晶佳の記憶を聞き終えた空間には、どこか感慨に似た静かな余韻が漂っていた。
幼い日の出会いが一人の生き方を形作り、その積み重ねが今の責任感や覚悟へと繋がっているのだと知れば、少なからず胸を打たれるものがある。
彼女の責任感と決意の源流を聞かされた汐凪はどこか居心地が悪そうに眉尻を下げており、その隣で腕を組んで首を傾けていた煉弥はしばらく考え込んだ末、ぽつりと口を開いた。
「……それ、オレだな?」
「は?」
「ん?」
「え?」
三者三様の反応が重なり、今度は全員の視線が煉弥へ集中する。
沈黙が落ちた。
誰もすぐには言葉を続けられず、視線だけが煉弥と晶佳の間を何度も往復し、それぞれが頭の中で記憶や情報を組み立て直していた。
汐凪は少し考え込みながら、記憶の引き出しを一つひとつ確かめるようにゆっくりと言葉を残す。
「……確かに。その交流会のことは覚えてるけど、俺の方にそんな記憶はない。晶佳の存在は認識していたし、話していたら覚えていると思うんだけど」
「え」
晶佳が声を漏らす。
瞬きを繰り返しながら煉弥を見つめ、その横で汐凪が何とも言えない表情を浮かべていた。
晶佳の視線を受けながら、煉弥は気まずそうに頭を掻き、観念したように口を開いた。
「その頃、俺は斎祀に選ばれた直後だったんだ」
幼くして斎祀に選ばれ、神獣との契約を担う資格を得たことは周囲から見ても特別な栄誉だった。
周囲の大人たちは未来を嘱望するように彼を褒め、同年代の子どもたちもどこか一目置いた目を向ける。当然のように称賛を受け、将来を期待され続けた結果、自分は選ばれた側なのだという意識が少なからず膨らんでいたらしい。
今だからこそ苦笑混じりに語れるのだろうが、当時の煉弥はそうした評価を素直に受け入れ、自分は特別な存在なのだと少なからず思っていたらしい。傲慢というほどではなかったにせよ、周囲をどこか一段低い場所から眺めていた自覚はあるのだと。
幼い子どもが突然大きな期待を向けられれば無理もないことだったが、それでも振り返れば随分と鼻持ちならない子どもだったと本人は考えているようだった。
「正直、その頃は結構嫌な子どもだったと思う」
本人の率直な自己評価に、汐凪が小さな声で「今もだろ」と囁いた。
そんな中、水筑の交流会が開催されたそうだ。
「大人たちの話なんて退屈だったし、周りの子どもにもあまり興味がなかった。ただ、その中で妙に目につく子がいたんだ」
そこで彼の視線が自然と晶佳へ向いた。
当時の交流会には多くの名家の人間が集まっていたはずだが、その中で彼の記憶に残ったのは、一人の少女が慌ただしく会場を歩き回る姿だった。
どうやら、交流会の参加者として呼ばれた少女ではないらしい。
大人たちの後ろを小走りで追いかけ、頼まれた書類を運び、足りない物があれば先回りして用意し、誰かに見られていなくても当然のように動き続ける。
最初は何となく眺めていただけだった。だが時間が経つほど、その姿が目についたのだという。
わざわざ手伝いに出ているのだから、名家の誰かしらの目に留まることが目的なのかと考えた。
だが、誰かに褒められたいようには見えなかった。目立とうとしているわけでもなく、評価を求めている様子もない。
「だから不思議だったんだよな。誰も見てないのに、なんでそんなに頑張るんだろうって」
水筑の使用人に彼女について聞けば、汐凪の婚約者候補だという。
水斎祀の婚約者は特別だ。準斎祀とも呼ぶべきか、斎祀と共に試練を受ける役割があり、保護と尊敬を受ける立場である。
ならば「交流会に参加したい」とわがままでも言って、座敷で踏ん反り返っていたっていいはずだ。
それでも少女は忙しなく動き回り、疲れた顔一つ見せず、自分にできることを探していた。
「変なやつだなと思った」
煉弥は率直にそう言った。
自分ならもっと褒められたいと思うだろうし、誰も見ていないなら適当に済ませることも考える。けれどその少女にはそうした打算が見えなかった。
だから気になったのだ。
交流会の賑わいから少し離れた場所で声を掛けた時も、彼女は自分の働きを誇るわけでもなく、それが当然であるかのように『当たり前のことです』と答えた。
家の教えを忠実に守る子どもは珍しくない。しかし彼女から感じたものは服従や義務感だけではなかった。
だから煉弥は胸の奥に小さな敬意が芽生えるのを感じながら、少しだけ笑った。
誰かに認められるための誇りではなく、自分自身のために持ち続ける誇り。その眩しさに胸を打たれたからこそ、煉弥は自然と言葉を選び、彼女へ伝えた。
こんな人間がいるのかと思った。
強い人だと思った。
自分よりずっと誇り高く、ずっと真っ直ぐな人間だと思った。
その尊敬は憧れへ変わり、交流会の感想や好きな食べ物を話す何気ない時間の中で、もっと知りたいという気持ちへと育っていく。
夕暮れの光の中で笑う少女の横顔を見ながら、胸の奥が妙に落ち着かず、けれど不快ではない熱を帯びていることに気付いた時、幼い煉弥はまだその感情の名前を知らなかった。
ただ、その日灯賀へ帰る中でも、翌日になっても、ふとした拍子に思い出すのは少女のことばかりで。
後になって振り返れば、それが彼の初恋だった。
