「水虎様!」
湖上へ現れた巨大な虎の姿を認めた瞬間、私はほとんど反射的に声を上げながら舞台の中央へ駆け寄った。
結界の崩壊を目の当たりにしてからというもの、不安と心配がずっと燻り続けていたのだ。
『おぉおぉ。心配かけたようじゃな、すまんすまん。この通り、我は無事じゃよ』
水虎様は申し訳なさそうなことを言いながらもどこかのんびりとしており、その巨大な尾を揺らして湖面へ波紋を広げる様子からは深刻さの欠片も感じられない。
『加護の術式に大事はないぞ。前も言ったがアレは大地の奥深くじゃからな。安心せい。……あ、でも、結界は壊れてしもうたから、しばらくは修復のために多めに霊力補給してほちい……』
「えぇ、それはもちろん」
「結界って家なんです??」
その声音もいつもと変わらず朗らかだった。神域を揺るがすような異変が起きた直後とは思えないほど気楽ですらある。
その様子に、本当に無事だったのだとようやく実感できた。
だが同時に、だからこそ聞かなければならないこともある。
「水虎様の叫びが聞こえて、何かあったのかと……」
結界が砕けた瞬間に響いたあの声は、誰が聞いてもただ事ではない悲鳴だった。
神獣に危険が及んだのではないかと肝を冷やした者は私だけではないだろう。
しかし当の本人──いや本神はきょとんとした顔をした後、すぐに何かを思い出したように大きく頷いた。
『あ〜〜あれな!』
その反応だけで何となく嫌な予感がする。
『我、なんか知らん奴が神域の周りをちょろちょろしとるな〜と思ってな、そっちに集中しておったんじゃよ。そしたら急に上からガシャーン! て。ウワーッ何じゃーッ!? どわーっ割れとるーっ!! つって』
「あれそういう叫びだったんですか!?」
私は声を裏返らせた。
あの時はこちらの心臓が止まりそうになるほど緊迫した悲鳴に聞こえたというのに、本人の説明を聞けば単純に驚いただけだったらしい。
心配して損をしたとは言わない。
無事だったのだから本当に良かった。
良かったのだが。
じっと水虎様を見上げる。
水虎様はそんな視線の意味に気付いているのかいないのか、のんびりと尻尾を揺らしていた。
思わず脱力する私の横では、汐凪が肩を震わせ顔を背けている。
先ほどまで国家存亡に関わる危機として緊張していたというのに、その中心人物である神獣がこれでは、張り詰めていた空気も抜けてしまう。
だが不思議と悪い気分ではなかった。
それだけ水虎様がいつも通りであり、神域も本当に無事だったという証拠なのだと、呆れ半分、安堵半分で小さく息を吐いた。
そして観客たちの方に目を向ける。
先ほどまで異変の余韻に揺れていた彼らの視線は、今や完全に水虎様へ集中していた。
神獣が自ら姿を現しただけでも前例の少ない出来事であり、この光景がどれほど特別なものかは言うまでもなかった。
巨大な神獣の姿を前に、驚きと畏敬の入り混じった表情を浮かべながら、その一挙手一投足を固唾を飲んで見守っている。
『ふむ。我、人気者』
水虎様はそんな人々の視線を受けながら満足そうに胸を張ると、湖畔全体へ響き渡るような朗々とした声を上げる。
『契約はここに成された!』
その言葉が発せられた瞬間、湖畔にいた誰もが息を呑む。
神獣自らが契約の成立を告げる声は重く、それでいて不思議な温かさを帯びており、人々の胸へ真っ直ぐ届いていく。
そして水虎様は私と汐凪を見下ろし、瞳を細めて笑みを浮かべた。
『我が斎祀、若き水魚よ、よくぞ務めを果たした』
その祝福の言葉には神獣としての威厳と、長い年月を見守ってきた存在ならではの慈しみが宿っていて、思わず背筋を伸ばす。
『我が朋よ。そなたらの歩みに祝福を贈ろう!』
次の瞬間だった。
静かだった湖面が淡く輝き始め、その中心から一本の巨大な光の柱が天へ向かって立ち上る。
眩い光は雲を貫くほどの勢いで空高く伸び、そのまま頂点へ到達した直後、夜空に咲く花火のように一気に弾けた。
無数の光の粒が空いっぱいへ広がり、それらは風に乗りながらゆっくりと世界へ降り注いでいく。
観客たちの間から感嘆の声が上がる。
だが本当の驚きはその直後だった。
降り注ぐ輝きは光の粒だけではなかった。
水でできた小さな魚が無数に宙を泳ぎ、人々の周りを悠然と泳いだかと思うと、湖面へと還っていって小さな波紋と消えていく。
あまりにも壮大な光景に人々は声を失い、ただ見上げることしかできない。
私もまた降り注ぐ光を見上げながら目を細める。
真下から見上げているせいで正確には比較できない。
それでも昨年、輝錬国で見た光景と比べても、どこか規模が大きく、輝きも強いように感じられた。
隣の汐凪と顔を見合わせた後水虎様を見上げると、実にご満悦そうな顔をしている。
「演出ですか?」
『ド派手にやったったわ』
水虎様は胸を張り、まるで褒められた子どものような顔で答えた。
観客たちは事情など知らないため、天から降り注ぐ神々しい光を前に歓声と感動の声を上げ続けている。
私と汐凪は笑いながら、再び空を見上げた。
