八十八年目の星結び


 卵焼きというものは、シンプルな料理である。
 卵を溶いて、調味料を加えて、焼いて巻く。それだけだ。
 巻くのに多少コツはいるが、工程に難しい要素はない。使う道具も少ない。初心者向けの料理として各所で推薦されているとも聞く。

 つまり、私にできないはずがないのだ。理屈の上では。
「……どうでしょう」
「……」
「あの」
「……お上手になりましたわ、火の通しが」
「ありがとうございます」
「味は」
「味は?」
「……お上手になりましたわ、火の通しが」
 味の話は二度とされなかった。

 私も一切れ食べてみた。
 火の通りは確かに良かった。食感も悪くない。箸で持ち上げた見た目も、きれいに巻けている。
 ただ、なんというか、味が、その、なんとも言えない方向へ着地していた。

 悪くない。悪くはないのだが、もう一口食べたいかと言われると、別に、という気持ちになる味だった。
 味が喧嘩しているというか、妙に尖っているというか、料理そのものが「私はこういう枠に収まりたくありません」と主張している。
 創作料理と言われたら信じるかもしれない。

「レシピ通りに作っているはずなんですけどねぇ……」
「ええ、ええ、存じております。拝見しておりました」
「どこで変わってしまうんでしょう」
「私もそれが知りたいですわ」
 これが最大の謎だった。レシピ通りにやっているつもりなのだ。分量も測っている。手順も守っている。
 なのにどこかで何かが起きて、こういう着地をする。一体どこで分岐しているのか、私には全くわからない。
 私の問題というよりもはや現象に近い気がしてきた。

「舞も芸事も随分とお上手になられたのに、なのに何故いまだにお料理だけ……」
 和沙おばさまの目が、遠くなった。
 私も薄々感じていたことではある。舞の稽古は順調だ。楽器も花もお茶もお勉強も、並程度にはこなせている。なのに料理だけが、こうなる。
 他の習い事は習熟度に合わせて何度か教師が変わったが、水筑の料理番である和沙おばさまは小さな頃からずっと見続けてくれている。一定以上、一向に進歩しないこの進捗を……。

 おばさまはしばらく完成した卵焼きを見つめたあと、慈愛に満ちた目で私を見た。諦めと愛情が等量で混ざり合ったような目だった。
「諦めてもよろしいのですよ。普段のお食事は私共料理番がご用意しますし。どうかご自身を追い詰めずに」
 ご厚意はありがたい。というか多分かなり本気で心配されている。

「うーん、でも……」
 少し考えてから、正直に言うことにした。
「料理番の皆さんがお休みになった後とか、ちょっと小腹が空いた時とかに私がご用意できるようにしておきたくて……」
 夜更けに書物を読んでいる時。訓練帰りで疲れている時。温かいものをひとつ持っていける程度には、作れるようになりたかった。
 大層な料理でなくていい。卵焼きとか、雑炊とか、夜食程度の簡単なものを、自然に作れるようになりたかった。
 おばさまは私の言葉をひとつひとつ受け取って、それからゆっくりと目を閉じた。
「心意気は百点満点なのが余計にお労しいわぁ……」

 そんな遣る瀬無い空気が漂う台所へ、不意に足音が近づいてきた。

「失礼。こちらにいると聞いたのだけど」
 声と共に、調理場の入口に汐凪が現れた。
 いつもの穏やかな顔で、ごく自然に入口に立っている。調理場にいるような人ではないので、少し絵面が不思議だった。
「あら、若様」
「お邪魔します。少し彼女に用があって」
 和沙おばさまが「どうぞどうぞ」という顔で一歩引く。

「稽古中だったかい。邪魔をしてごめん」
「いえ、ちょうど一段落したところで」
 そう返しつつ、私は内心で首を傾げる。わざわざ厨房まで来るような用事とは何だろう。
 などと考えながら振り返った、その時だった。
 汐凪の視線が、すっと私の手元へ落ちる。

 卵焼きと目が合った。
「……これは」
「卵焼きです」
 五等分した卵焼きが残り三切れ、皿に並んでいる。
「……一つ、いただいてもいいかな」
「あ、それは……!」
 止める間もなく、汐凪は箸を取って一切れ摘まんでいた。
 口に入れる。
 咀嚼する。
 眉が僅かに寄って、また戻る。もう一度寄る。
 怒っているわけではない。不快そうでもない。ただ、何か言語化しようとして、できていない顔だった。
 それから、静かに首を傾げる。

「……火入れではないね」
「そこなんですよねぇ……」
「味付けも極端ではない。なのに印象だけが想定外へ滑る……?」
「現象なんです」
「現象か……」
 卵焼きの話をしているはずなのに、急に難解な術式研究みたいな空気になってきた。

 すると汐凪は再び皿へ視線を戻し、今度は二切れ目へ箸を伸ばそうとする。
「あ、そんな、自分で処理しますので……」
「もう少し確かめたい」
 静かな口調だったが、完全に研究者の顔だった。
 止められないまま、真剣な顔で二切れ目を咀嚼している。
「後味に違和感が残るわけではないんだ。ただ、食べている最中の印象が……」
「定まらないんですよねぇ……」
「卵焼きとして認識していいのか脳が迷う」

「ところで、ご用事とは」
 これ以上、卵焼きを巡る謎の分析会が続行される前に話題を戻そうと問いかける。
 汐凪は「ああ」と小さく声を漏らし、それまで微妙に思索へ向いていた意識を引き戻すように瞬きをしたあと、珍しくはっきりと眉を顰めながら静かな溜め息を吐いた。