八十八年目の星結び


 良い報告と悪い報告がある。

 まず良い方。
 あれだけ場の空気を張り詰めさせておいて、直後に予鈴が鳴ったのだ。間の悪さとしては最高級だった。
 周囲の生徒たちが「え?」という顔のまま散り散りになり、煉弥は「……続きは後だ」と言い残して去り、汐凪は何事もなかったような顔で「行こうか」と私に手を差し伸べた。
 その手を取りながら、私はひとつ学んだ。
 修羅場は予鈴で止まる。

 そして悪い方。
 次の授業は、実技だった。
 霊術の実技は基本学年合同で、かつ実力に合わせたグループ分けで授業を受ける。
 つまり、汐凪と煉弥という世界最高峰クラスの二人は一緒に授業を受けることになるのである。
 競技場へ移動するなり、あの二人が示し合わせたように場の中央へ向かったので「あ、やるんだ」と思った。
 止める者は特になく、担当の教官も「まあ良い機会だろう」みたいな顔をして組み手の相手として公認した。教育者としてどうなのか。

 というわけで今、観客席にいる。
 競技場の中央では、水と火が文字通りぶつかり合っていた。
 煉弥の火気は苛烈だ。大きく踏み込む動きに合わせて炎が弧を描き、競技場の地面を舐めるように奔る。
 対して汐凪の水気は静かで、しかし分厚い。炎を受けるたびに揺れながら、しかし散らない。押し返す、というより、包んで消す。

 この学校に通う生徒は全員、霊力を持っている。
 霊力自体は人間であれば誰しも多少は備わっているものだが、それを意識的に扱えるかどうかとなると話は別だ。
 感覚として掴めるようになるまで年単位の修練が要るし、扱えるようになってから実戦で使えるようになるまでにはさらにもう一段ある。
 ここに通っているのは、少なくともその入り口を越えた人間ばかりということだ。
 名家の子弟が多いのはそういう理由からで、私のような枝葉の出が混じっているのも、腐っても名家の分家の出かつ汐凪の婚約者という立場で、幼い頃から訓練を積んできたが故である。

 神獣の加護により平和なこの世の中で何故このような訓練が行われるかというと、有事に備えるためだ。

 神獣は大陸に降りかかる災禍を防いでいる。
 地の揺れ、天の乱れ、あるいは人の目には見えない霊的な歪みといったものを、その強大な力で抑え込んでいる。
 ただ、災害が完全に無になる、というわけではなかった。
 特に今、つまり契約更新を数ヶ月後に控えたこの時期は、加護がわずかに緩む傾向がある。

 そういう時に動くのも、霊力を持つ人間の務めとされていた。
 神獣が守る大きな枠組みの、そのさらに細かな部分を補う役割。訓練はそのためにある。
 結界形成、災害への対処、連携訓練、対人戦闘まで含め、実戦を前提とした内容が組まれているし、名家の子弟ともなれば「怪我をしない程度に本気」が基本である。
 もっとも。
 競技場中央で霧だか爆炎だか分からないものを撒き散らしながら激突しているあの二人は、どう見ても“怪我をしない程度”の範囲を超え始めていたのだが。

「……水蒸気でほぼ見えないんだけど」
 二つの気がぶつかり続けた結果、競技場の中央が白く煙っていた。
 何かがぶつかる音はする。ときおり炎の色がちらりと見える。それだけだ。
「何してるかわかる?」
「…………なんか、すごいんじゃないかな」
「そうね」
 肘をついて無表情に下を眺める友人、陸莉と二人で白煙を眺めた。何も見えない。

 火と水は相剋だ。
 五行の理において、水は火を消す。どれだけ激しく燃え盛っていても、十分な水気の前では炎は霧散する。
 属性の相性だけで言えば、汐凪が圧倒的に有利なはずだった。
 白煙の向こうで、炎がまた閃く。一度や二度ではない。消えては生まれ、押し返されてはまた燃え上がる。
 水気に飲まれながら、それでも炎は絶えない。
 実力が相当なければ、とうに終わっている。

「灯賀の斎祀ともなれば、そうでなきゃ困るか」
 陸莉が腕を組んだ。
「火の試練、腕試しなんだっけ」
「うん、神獣と直接戦り合うんだって」
 五行それぞれの神獣には、再誓の儀で求められる固有の試練がある。
 火の神獣が課すのは腕試し、つまり実力による直接対決だ。神獣相手に臆せず立ち向かえるだけの力を示せ、ということだろう。
 斎祀候補ともなれば、幼い頃からその試練を見据えた訓練を積んでいるはずだ。
 それを踏まえれば、今目の前で見えている光景にも納得がいく。

 加えて、斎祀には有事の際に自身と神域を守るための、実戦に耐えうる力が必要とされる。
 汐凪も国内では並ぶ者がいない実力者だ。霊力の総量でも、扱いの精密さでも、同世代に比べて頭ひとつどころか、ふたつみっつ抜きん出ている。
 その二人が、真正面からぶつかっている。

「見えないのがもったいないね」
「ほんとに」
 私たちは白煙の向こうをじっと見つめた。
 すごいものが起きているのだろうということだけは、わかる。
 ただ、煙で見えない。

 ちなみに競技場の観客席には、流れ弾を防ぐための結界を展開する機能がある。
 今は使われていない。
 「授業の一環」という教師の一声によって、保護は解除されていた。要するに、当たったら当たった側の問題ということだ。
 少し離れた席では、ちらほらと対策をとっている生徒の姿があった。薄い土壁を立てて盾にしている者、霊力を手元に集めて随時防げるよう構えている者。
 しかし運がいいのか、今のところこちらには被害が飛んできていない。

「すごい熱量」
 陸莉が目を細める。
「どっちの話?」
「両方」
「……そうね」
 汐凪がああなるのは、ちょっと意外だった。
 別にプライドが高いとか、負けん気が強いタイプでもなかったはずだが。
 少なくとも私の知る彼は、いつも穏やかで、余裕があって、誰に対しても丁寧だった。
 七年越しの婚約者として接してきた中で、声を荒げたところも、感情を乱したところも、見た記憶がない。

 なのに今、競技場の中央で白煙をもくもくさせている。
「ねえ」
「なに」
「あの人って、ああいう人だっけ」
 私の疑問に、陸莉は少し考えてから答えた。
「張り合う相手がいなかっただけじゃない?」
 言われてみると、そうかもしれない。

 次期斎祀というのは、生まれた瞬間からある種の頂点に置かれる立場だ。護家の中では後継として別格扱いされ、学び舎では実力で並ぶ者がほとんどいない。
 同じ土俵に立って本気でぶつかってくる相手など、これまでの人生にそうそういなかったのではないか。
 そこへ突然、他国から同格の存在が現れた。
 しかも自身の婚約者に向かって「運命の伴侶」などと言い出す輩が。立派な大義名分である。
 そう考えると、まあ、わからなくもない。

 優秀な人間というのは往々にして、その優秀さゆえに孤独だ。誰とも釣り合わないから、本気を出す場所がない。本気を出す必要がないまま、いつも少し余らせて生きている。
 そういう人が初めて"全部出していい相手"に出会うと、どうなるか。
 白煙の向こうで何かが炸裂する音がした。観客席の何人かが「おお」と声を上げる。相変わらず何も見えない。
「どっちが優勢なんだろ」
「さあ」
 歓声は上がっているので何かは起きているらしいのだが、何が起きているのかがわからない。観戦の意味とは、という気持ちになってきた。

「……応援した方がいいのかな」
「する?」
「何も見えないけど」
「そうね」
 一拍考えて、私は口を開いた。
「がんばれー」
 汐凪に向けたつもりだったが、白煙で位置も定かでないので特に方向は定めなかった。聞こえてもいないだろう。

 その直後だった。
 ひときわ大きな水気の奔流が、競技場全体を満たした。
 水流というより、圧だった。空気ごと押し出すような、底の見えない深さの霊力が一瞬で場を塗り替える。

 白煙が吹き払われ、視界が、開けた。
 煙の晴れた中央に煉弥が片膝をついており、その数歩前に汐凪が静かに立っている。
 一拍の沈黙の後、周囲から歓声が上がった。
「あ、勝った」
「応援が届いたんじゃない」
「流石にそれはない」
 煙の晴れた競技場で、汐凪がこちらへ顔を向ける。
 目が合った気がした。
 私は反射的に、ぱちぱちと拍手をする。
 汐凪は一瞬だけ目を瞬かせて、それから、ふわりと笑った。いつもの穏やかな笑みとは少し違う、どこか気の抜けたような、あるいは照れたような、そういう笑い方だ。
 なんだその顔は、と思った。
 思ったが、悪くなかったので続けて拍手を続けた。