八十八年目の星結び


 祭儀前日ともなれば、当然ながら準備も尋常ではなかった。
 家人たちは誰一人として気を緩めることなく、それぞれの持ち場で準備に追われており、祭具の配置から参列者の動線、当日の進行に至るまで、少しでも抜けや不備が生じないよう細部の確認が繰り返されている。
 当然ながら私も例外ではなく、作法や手順の再確認、関係者との打ち合わせに次ぐ打ち合わせへと引っ張り回され、気が付けば窓の外はすっかり夜の色に染まっていた。

「やれやれ、ようやく自由時間だわ……」
 そう呟いた瞬間だった。
「明日は試練の日だねぇ」
「ひゃっ!?」
 不意に背後から声がして、私は思わず飛び上がった。

 いつの間に現れたのか、廊下の端にはおばば様が当然のような顔で立っている。
 周囲に人の気配など全くなかったはずである。
「驚きすぎだよ」
「だって急にいるんですもん……」
 驚きのあまり胸を押さえる私を見て、おばば様は愉快そうに目を細めた。
 昔からそうだが、この人は本当に神出鬼没だった。廊下を歩いていても気付けば隣にいるし、庭を眺めていればいつの間にか後ろに立っている。年齢を重ねた今なお足音ひとつ立てないのだから不思議である。

 半ば呆れながら見ると、おばば様は優しく目を細めた。
「頑張りな」
 水筑家専属の占星術師という割には特別な激励でも大仰な訓示でもなく、まるで近所の子供を送り出すような気安さだった。
 何か返そうと口を開くより早く、おばば様は満足そうに頷いて踵を返し、そのまま杖も使わず軽い足取りで歩き去っていった。

 その背を見送りながら、思わず首を傾げる。
 別に瞬間移動しているわけではないし、気配を消す術を使っているわけでもないはずなのに、気付けばそこにいて、気付けばいなくなっている。
 本邸で暮らし始めて七年になるというのに、その生態だけはいまだによく分からなかった。
 やがて廊下の向こうへ小さな背中が消えると、周囲には再び静けさが戻る。

 一つ息を吐き、意識を切り替えるように背筋を伸ばした。
 祭儀本番まで残された予定はもう多くない。やるべきことは一つだけだった。
 夫婦舞、その最終確認である。
 何度確認しても、前日というだけで不安が顔を出してくる。
 足運びは大丈夫か、呼吸は合うか、扇の角度は。頭でわかっていても、体に問い直さずにはいられない。

 しかし幸いというべきか、汐凪との呼吸は以前よりも格段に合うようになっていた。
 最初は足運び一つでずれていた舞も、今では互いが次に何をするのか自然とわかる。
 稽古の最初の頃、汐凪の手の温度に動揺して足を踏み外したことがあったのが、遠い昔のことのようだ。
 今でも動揺しないわけではないのだが、少なくとも足は踏み外さなくなった。成長だと思う。



 稽古を終えた帰り道、夜の闇に沈みかけた回廊には淡い灯りが点々と続いている。
 歩きながら小さく肩を回していると、隣を歩いていた汐凪がふとガラス越しに空を見上げた。
「明日は晴れそうだね」
 雲の流れを確かめるような落ち着いた声音に、私も同じように視線を上げ、夜気に澄んだ空の気配を確かめながら小さく頷いた。
「晴れてほしいですね」
 夫婦舞が行われるのは屋外だ。雨天の場合でも変わらず決行ではあるが、やっぱり晴れた方がいい。
 そう言葉にした瞬間にも、明日の光景が頭の中に浮かんでいく。

「緊張している?」
 汐凪が空から視線を落として、私を見た。
「してます」
「そっか」
 それ以上でも以下でもない短い反応だったが、その距離感に少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。
 少し間を置いてから、今度は私が小さく問い返した。
「汐凪様は」
「してるよ」
 思わず横顔を見上げると、汐凪は変わらず前方を見据えたままで、そこに迷いや誇張のようなものは一切見えない。
「……そうなんですか」
「八十八年に一度の祭儀だよ。緊張しない方がおかしい」
 それはそうだ。私が緊張しているのとはおそらく重みが違うだろうが、それでも同じ言葉を使ってくれた気がして、少し胸の中が軽くなった。

「上手くいきますよ、きっと」
 気がついたら口から出ていた。
 視線を向ければ、汐凪は目を細めてこちらを見返した。
「根拠は?」
「貴方を毎日見ていたので」
 汐凪の表情が緩み、笑みを浮かべる。
 その笑い方はどこか既視感があり、以前自分が同じように言葉を受け取った時のことが重なって見えた。
「借りたね」
「お返しします」

 やがて汐凪は視線を外し、再び窓の外へと目を向けながら、どこか風のように柔らかな声で言葉を続けた。
「でも、不安はあまりないよ」
「どうしてですか?」
「隣に君がいるから」
 汐凪はさらに少しだけ間を置き、思い出をなぞるように付け加える。
「最初に会った日から、ずっとそう思っていた。君が一緒にいてくれるなら、って」

 外で、風が通った。庭木の葉がわずかに揺れる音が遠くに落ちる。
 気がつけば私もまた、視線を落としたまま小さく息を吸い、言葉を選ぶ前に口を開いていた。
「……私も」
 声にしてから、自分でも少し驚くほど素直な響きになっていたことに気づく。
 だがそれを取り消す気にはならなかった。
「不安はありますけど。隣に汐凪様がいるから、怖くはないです」
 言い終えた瞬間、胸の内側がわずかに熱を持ち、遅れて恥ずかしさが追いかけてくる。
 それでも今の言葉が嘘ではないことだけははっきりしていて、視線を逸らしながらも沈黙を選ぶしかなかった。

 汐凪は何も言わなかった。ただ、歩いていた足取りがほんの少しだけ緩やかになり、それに合わせるように私の歩幅も自然と揃っていく。
 気づけば肩が触れそうなほど近い距離になっていたが、どちらもそれを意識して止まることはなく、そのまま並んで回廊を進んでいく。

 窓の向こう、空に星が増えていく。明日も晴れそうだった。

 回廊の途中で足を止め、そこから先はそれぞれの私室へと分かれていく短い別れとなった。
 お休みなさい、と言い合って、先ほどまで隣にあった気配が離れていくのを背中で感じながら、自分の足音だけが廊下に響く。

 程なくして私室の前に到着し、扉に手をかけようとしたところで気がついた。
 扉の隙間に、紙が挟まっている。
 折り畳まれた、小さな紙だ。誰かが届けてくれた連絡文かと思いながら開く。

 殴り書きだった。
 丁寧に書かれた文字ではない。急いで、あるいは怒りで手が震えながら書いたような、歪んだ筆跡。

 ──『明日の祭儀に出るな。出れば、ただでは済まない』
 それだけだった。差出人はない。

 私は少し立ち止まってから、廊下を引き返した。