再誓の儀からしばらく経ち、季節も少しだけ歩みを進めた放課後の教室。
窓から差し込む柔らかな夕陽が机を染める中、私は陸莉と向かい合って座り、持ち寄ったお菓子をつまみながら久しぶりに気の抜けた時間を過ごしていた。
「じゃあそれで全部解決か」
陸莉は相変わらず力の抜けた調子で言い、興味があるのかないのか判別しづらい目つきのまま、包装紙を弄ぶ。
「いやぁ、和沙おばさまから聞けた他の内通者、家でも団体でも下働きのような立場の人ばかりだったから、他にもいるかもしれないけどね」
「そうなんだ」
陸莉の返事は軽く、まるで遠い出来事を天気の話のように受け流しているようだった。
彼女は昔からそうだった。大抵のことに興味が薄く、驚くべき話を聞いても態度がほとんど変わらない。
「まぁ珠輝様も同じこと言ってたけど、周りに敵がいるかもしれないなんて今までも想定されてたことだから、前の通りに戻っただけだよね」
「再誓の儀も無事に終わったしね」
陸莉の言葉通り、ようやく一つの区切りが付いたことだけは確かだった。
もちろん問題がすべて消えたわけではないし、反神獣団体そのものがなくなったわけでもない。
それでも最悪の事態は避けられ、神獣との契約も更新され、日常は再び動き始めている。
陸莉は小学校の頃からの友達だった。
当時の私たちはいわば無気力仲間で、将来の夢だとか人生の目標だとか、そういうものとは縁遠い場所でぼんやり生きていた。
けれど今や私にも守りたいものや目指したい未来ができて、それなりに慌ただしい毎日を送っている一方で、陸莉は相変わらず力が抜けたまま暮らしている。
もっとも、以前その話をした時に「今はあんたの子に『陸莉おねえちゃん』って呼ばせることを目的に生きてる」と真顔で言われたので、彼女なりに人生の指針は見つけてはいるようだった。
そんな友人へ半ば愚痴るように、私は机へ頬杖をついた。
「おばさまにお手製のレシピ本貰ったから、今はそれの通りに作って練習してるんだけどさ……やっぱり化学法則を無視した結果が生まれるんだよね……」
「一回どっかの研究所で調べてもらったら」
真顔でそう言いながら菓子を口へ放り込んだ陸莉が、不意に教室の入口へ視線を向けた。
「あ、来た」
私もつられるように振り返る。
夕陽の差し込む廊下を背にして立っていたのは、委員会の仕事を終えたばかりの汐凪だった。
「じゃあ私は帰るから」
「はい、また明日」
立ち上がった私に向けて陸莉はひらひらと手を振り、私もそれに応えるように笑みを浮かべながら手を振り返す。
「またね」
そう言い残して教室を出た。
「お待たせ」
「いえ、お疲れ様です」
短いやり取りを交わしながら歩き出す。
放課後の校舎には部活動に励む生徒たちの声があちこちから響いており、運動部の掛け声や吹奏楽部の音合わせの音が夕暮れの空気に溶け込んでいた。
その活気を背中に感じながら昇降口を抜け、校門へ向かってゆっくりと歩く。
すると汐凪が何か思いついたように視線を上げた。
「帰る前に、少し歩こうか」
「いいですね」
急ぐ理由は特になかった。
浦霧には待機していてもらうよう伝え、二人だけで校門を出る。
どちらからともなく川沿いの道へ足を向けたものの、明確な目的地があるわけではなく、ただ並んで歩くこと自体を楽しむような穏やかな時間だった。
川面には傾き始めた夕日が映り込み、細かな波に砕かれた光が無数の欠片となって揺れている。吹き抜ける風は昼間よりも少し涼しく、草の匂いを運びながら川辺を静かに撫でていった。
「祭儀が終わって、なんだか実感がないです」
「俺もそうだよ」
私が呟くと、汐凪も同じように川面へ視線を向けながら頷く。
「あれだけ準備して、稽古して。終わったら、急に時間が空いて……」
「暇にはならないんだよね」
「ならなかったですねぇ……」
祭儀が終われば少し落ち着くと思っていたのだが、実際には学業も習い事も続いているし、家の仕事も変わらずある。夫婦舞の稽古の時間に別の予定が入るだけだった。
しばらく他愛のない話を続けながら歩いていると、不意に思い出したように汐凪が口を開く。
「そういえば、煉弥が留学延長するって」
「あ〜、延長戦」
当初は再誓の儀までに私を掻っ攫って帰国する予定だったのだが、事情が変わってしまった。
「この間、晶佳と一緒に帰ってるの見ましたよ」
「あいつ、依玖に対してと比べてやけにじれったくない?」
確かに、一直線に向かってきた私の時とは違い、晶佳が相手になると途端に妙な距離感を取っているように見える。
「本命との違いですかねぇ」
それとも、間に婚約者というワンクッションがないせいだろうか。
私が半ば冗談混じりにそう言うと、汐凪は納得したような、呆れたような顔になる。
「案外そうかも」
川沿いの道を並んで歩くうちに、汐凪がふと何かを思い出したように目を細めた。
夕陽を受けた横顔にはどこか懐かしむような色が浮かんでおり、その表情に気づいた私は首を傾げる。
「依玖は、俺たちが初めて会った時のこと、覚えてる?」
「はい。本邸で顔合わせした時ですよね」
私の人生が変わった日だ。あの時汐凪が口にした言葉も、表情も、何もかも脳裏に焼き付いている。
しかしその答えを聞いた汐凪は、なぜか楽しそうに目を細めた。
「ハズレ」
「えっ?」
思わず足が止まりかける。
「……え??」
混乱する私を見て、汐凪は可笑しそうにくすくすと笑いを溢した。
「え、ちょっと待ってください、それより前に?」
「会ったことあるよ」
さらりと告げられた言葉に思考が完全に停止する。
そんな機会があっただろうかと必死に記憶を探るが、幼い頃の曖昧な記憶を掘り返しても何も浮かんでこない。
頭を抱えて記憶の海を泳いでいる私を、汐凪は川の方へ視線を向けながら待っていた。
ようやく絞り出した答えは敗北宣言のようなものだった。
「……覚えてないです」
「知ってる」
汐凪は最初から分かっていたと言わんばかりあっさりと頷く。
「君はずっと、俺のことなんか目に入ってなかった」
「何をしてたんですか、私」
「水路を眺めてた。本邸の脇の、細いやつ」
言葉が出なかった。
それは否定できなかった。幼い頃の私なら普通にやっていた。今でもやる。
「……それは、その、すみません」
「謝らなくていいよ」
汐凪がまた笑った。傾いた夕陽が横顔を柔らかく照らし、その光の中で細められた目はひどく優しかった。
「その時からずっと、君が俺を好きになってくれればいいのにって思ってた」
その言葉は夕暮れの静かな空気の中で不思議なほど鮮明に響き、私はすぐに返事をすることができなかった。
川面を渡る風が髪を揺らし、水の流れる音だけが二人の間を埋めるように続いている。
胸の奥が落ち着かない。
「……それは」
声が少し、上擦った。
けれど、その先だけは不思議と迷わなかった。
「とっくに叶ってるので、安心してください」
川沿いを染めていた夕陽は少しずつ色を変え始めており、鮮やかな橙色だった空には紫が混じり始め、流れる水もまたその色を映して静かに揺れている。
沈黙に耐えかねたわけではないはずなのに、私の視線は不自然なほど真剣に川面を追っていた。
「……川に葉っぱが落ちてます」
絞り出すように言う。
「うん」
「見てていいですか」
「どうぞ」
汐凪の声が、笑っていた。
