八十八年目の星結び


「神獣とは神ではない! 古代より人を支配し続けてきた魔獣だ!」

 よく通る声だった。
 といっても、熱心に耳を傾けている人はほとんどいない。眉をひそめながら遠巻きにする人、小声で何かを囁き合う人、関わりを避けるように足早に通り過ぎる人。
 広場を行き交う人々の大半は、一瞥して素通りしていった。

「八十八年ごとの契約を見ろ。あれは人類を管理するための儀式だ。神獣が自ら脅威を演じ、恐怖で人々を縛り続けているだけだ。斎祀の家々はその共犯者に他ならない!」
 それでも演説は続いていた。
 中心に立つ男の声は少しも衰えていない。周囲の反応など織り込み済みとでも言うように、むしろ熱量を増しながら言葉を重ねていく。
 数人の仲間が周囲に散って、通行人に紙を押し付けようとしては断られていた。

「また来てるわね、あの人たち」
 広場に通りがかった中年の女性が、連れに小声で言った。
「先週も見たわよ、ここで」
「ほんとに懲りないわね。神獣様を魔獣呼ばわりなんて、罰当たりもいいところ」
「しっ、聞こえるわよ」
 二人は眉をひそめたまま、足を止めることなく通り過ぎていく。

「神獣は八十八年ごとに契約を更新させることで、人間を世代を超えて支配し続けている。気づいてほしい。あなたたちの信仰は、恐怖の上に成り立っているだけだ!」

 見回すと、似たような反応があちこちにあった。迷惑そうな顔、呆れた顔、哀れむような顔。
 正面から聞いている人も、紙を受け取る人はほとんどいない。差し出された手をさりげなく避けて、目を逸らして通り過ぎる。

 それでも男は叫び続けていた。
 信じてもらえていないとわかっていて、それでも続けている。その熱量だけは、本物だった。
「護家が何を言おうと、問い直せ! あなた自身の目で、神獣とは何かを考えろ! 八十八年ごとに何が更新されている? あなたたちの服従だ!」

「珍しいところにいるね」
 背後から声がして、私は飛び上がりそうになった。
 振り返ると汐凪が立っている。制服姿のまま、ごく自然にそこにいた。
「せ、汐凪さま」
「せっかくだし、少し歩こうか。どこか寄りたいところはある? この辺りに、少し前に新しいカフェが開いたと聞いたけど」
 にこやかな顔で、伺うように首を傾ける。何やらいつもより機嫌がよろしいご様子だ。勝ったのだろうか。

 その微笑みを眺めて一拍後、私は彼の袖を掴んだ。
「行きましょう」
「……ん?」
「行きましょう、早く」
 袖を引いたまま、返事を待たずに歩き出す。
 人混みの流れに紛れるようにして広場から離れた。不自然ではないくらいの速度を保ちながら、でも確実に遠ざかる。

 汐凪は抵抗せずついてきた。
「どうしたの?」
「あ、いや、その」
 言いながら、ちらりと後ろを確認する。広場の演説はまだ続いていた。
 こちらに気づいた様子はない。人混みの中に紛れてしまえば、もう判別もつかないだろう。

 よかった、と思ったところで、汐凪も視線を追って広場の方を見た。
「ああ」
 短く、静かに言う。
「反神獣団体か」
「ご存知で」
「活動が活発になっていると報告は受けていた。街中に出るようになったのは最近だけど」
 反神獣団体にとって、今この時期は格好の機会だ。再誓の儀の直前に声を上げることで、より多くの人の目を引こうとしているのだろう。
 人々の不安を煽り、疑念を植え付けようとしている。

 そして目の前にいる汐凪は、次期斎祀だ。
「あの人たちに、次期斎祀が目の前にいるって知られたら」
「……なるほど」
 汐凪は静かに言って、それからわずかに目を細めた。
「確かに、あまり好ましくはないね」
 好ましくない、というのは控えめな表現だと思う。

 反神獣団体も一枚岩ではない。神獣への批判を言葉で訴えるだけの者もいれば、加護の契約そのものの破棄を声高に主張する者もいる。
 そして過激な者になると、「神獣を詐称する魔獣を討伐すべし」とまで言い出す。
 ただどの立場であれ、神獣の存在を忌避する彼らにとって、再誓の儀は最も妨害したい標的であることに変わりはない。
 その当事者が目の前にいると知れれば、何をしてくるかわからない。

 広場が見えない大通りへ出てから、ようやく袖を放した。
 汐凪は放された袖を一度だけ見て、それから私へ顔を向ける。
「見つかる前に離れたのは正解だ」
「ですよね」
「わかっていたなら最初から近づかない方が良かったけど」
 それはそうなのだが、足が動かなかったのだから仕方がない。

 その旨を正直に伝えると、汐凪は少し考えてから「まあ」と言った。
「気になる気持ちはわかるよ」
 彼は私を責めなかった。
 しかし。
「ただ、もし彼らに見つかっていたら厄介だった。君だって再誓の儀の担い手なんだよ」
 私はそれにぱちりと瞬いた。
 確かに汐凪が見つかることばかり心配して、自分のことは少し抜けていた。

 私は彼の傍らで夫婦舞を担う立場だ。
 斎祀ほどの霊力も地位も持たないが、儀式の成立に関わっていることは変わりない。
 契約更新を阻みたい反神獣の立場からすれば、斎祀に近しい人間は格好の標的になりうる。
 あるいは交渉の材料に、あるいは示威行為の対象に。

「……なるほど」
 理解した私の様子に、汐凪は小さく頷いた後、こちらを見つめながら静かに言葉を続けた。
「君が無事でよかった」
 あまりにも真っ直ぐな視線だった。
 気の利いた返事などすぐには思い浮かばず、私はわずかに視線を逸らしながら誤魔化すように髪へ触れる。

 それから、しばらく迷った末。
「……新しくできたカフェ、行きましょう」
 結局そう言った。
 汐凪はどこか嬉しそうに目を細めながら「そうしよう」と朗らかに頷く。

 二人、並んで歩き出す。
 広場の声は、大通りの喧騒に紛れてもう聞こえなかった。