狐に嫁入り 溺愛浪漫譚〜冷たい結婚のちに甘々溺愛

「ただいま参りました」

畳に座して座敷の襖を閉め、拳でにじり向き直って指をつく。少しでも所作を誤れば厳しい叱責が待っている。畳に手のひらを預け、深く深く礼をする。

目に映るのは赤く擦り切れた手指。冬の水仕事で荒れた手は自分のことながら痛ましく、傷み古びた着物ごしに感じる畳は硬く冷たかった。

上座には父。下座に母と妹が向かい合っている。金糸が織り込まれ厚みのある座布団にそれぞれが座して待っていた。

「お姉様。相変わらず陰気くさくいらっしゃるのね。お父様とお母様に笑顔の一つでも差し上げられないのかしら」

冷たく蔑むような物言いだけれども、氷などとは比べようもないほどに冷え切ったわたしの心にはなんの感慨も浮かばなかった。
顔をわずかに上げて声の主に薄目を送る。汚物でも見るかのような視線が突き刺さる。
いつもと変わらないわたしへの侮蔑の表情。それに対して能面のような面持ちで瞳を伏せた。

「葵《あおい》様。申し訳ありません」

双子の妹、葵様に頭を垂れて謝罪する。
いつの頃からだったか、わたしは妹のことを葵様と呼ぶのが当たり前になっていた。

刺繍や絞り、贅を尽くした艶やかな正絹着物に身を包むその姿は、わたしが着ている使用人以下のほつれて傷んだ着物と比べると雲泥の差だ。

絹のような美しい黒髪に白磁のような滑らかな肌が明かりに照らされて輝いている。
比べてわたしは……やつれた髪にガサついた肌。化粧道具をろくに手にすることもできず貧相極まりない姿でいた。
瓜二つな双子でありながらなぜこうも変わってしまったのか。同じように両親から愛されていれば妹と同じく美しく華やかでいられたはず。

「日向《ひなた》。葵《あおい》。急ではあるが、お前たちの嫁ぎ先を交換することにした」
「お父様! とうとうご決断いただけたのですね!」

政財界で名の知られた名家である高輪家の当主。今年で十八歳になるわたしたち双子の父、高輪正保《たかなわまさやす》の言葉に妹が歓喜の声をあげている。

「久世家の家督を継がれる久世和光《くぜかずみつ》殿には葵に嫁いでもらう」

父の言葉に花が咲いたような笑みを浮かべる妹。

「日向。お前は上月怜弥《こうづきれいや》に嫁ぐがいい」
「お姉様。旧家の中でも特に古い歴史を持つ上月家に嫁げるなんて羨ましいですわ。それに比べてわたしは新参の出である久世家ですから」

嘲笑めいた笑顔を浮かべて心にもないことを言う。
父にしてみても、久世和光《くぜかずみつ》様には敬称をつけているのに上月怜弥様に対しては敬称もつけずに呼び捨てにしている。それは家の格を無視した明らかな侮蔑の表現だ。

久世家は歴史こそ浅いものの政界、財界はもちろん軍務にも大きな影響力を持つ名家だ。若くして当主となる久世和光様はその美貌もさることながら辣腕を振るい飛ぶ鳥を落とす勢いでその地位を不動のものにしていると聞いている。

比べて……
上月家と言えば、古くから帝に仕えその名を知らぬものはいないという家柄。でもそれは昔の話。長い歴史の中で築いた富も権力も栄華も地に落ち、今やどの派閥や組織にも影響力はなく過去の名声だけが残されていると聞いている。

そして一番の問題は先般家督を継いだばかりの後継者、上月怜弥様だ。
伝え聞くところによると幼い頃から病魔に冒され、成長とともにその顔は焼け爛れるようになり、成人する頃には見るに耐えないほどの容貌になってしまったとか。
今も病の床に臥しているそうだ。女性に対して冷酷でそれは手酷い扱いをするという。そのため縁談の話があっても日を置かずに逃げられてしまうそう。お家を途絶えさせかねない者が後継となるのも他に後継者がいないからなのだとか。

「お前が上月家に嫁ぐことで帝を始めとした旧家名家にも太い繋がりを持つことができる。誇らしく思うといい」
「日向。お父様の配慮に感謝なさい。高輪家から上月家への多額の資金援助のおかげです。お前のようなものが嫁ぐことができるだけ幸せというものでしょう」

お母様の言葉に、なにが幸せなのだろう。どこが幸せなのだろう。と思わずにはいられなかった。
配慮とは誰に対するものなのか……。

高輪家は上月家と比べても遜色のない歴史がある名家ではあるけれど、それは初代が築いた功績によるもの。その後は特に長じた功績を残すこともない、特段目立つことのない家柄で旧家、名家にもあまり知られることのないお家だったそう。

そういうお家であったわけだけれども、わたしたち双子が生まれた頃から政財界で頭角を現していた。お父様の手によって再び成り上がったのだ。とはいえ、それまでは名を潜めていたこともあって新参者とも言えるような立場でもあった。

わたしを上月家に嫁がせるお父様の思惑は一つ。
地に落ちたとは言え、帝と縁のある上月家の名を少しでも利用して更なる富と栄誉を得て不動の地位を築きたいのだろう。つまり旧家として名声名高い上月家の家柄を重視したに過ぎないこと。わたしは高輪家が高貴な者の縁者となるために金で売られる生贄のようなものなのだ。

「……ありがとうございます」

今一度、手をついて頭を下げる。
間もなく死を迎えるかもしれない男性のところに嫁ぐ。歴史も名声もある旧家とはいえ、病に臥した当主の元では懐事情は厳しく破綻寸前という。

捨てられたも同然の仕打ちにも心が揺れ動くことはなかった。
生きていることさえ辛いというのに、どこへ行こうともそれは変わらない。

「上月家へ嫁がせていただきます」

面《おもて》を上げてお母様に無感情な視線を送る。

「ひっ! そ、その不気味な白い目で見ないでちょうだい!」

お母様が青ざめて怯えている。
ああ。またわたしの瞳の色が変質しているのか。
この世のものとは思えないわたしの瞳。普段は薄茶色の丸い瞳。お母様の姿を捉えているわたしの瞳は今、白く輝き縦長に細くなっているのだろう。
生まれて数ヶ月後から瞳の色と形が変わることがよくあったという。妹にはその特徴はなくこの国のものならば当たり前にある黒い瞳だった。

この瞳のせいで異形と呼ばれ、幼い頃から使用人以下の扱いをされ、使用人にも気味が悪いと言われる日々。
家族とは遠ざかるようになり共にいる時間はそう多くはなかったけれども、高輪家の一員でもあることから殊更に目を隠すことは禁じられ過ごしてきた。その分、穢れた瞳を晒してきた。

幸い食事はそれなりに与えられ死を感じるようなことは多くはなかった。
急成長を遂げる高輪家としては死者を出すことは縁起が悪いと、生きることができるだけの最低限の施しを受けていたのだ。

「この穢れた化け物め!」
「あっ!」

言葉と共に手を振るいながら立ち上がる妹の手が陽炎《かげろう》のように揺らめいていた。
眼前に突如現れた赤い炎の塊がわたしの肩口を焼いて天井を焦がす。着物の一部が燃え散って白い肌が灼かれていた。
異能の力。
鬼を討ち魔を祓う清浄の炎の力だ。

「ふむ。良い滅炎《ほろほの》だ。葵には色濃く受け継がれたその力、さらに向上しているようだな」
「久世家では大いに持て囃されそうですわね」
「ええ。無能のお姉様とは違って高輪家初代様の再臨とまで言われてますもの。必ず久世家の、和光様のお役に立って見せますわ」

焼けた傷口を荒れた手で押さえるわたしは苦痛で顔を歪めていた。
そんなわたしを妹の蔑んだ目つきが見下ろしている。

滅炎《ほろほの》と呼ばれる高輪家固有の異能は代々受け継がれる赤い炎で、初代様は強大な力を有していたという。だけれどもその力は代を追うごとに弱くなっていったということだった。実際、父の異能の力はそれほどのものではないらしい。
三人の話の通り、高輪家固有の異能は妹の才として色濃く受け継がれている。わたしには少しも発現しなかったけれど。

帝都を脅かさんとする魔と厄を打ち滅ぼすために新設された帝国軍に属する討滅部隊がある。
その立役者となった久世家に嫁として望まれるのもの当然のことだった。久世家としても高い異能の力を持つ血筋が欲しいのだ。より強い後継者を産むために。この場に同席はしていないけれど高輪家には長兄がいるので後継者に問題はない。

「だが葵。座敷で炎を用いては危うい。いささか時を挟むとはいえ上月家に嫁ぐというのに傷物にされては困る」
「はい。お父様」

わたしを一瞥してからお父様に礼をして座布団へと戻る妹。口角の片側が気持ちよさそうに上がっている。
さぞや楽しい思いでいるのかもしれない。

「日向、上月家ではその異形の目を隠して過ごすが良い。滅されたくなければな。そして何があろうと高輪に戻ることがあってはならぬ。もし出戻ることがあればその身、灼きつくされる覚悟をするが良い」

お父様の言葉を聞いて妹がほくそ笑むようにしている。
わたしへの物言いと妹への物言いではまったく受ける印象が違うものだった。
お父様の言葉を聞いて思う。
高輪家固有の清浄の炎で灼かれるわたしは鬼や魔と変わらぬ異形の者なのかもしれない。それでも殺されることのないわたしは、ほんの少しでも愛情があるのかと幼い頃は淡く期待することもあった。けれど、わたしという存在は高輪家の繁栄のためだけに利用したいだけのものなのだと思うしかなかった。

「……心に留め置きます」
「話はこれで終わりだ。二人とも下がってよい。日向、煤けた畳を拭っておけ」
「はい」

畳には焼け散った着物の灰が舞っていた。
お父様の指示に対して平伏の意を伝えるために畳に手をついて頭を垂れた。
わたしの頭の横を通り過ぎるお父様とお母様の足元だけを目にすることができた。

「お姉様。出戻るなんて悲しいことが起こらないようにお祈りいたしますわ。その時、お姉様を灼くのはわたしの滅炎《ほろほの》になってしまいますもの」

ご丁寧に腰を屈めてまでわたしの耳元で言葉を口にする妹。その口調はわざとらしく憐れみを感じさせるものだった。
開いていたわたしの瞳が静かに閉じられた。
襖が閉じられることなく三人の足音が遠ざかる。残されたわたし一人だけ、硬く冷たい畳にそのままの姿勢で座していた。すぐに心と体を動かすことができなかったから。

心……。
わたしの心になにを留め置くというのか。
わたしの心にはなにもない。
あるとすれば……なにも感じることのできない空っぽの心だけ。