祭儀当日の朝は、まだ空が白み始めたばかりの時間から慌ただしく始まった。
普段であれば本邸内も静まり返っている時刻だというのに、今日は早朝から多くの人々が行き交い、廊下の向こうでは忙しない足音や抑えた声が絶えず響いている。
他国における再誓の儀に行われる試練は神獣と斎祀だけが立ち会う閉ざされた儀式だが、我が国は違う。
この国の試練は古くから公開形式で行われていた。それが当時の斎祀から言い出したことなのか、水虎様の趣味なのかはわからないが。
神聖な儀式でありながら、同時に国を挙げた祭でもあるのだ。
そのため境内の一角にある控室の外からは、早朝にもかかわらず人々のざわめきがかすかに聞こえていた。
反神獣団体の動きを思えば、今回は一般市民を入れるべきではないのかもしれない。
だが……。
──『お主らがおるから、我らは民と繋がっておれる』
そう言っていた水虎様の姿を思い返せば、民を遠ざけるという選択には最後まで踏み切れなかった。
それは汐凪も同じだったらしく、この件について話し合った際も、彼は迷いを見せながら最終的には私と同じ結論を選んだ。
私と汐凪の二人がそう判断したことで、警備を強化することで予定どおり公開形式で行われることになった。
私は窓の向こうから届く喧騒へしばし耳を傾け、それから静かに視線を落とす。
今日という日は、自分だけのものではない。
神獣と国、そしてそこに暮らす無数の人々にとって大切な一日であり、その中心に立つのが自分なのだと思うと、不思議な緊張が胸の奥で静かに波打った。
もっとも、その緊張に浸る暇を与えてくれるほど周囲はのんびりしていない。大人しく椅子へ腰掛け、次々と集まってくる家人たちに身を委ねた。
祭儀衣装は普段の礼装とも異なり、神獣へ捧げる舞を前提として仕立てられた特別なものだ。袖を通すたびに肩へずしりとした重みが加わっていく。
その重さは窮屈というより責任の重みを形にしたようで、自然と背筋を伸ばした。
白を基調とした衣には淡い水色と銀糸が織り込まれ、光を受けるたびに波紋のような模様が浮かび上がる。その揺らめきは華美というより神秘的で、見る者の視線を引き寄せる美しさを持っていた。
長く垂れる帯には、歴代の斎祀たちが受け継いできた祈りの文様が織り込まれている。
「お支度が整いました」
その言葉にゆっくりと目を開いた。
鏡の中に映るのは見慣れた自分でありながら、どこか別人にも見える。
七年前、本邸へ来たばかりの頃は、この姿を想像することさえできなかった。
その間に学び、失敗し、叱られ、支えられながら積み重ねてきた時間が今日という日に繋がっている。
緊張がないわけではなかったが、不思議と逃げ出したい気持ちは浮かばなかった。
胸の奥で静かに脈打つ鼓動を感じながら立ち上がると、幾重にも重なる衣の裾がさらりと床を滑り、その音がこれから始まる一日の幕開けを告げるように静かに響いた。
控室の扉が開かれると、外には既に何人もの使用人や護衛が控えており、その物々しさに思わず背筋を伸ばす。
普段なら何気なく歩く廊下も今日ばかりは空気が違う。祭儀という国家的行事を支える緊張感が張り巡らされているようだった。
護衛に先導されるまま歩いていると、賑やかなざわめきが聞こえ始める。
境内へ集まった観客たちの声だろう。
参道には色鮮やかな旗や飾りが掲げられ、朝から吹き続ける風を受けてゆったりと揺れている。
視界の先には晴れ着姿の人々が行き交い、小さな子供を肩車する父親や、手を繋いで歩く家族連れの姿も見えた。
再誓の儀は特別な行事だ。
神獣への感謝と祈りを捧げる日であり、契約更新の成功を願う日であり、同時に八十八年に一度しか訪れない日。
人々はただ恐れながら結果を待つのではなく、この日を祝いの日として迎える。
祖父母から孫へと語り継がれ、前回の祭儀を知る者などほとんど残っていないほど長い年月を経てようやく訪れる特別な一日だからこそ、その瞬間に立ち会いたいと願うのだろう。
祭り特有の浮き立つ空気の中にも、人々が神域の方角へ向ける視線には確かな敬意があり、そして同時に、自分たちはこれほど多くの人々の祈りを背負っているのだという事実を改めて実感した。
あと少しで別室で身支度を整えていた汐凪と合流する場所へ着く。
衣装の袖を整えながら先を急ごうとして──ふと違和感を覚えた。
何かがおかしい。
思わず足を止め、周囲へ視線を巡らせた。
祭りの熱気に包まれているはずの境内は何も変わらないように見える。
人々は笑い、話し、子供たちは走り回っている。誰も不安そうな顔などしていない。
騒ぎも悲鳴もなく、空も晴れ渡り、風さえ穏やかだった。
それなのに。
まるで賑わいの裏側に薄い膜でも張られたような違和感があった。
「依玖様?」
先導していた護衛が不思議そうに振り返る。
その声にはっと我に返ったものの、すぐには返事ができなかった。
その瞬間だった。
祭りの熱気に満ちていた空気を切り裂くように、乾いた破裂音が鋭く響き渡る。
