八十八年目の星結び

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 生きている意味がわからない、と言ってしまえば陳腐に聞こえるが、詰まるところ、そういうことだったのだと思う。



 斎祀に選ばれてからすぐの頃は、ただ水筑の跡取りとしてこなしていた勉強よりも分量も密度もずっと増したそれをこなすのにも精一杯だった。
 七歳になったばかりのその日もそうだった。午前の課業を終え、固まった身体を少しだけ解そうと庭へ出る。

 しばらく歩くと、日差しを受けて細く輝く水路のそばに、同じ年頃の小さな女の子がひとりしゃがみ込んでいるのが目に入った。
 誰かを待っているようにも見えず、水面へ落ちる葉の流れを追っているわけでもなく、ただそこにいるという表現が一番近い姿に、俺は自然と足を止める。

 少女は近づいてみても身じろぎ一つせず、ただ流れる水面を見つめ続けていた。
「……何をしているの?」
 声をかけると、その子は顔を上げることなく答える。
「水を見てます」
「……楽しいの?」
「いえ、別に」

 あまりにも淡々とした返事に思わず瞬きをすると、そこで初めて少女がこちらを振り返り、感情の読めない瞳で俺を見つめてきた。
 どこか記憶を探るような間があり、それから少女は納得したように小さく頷く。
「……斎祀さま」
「うん」
 だからといって態度が変わるわけでもなく、興味を持つ様子も特になかった。

「水を見ているより、友達と遊んだり、本を読んだりした方が楽しくない?」
 子供相手としてはごく普通の問いかけだったはずだが、少女は少しも考え込むことなく首を横に振る。
「別に、何も楽しくないので」
「……何も?」
 本を読むのが苦手だとか、外遊びが嫌いだとかならまだ理解できる。
 しかしゲームでもテレビでも友達とのおしゃべりでも、何か一つくらいは好きなものがあるだろう。
 そういったものを挙げてみるが、それに対しても返ってくる言葉は同じだった。
「いいえ。何も」
 その言葉には拗ねた響きも、自分を哀れむような色もなく、本当にそう思っているのだとわかる静けさだけがあったため、逆にどう返せばいいのかわからなくなる。

 何となくそのまま立ち去る気になれず、少女の隣へ腰を下ろし、じゃあ少し遊ぼうかと提案してみる。
 幸い断られることはなかったものの喜ぶ様子も見られず、まるで天気の話を聞いた時のような反応しか返ってこない。

 手元に玩具などはなかったため、言語遊戯をしたり、指を使った簡単な手遊びを試したり、地面に線を描いて陣地取りのような遊びをしながら時間を潰した。
 自分自身も子供らしい遊びに詳しいわけではなかったので、曖昧な部分はその場で勝手にルールを決め、互いに納得したことにして続けていく。

 少女は決して鈍いわけではなく、むしろ飲み込みは早かった。
 勝負になればそれなりに工夫し、時には俺が負けることもあり、また少女が負けることもある。その均衡は年齢相応の遊びとしてはちょうど良いものだったが、それでもどこか妙だった。

 普通は勝てば少しくらい嬉しそうな顔をするし、負ければ残念そうにする。
 しかし少女は勝っても負けても表情がほとんど変わらず、結果に対する執着が驚くほど薄い。
 まるで与えられた作業を淡々とこなしているだけのようだ。

 達成感や期待、あるいは悔しさといった感情へ繋がる何かが決定的に欠けているように見える。
 空白だけが少女の中にぽっかりと存在しているようだった。
 だからこそ、最初に水路の前で見つけた時の姿が妙にしっくりきてしまい、胸の奥に小さな引っ掛かりを残したまま、隣で無表情に地面を見つめる少女をそっと見やった。

 地面に描いた線を指先でなぞりながら次の手を考えていた時、不意に少女がぽつりと口を開いた。
「斎祀さまは、楽しいですか」
 問いの意味がすぐには掴めず、顔を上げる。

 遊びのことを聞いているのかと思ったが、少女の視線は盤面ではなくこちらへ向けられていた。
「何がだろう」
「“斎祀さま”」
 思いがけない答えに瞬きをすると、少女は変わらぬ調子のまま続ける。
「見たことがあります。お仕事してるところ」
 どうやら遠目ではあるが、自分を見かけたことがあるそうだ。
 書類へ目を通しつつ、何冊もの書物を抱えた年嵩の大人たちと話しながら回廊を歩く姿を思い浮かべたらしい。

「お父さんとお母さんが言ってました。"斎祀さま"っていうのは、『小さいのに大変なお役目ね』とか、『ご苦労なさるだろうな』とか」
 幼い子供の口から出るには妙にそのままな言い回しに、きっと本当に親の言葉を覚えていただけなのだろうと思う。

 その言葉に返事をするまで、一拍ほど間が空いた。
 正直なところ、楽しいかと問われれば答えに困る。
 幼い頃から当然のように与えられてきた責務であり、好き嫌いを考える対象ですらなかったからだ。
 水を飲むことに楽しさを求めないように、それはただ自分の中に存在するものだった。

「……選ばれたことだから」
 ゆっくりと言葉を探しながら続ける。
「役目であり、自分が生まれてきた理由でもあるし、この世界のために必要なことだから」
 そう教えられ、そう信じてきた言葉を口にすると、少女は特に感心した様子もなく小さく頷いた。
「ふーん……」
 興味があるのかないのかわからない反応に少し肩の力が抜ける。

 そのまま話は終わるものと思っていたが、少女はしばらく考え込むように視線を落とした後、何か納得したように小さく頷いた。
「みんな、あなたのことが好きなんですね」
「え?」
 予想もしなかった言葉に思わず聞き返す。
 少女は本当に不思議そうな顔でこちらを見上げていた。
「だって、好きだから選んだんでしょ?」
 まるで当たり前の理屈を確認するような口調だった。
「好きだから、あなたにやってほしいんでしょ?」
 俺は言葉を失う。

 斎祀に選ばれたのは、生まれ持った資質があったからだ。周囲が期待を寄せるのも、その役目を果たせると信じているからだ。
 優秀だとか、適任だとか、相応しいだとか、貴方様であればとか、そういった言葉なら何度も聞いている。

 しかし好きかと問われれば、それはどこか別の話のように思える。
 けれど少女の中では違うらしい。
 難しい理屈も伝統も責務もすべて飛び越えて、誰かに役目を託すという行為そのものを、「その人にやってほしいと思ったから」と解釈している。

 あまりにも単純で、あまりにも子供らしい発想だった。
 それなのに、その言葉はなぜか胸の奥へ静かに沈んでいく。
 もし本当にそうなのだとしたら。
 人々が期待を寄せるのも、未来を託すのも、役目を与えるのも、ただ必要だからではなく。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸のどこかがほんの少しだけ温かくなった気がして、自分でも理由のわからないまま少女を見つめた。
 しかし当の本人はそんなことなど気にも留めていないらしく、水路を流れていく水へ再び視線を戻しながら、ただ静かにその先を眺めていた。