時間が増えていた。早く病が癒えるようにと願いながら。

そして、最近になって気づいたことがある。初めて屋敷を訪れた時に感じた寒気が走るほどの陰鬱とした気配が和らいでいる。最も淀んだ空気であふれていた怜弥様の居室もまた、その陰鬱とした気配が薄らいでいた。
ギンコさんにも注意をされるほど、高輪にいた頃よりもさらに身を粉にして拭き掃除をして、雑草を取り除き、隅から隅まで埃を払った甲斐があったのかもしれない。

そう。小さいことだけれど、確かに変化している。
わたしの心も。
怜弥様のお心も。

もう冬の終わり。
まだ冷えた空気を暖めるように、早春の陽射しがお屋敷を照らしている。
……何かが変わり始めている。