・・・
昔の私はそれはもう、ぼーっとしながら生きてきた。
何かを強く望んだこともなければ、逆に嫌だと抵抗したことも覚えがない。促されたことをこなして、言われなかったことは何もしない。
ただただ流されなから生きてきた自覚はあった。
なので十歳のある日、本家に呼び出され、肩を寄せ合って震える両親の間に挟まれながら、「次期斎祀である水筑汐凪様の婚約者に選ばれました」と聞かされた時は、「とうとうおばば様も耄碌したか」と頷いたものだった。
星読みは代々高い精度を誇ると聞いていたが、世の中に絶対などないのだから、長く生きれば間違いの一つや二つあるだろう。
さすがに数日も経てば誰かが間違いを訂正するだろうと思っていたのだが、周囲は妙に真剣な顔を崩さず、両親は日に日に青ざめていき、本家の人々は忙しそうに準備を進めていくばかりで、気がつけば本人との顔合わせの日程まで決まってしまう。
当日、本家の女性たちに捕獲された私は普段なら絶対に身につけないような上等な着物を着せられていた。
髪まで丁寧に整えられた挙げ句、まるで祭壇へ供えられる供物のような気分のまま座敷へ運び込まれる。
通された座敷は格式のある広い一室で、磨き上げられた床柱や掛け軸からも本家の気合いが伝わってきた。
が、それらに興味を持つほどの感性は持ち合わせておらず、私はただ正座をしたまま畳の目を数えて時間を潰す。
二百四十三、二百四十四、二百四十六、二百四十七。
途中で数え間違えた気がする。
まあいいかと思って最初からやり直していると、廊下の向こうから人の気配が近づき、控えていた使用人が「汐凪様がお見えになりました」と声を上げた。
私は慌てるでもなく、言われていた通りに両手を畳につき、深々と頭を下げる。
襖が開き、誰かが室内へ入ってくる気配がした。
衣擦れの音が聞こえる。静かな足音が部屋へ入り、畳を踏む気配がゆっくりと近づいてきた。
視界には何も映らないが、それでも誰が来たのかはわかる。
未来の斎祀。
この国の平穏を支える存在。
そしてなぜか自分の婚約者になった相手。
そんな肩書きを並べてみても現実味はまるでなかった。
やがて正面に人が座るのを感じながら、視線は畳へ落としたまま口を開いた。
「この度、星のお導きにより汐凪様の婚約者として選定されました。永露依玖と申します」
事前に何度も練習させられた挨拶を、どうにか最後まで言い切る。
これで終わりでもよかったのだが、私としては一つだけ先に伝えておくべきことがあるように思えた。
周囲は当然のように祝福しているが、私自身には未だにこの選定が正しいものとは思えない。星やおばば様が何を見て自分を選んだのかもわからず、その期待に応えられるとも限らない以上、先に伝えておくべきだろうと考えた。
「この身が星々のお計らいに応えられる器かはわかりかねますが——」
だからこそ余計な誤解を抱かせる前に、自分は大した人間ではないのだと説明しようとしたのだが、不意に穏やかな声がその続きを遮った。
「顔を上げて」
私はわずかに目を瞬かせる。
責めるような響きはなく、命令というよりは静かなお願いに近い声音だった。だからこそ戸惑う。作法としては視線を伏せたままの方が正しいはずであり、実際そう教えられてきた。
「そんなふうに言わなくていい」
しかし相手は次代の斎祀であり、自分の婚約者となる人物でもある。彼がそう望むなら従うべきなのだろう。
そう判断し、ゆっくりと顔を上げていく。
「君は俺に“望まれた”んだよ」
その瞬間だった。
ふわりと微笑んだ汐凪の姿が目に映った途端、世界は一変する。
視界いっぱいに星が瞬いた気がした。
夜空などどこにもないはずなのに、胸の奥で無数の光が弾け、今まで何も映していなかった心の水面へ初めて波紋が広がっていく。
ああ、そうか。
私は今日この日のために生きてきたのだ。
理由のわからない確信が胸の奥へ静かに落ちてきて、私はただ呆然と彼を見つめたまま、自分の世界が音もなく色づいていく感覚に身を委ねていた。
〜・〜・〜・〜・〜
昔の私はそれはもう、ぼーっとしながら生きてきた。
何かを強く望んだこともなければ、逆に嫌だと抵抗したことも覚えがない。促されたことをこなして、言われなかったことは何もしない。
ただただ流されなから生きてきた自覚はあった。
なので十歳のある日、本家に呼び出され、肩を寄せ合って震える両親の間に挟まれながら、「次期斎祀である水筑汐凪様の婚約者に選ばれました」と聞かされた時は、「とうとうおばば様も耄碌したか」と頷いたものだった。
星読みは代々高い精度を誇ると聞いていたが、世の中に絶対などないのだから、長く生きれば間違いの一つや二つあるだろう。
さすがに数日も経てば誰かが間違いを訂正するだろうと思っていたのだが、周囲は妙に真剣な顔を崩さず、両親は日に日に青ざめていき、本家の人々は忙しそうに準備を進めていくばかりで、気がつけば本人との顔合わせの日程まで決まってしまう。
当日、本家の女性たちに捕獲された私は普段なら絶対に身につけないような上等な着物を着せられていた。
髪まで丁寧に整えられた挙げ句、まるで祭壇へ供えられる供物のような気分のまま座敷へ運び込まれる。
通された座敷は格式のある広い一室で、磨き上げられた床柱や掛け軸からも本家の気合いが伝わってきた。
が、それらに興味を持つほどの感性は持ち合わせておらず、私はただ正座をしたまま畳の目を数えて時間を潰す。
二百四十三、二百四十四、二百四十六、二百四十七。
途中で数え間違えた気がする。
まあいいかと思って最初からやり直していると、廊下の向こうから人の気配が近づき、控えていた使用人が「汐凪様がお見えになりました」と声を上げた。
私は慌てるでもなく、言われていた通りに両手を畳につき、深々と頭を下げる。
襖が開き、誰かが室内へ入ってくる気配がした。
衣擦れの音が聞こえる。静かな足音が部屋へ入り、畳を踏む気配がゆっくりと近づいてきた。
視界には何も映らないが、それでも誰が来たのかはわかる。
未来の斎祀。
この国の平穏を支える存在。
そしてなぜか自分の婚約者になった相手。
そんな肩書きを並べてみても現実味はまるでなかった。
やがて正面に人が座るのを感じながら、視線は畳へ落としたまま口を開いた。
「この度、星のお導きにより汐凪様の婚約者として選定されました。永露依玖と申します」
事前に何度も練習させられた挨拶を、どうにか最後まで言い切る。
これで終わりでもよかったのだが、私としては一つだけ先に伝えておくべきことがあるように思えた。
周囲は当然のように祝福しているが、私自身には未だにこの選定が正しいものとは思えない。星やおばば様が何を見て自分を選んだのかもわからず、その期待に応えられるとも限らない以上、先に伝えておくべきだろうと考えた。
「この身が星々のお計らいに応えられる器かはわかりかねますが——」
だからこそ余計な誤解を抱かせる前に、自分は大した人間ではないのだと説明しようとしたのだが、不意に穏やかな声がその続きを遮った。
「顔を上げて」
私はわずかに目を瞬かせる。
責めるような響きはなく、命令というよりは静かなお願いに近い声音だった。だからこそ戸惑う。作法としては視線を伏せたままの方が正しいはずであり、実際そう教えられてきた。
「そんなふうに言わなくていい」
しかし相手は次代の斎祀であり、自分の婚約者となる人物でもある。彼がそう望むなら従うべきなのだろう。
そう判断し、ゆっくりと顔を上げていく。
「君は俺に“望まれた”んだよ」
その瞬間だった。
ふわりと微笑んだ汐凪の姿が目に映った途端、世界は一変する。
視界いっぱいに星が瞬いた気がした。
夜空などどこにもないはずなのに、胸の奥で無数の光が弾け、今まで何も映していなかった心の水面へ初めて波紋が広がっていく。
ああ、そうか。
私は今日この日のために生きてきたのだ。
理由のわからない確信が胸の奥へ静かに落ちてきて、私はただ呆然と彼を見つめたまま、自分の世界が音もなく色づいていく感覚に身を委ねていた。
〜・〜・〜・〜・〜
