八十八年目の星結び


 鋭い衝撃音が響き渡り──眼前へ向かっていた光が途中で弾け飛んだ。

 さらに横合いから奔った蒼白い光が影を弾き飛ばし、石畳を砕きながら叩きつけられた襲撃者の身体が大きく転がる。
 何が起きたのか理解するより先に、視線はそこに立つ人物に吸い寄せられた。
「汐凪様」
 思わず零れた声は安堵と驚愕が入り混じり、自分でも抑え切れないほど震えていた。

 汐凪の周囲では制御された霊力が淡い蒼光を帯びながら幾重にも渦を描いている。
 その輝きは荒れ狂う気配すら感じさせないほど静謐でありながら、周囲に満ちる圧力だけは明確に格の違いを示していた。

「依玖、怪我は」
 短く投げかけられた声には隠し切れない焦りが滲み、彼がどれほど急いでここへ駆けつけたのかが伝わってくる。
 慌てて首を横に振ると、汐凪はその仕草を最後まで見届けるように視線を向け、目立たないほどわずかに肩の力を抜いた。
 けれど完全に安堵したわけではなく、直後には再び鋭い眼差しが周囲へ向けられ、その意識はなお混乱の渦中にある祭場全体を捉え続けていた。
 護衛や神官たちへ次々と指示を飛ばし、負傷者の確認や一般客の避難誘導について簡潔かつ的確に命じていく姿には一切の迷いがない。

「行こう。神域の様子を見ないと」
「はい……!」
 振り返った汐凪から差し伸べられた手を取り、歩を速める彼の隣へ並ぶ。
 騒然としていた人々の声は次第に遠ざかり、神域へ続く道を進むにつれて周囲の景色は整然と並ぶ社殿や石畳から自然豊かな鎮守林へと姿を変えていく。

 やがて視界が開けると、林を背にした広大な湖が姿を現した。湖面は光を映し、水面を渡る風に細かな波紋を刻み続けている。
 その湖の中央近くには、夫婦舞のために設えられた水上舞台が静かに浮かんでいた。
 白木で組まれた優美な構造や色鮮やかな装飾は祭儀の開始を待つかのように整えられたままだったが、そこに集うはずだった人々の歓声も音色も存在しない。

 そして湖のさらに向こう側、鎮守林の奥深くに位置する神域を包む結界の一部が木々の隙間からかすかに覗いている。

 ほどなくして人波を縫うように一人の青年が駆け寄り、乱れた呼吸を押さえながら汐凪の傍で足を止めた。
 額には汗が滲み、普段は整えられている髪もわずかに乱れているが、その眼差しには補佐としての冷静さが残されており、混乱の中でも状況把握に努めてきたことが窺える。
「浦霧」
 汐凪が短く呼ぶと、浦霧は息を整える間も惜しむように報告を始めた。
「一般客の避難誘導は予定区域の七割ほどが完了しております。負傷者の保護も神官たちが対応中です。警備も配置につきましたので、少なくとも人員の避難に関しては大きな混乱にはならないかと」
 その言葉に汐凪は小さく頷く。

 避難が進んだとはいえ、湖畔には元々試練を見るために多くの一般客が集まっていた。
 今も状況を把握しきれず立ち尽くす観客や、不安そうに周囲を見回す者たちの姿がかなりの数残っている。
 だが彼らへの誘導や保護は既に護衛たちと神官たちが引き受けており、落ち着いた指示の声が各所から響くたび、人の流れは少しずつ安全な方向へ整理されていた。
 一般客の安全確保は何より重要ではあるが、それは護衛や神官たちが担うべき役目であり、今この場で自分たちが直接介入するよりも、それぞれの持ち場を守らせた方が結果として多くの人命を救うことに繋がるだろう。

 だからこそ汐凪も浦霧も避難誘導へ加わろうとはせず、その意識を湖の向こうへ向けていた。
 張り詰めた空気の中、浦霧は耳元へ手を添えて短く通信を受けると、眉を寄せながら鎮守林の奥へ視線を向ける。
「侵入者を確認したそうです」
 その報告に反射的に林へ目を向けた。
 神域を取り囲む鎮守林は本来であれば容易に人を寄せ付けない霊的な結界としての役割も担っているが、その深部へ何者かが踏み込み、さらに今なお移動を続けているらしい。

「追跡は」
「警備が数名向かっています。ただ、林内は視界が悪く、完全には捕捉できていません」
 偶然迷い込んだ者ではない。
 祭儀の日を選び、この混乱に乗じて鎮守林へ侵入した以上、目的は最初から神域にあったと考えるべきだろう。

 汐凪は険しい表情のまま湖の向こうを見据え、やがて迷いなく足を踏み出した。
「俺が行く」
 低く落とされた声に迷いはなく、胸がわずかにざわつく。
 神域へ向かうということは、同時に侵入者と接触する可能性が最も高い場所へ向かうということでもあった。
「しかし、若様」
 浦霧が何かを言いかけるが、汐凪はそれを制するように軽く首を振る。
「結界の状態を直接確認する必要がある。このままでは契約更新どころか神域そのものに影響が出る」
 その言葉は事実だった。
 神獣との契約を担う斎祀として、そして神域を預かる護家として、異常が起きている以上は自ら確認しなければならない。