脅迫状を届けることができるほど私の近くにいる反神獣団体の人間は明らかだった。
「……でも、やっぱりよくわからなくて」
静かに零れた声には、追及よりも戸惑いの色が濃く滲んだ。
「おばさまは私や汐凪様にもずっと優しかったし、神獣様を否定するような素振りも見たことはない。この脅迫状だって、結局反神獣団体にとっては損だし……」
言葉を重ねながら、自分自身へ問いかけるような気持ちになる。
和沙はこれまで何度も私を気遣ってくれた。
婚約者として不安を抱えていた頃も、いつまで経ってもまともにならない料理の稽古も、穏やかに声をかけてくれた記憶ばかりが浮かぶ。
その姿と、反神獣団体へ情報を流した人物という像がどうしても重ならない。
もし脅迫状が警戒を促すためのものだったのなら、それは私を守ろうとした行動とも考えられる。危険を察知しながら直接は止められず、せめて被害を防ごうとしたのだとすれば辻褄は合う。
だが、それなら禊祓の襲撃の件はどうなる。
「だから……教えてください、おばさま」
真実を知ることが恐くないわけではなかったが、それでも今ここで目を逸らしてしまえば、きっと二度と和沙の本心には辿り着けない気がした。
しばらくの沈黙が流れる。
窓の外を渡る風の音だけが微かに聞こえる中、和沙は手元の脅迫状へ視線を落とし、その紙面を見つめながら何かを思い返しているようだった。
やがて小さく息を吐くと、観念したように肩の力を抜き、ゆっくりと口を開く。
「御二方が婚約を結ぶ少し前でした」
その声は驚くほど穏やかで、取り乱した様子も恨みがましさもない。
しかし、その静けさこそが長い年月をかけて沈殿した悲しみの深さを物語っているように思えた。
「主人が川の様子を見に行ったんです」
和沙の夫は永露と変わらないくらいの家格の分家の人間だった。
だが、優秀な水の術師だったらしい。
私は無言のまま耳を傾ける。汐凪もまた口を挟まず、ただ静かに和沙の言葉を待っていた。
「その年は少し雨が続いていました」
神獣の加護によって災禍は抑えられているとはいえ、それは決してあらゆる異変を完全に消し去るものではない。
海外で報じられるような巨大な暴風雨や街そのものを呑み込む洪水が発生することはなくとも、季節の巡りに伴う雨や風までは消えない。
ときには人々の生活へ影響を与える程度に天候が崩れることもあった。
まして契約更新が近づく時期ともなれば、水虎様が語っていたように、加護の術式にはズレが生じる。
「その影響で、水位が上がっていました」
この国は豊かな水脈に恵まれ、大小無数の川や湖が各地を潤している。
裏を返せば、水が増えすぎた時の影響も受けやすいということだった。
「それでも堤防もありますし、水門だって整備されていますから、普通は大丈夫なんですけれどね。主人も同じように思っていたんでしょう。軽く見回るだけだからって、笑って出て行ったんです」
その時の姿が見えているのだろう。和沙の口元には一瞬だけ懐かしむような微かな笑みが浮かぶ。
しかし、それはすぐに消えた。
「でも、少しだけ運が悪かったのでしょうね」
和沙の声がわずかに掠れる。
「足場が崩れたのか、水に足を取られたのか、詳しいことは結局わかりませんでした」
誰かの悪意があったわけではない。災害ですらなかった。
ただ一歩踏み出した場所が悪かったのかもしれないし、一瞬の油断があったのかもしれない。
けれど結果だけは決定的だった。
「主人も軽率だったのだろうと思いますし、加護が失われていたわけでもありません。ただ運が悪かった、それだけなんです」
理屈では理解しているのだろう。その事故に明確な犯人など存在せず、責任を問う相手もいないことを。
けれど、理解できることと受け入れられることは違う。
「でも──ゆるせなかった」
長い沈黙の末に零れ落ちた声は、それまでよりもずっと弱く、どこか疲れ切った響きを帯びていた。
「子供もいなかった私はひとりになって……。水筑家の料理番として雇っていただくことになりました。そしてすぐ、依玖様にお料理をお教えするお役目をいただいて」
和沙は目を伏せる。
その表情には懐かしさと痛みが入り混じっており、思い出しているのは夫を失った直後の孤独だけではないのだと伝わってくる。
大切な人を奪われた悲しみは確かにあった。神獣の加護があるはずなのに、どうして夫だけが死ななければならなかったのかという恨みも消えなかった。
けれどその一方で、水筑家に迎えられ、幼かった私たちの成長を見守り続けてきた年月もまた確かに存在している。
憎しみだけなら、きっともっと簡単だった。
神獣を恨み、その信仰を否定し、敵だと決めつけてしまえばよかった。
だが和沙にはそれができなかったのだろう。
私が次期斎祀の婚約者として努力してきた姿を知っている。汐凪が誰よりも責任を背負い続けてきたことも知っている。
だから胸の奥に抱え続けた怒りは、行き場を失ったまま長い年月、彼女の内でぐるぐると彷徨い続けていた。
私はそんな彼女を見つめながら、どうしても確かめたくなった。
「……本当に神獣様のことを、憎んでるんですか?」
問いかけられた和沙は顔を上げる。
その表情を見た瞬間、胸が締め付けられた。
「──……そう思いますか?」
和沙は笑っていた。
今にも涙が溢れそうなほど痛々しく歪んだ笑顔で、長い年月抱え続けた感情に自分自身さえ答えを出せなくなっている人の顔だった。
多分その顔を、私は生涯忘れないのだと思う。
