「そもそもお前は正式な依玖の護衛というわけでもないのだろう?」
煉弥は腕を組んだまま首を傾げ、その問いを向けた。
「そこまで責任を負う必要はないだろう」
沈黙の後、晶佳はぽつりと口を開いた。
「私はあの日から、貴方のために生きると決めていたから」
貴方、という言葉の向いた先を、全員が理解する。
汐凪はその視線を受けながら、表情を変えなかった。
晶佳はそんな反応を気にすることなく、どこか他人事のような落ち着いた声で語り始める。
「私は分家の中でも比較的本家に近い血筋だったから、周囲からは汐凪様の婚約者候補として扱われることも多かった。それに相応しい人間になれと育てられたし、私自身も期待に応えようと思っていた」
次期斎祀の筆頭婚約者候補。その言葉を初めて聞いたのが何歳の頃だったか、もう正確には思い出せない。
ただ、その言葉が自分の背骨になっていくのは感じていた。
それに相応しくあるために、努力した。稽古を重ねた。振る舞いを磨いた。
誰かに言われるより前に、自分でそうしようと思っていた。
それは義務だったのかもしれない。あるいは誇りだったのかもしれない。
そう語る声には恨みがましさも、自慢げな響きもない。
「だから勉強もしたし、鍛錬も、礼儀作法も、術式の習得も。水筑様の隣に立てるだけの人間になるために、それだけを考えて。全部当然のことだと思っていたし、不満もなかったわ」
晶佳は淡々と話しているが、その言葉の裏には相応の努力が透けて見える。
幼い頃から将来を決められ、期待に応えるためだけに積み重ねてきた日々は決して楽なものではなかったはずだ。
「とある年に、本家で交流会があった。他国の斎祀候補や名家の子息を招いた、大きな集まりよ」
晶佳は参加者だった訳じゃない。しかし次期婚約者候補として、分家の末席の責務として、頼まれてもいない手伝いをするべく、大人達の後ろをついて歩き回っていたらしい。
「大人たちは正直、邪魔だったでしょうね。子どもが後ろをうろうろしているわけだから」
それでも追い払われなかったのは、微笑ましいと思ってもらえたのか、あるいは筆頭婚約者候補への配慮か。簡単な手伝いをいくつか任せてもらって、それをこなしながら一日を過ごした。
実際のところ、大人たちからすれば晶佳の存在は手伝いというより気遣う対象だったのかもしれない。かえって手間を増やしていた可能性すらある。
それでも当時の晶佳はそんなことを考えもしなかった。
自分は水筑の分家の人間であり、将来は本家を支える立場になる。
だから役に立つよう動くのは当然のことである。
そんな一心で誰より真面目に動き回り、大人に頼まれたことはもちろん、頼まれていないことまで探しては手伝おうとしていた。
その頃の晶佳にとって、汐凪との婚約はまだ確定した未来ではなかった。
筆頭候補と呼ばれてはいても、それはあくまで候補でしかなく、何か一つで覆る可能性だってあったはずだ。
けれど彼女は幼いながらに、自分がその未来へ続く道を歩いているという自覚を持っていた。
だからこそ振る舞いには人一倍気を配り、誰かに見られている時だけではなく、見られていない場所でも恥ずかしくない行動をしようとしていたのだろう。目に浮かぶ。
「交流会も終わりに近づいた頃、私は庭の端で落ち葉を集めていた」
日が傾き始めた庭には長い影が伸び、昼間の賑わいが嘘のように静けさが戻りつつあった。
客人たちはそれぞれ案内され、大人たちも後片付けや見送りへ移り始めている。
そんな中で晶佳だけは最後まで何か役に立てることはないかと探し回り、誰に頼まれたわけでもない落ち葉集めまで始めていたらしい。
そして誰かが来た気配がして、顔を上げると汐凪が立っていた。
「その時、水筑様に話しかけていただいたの」
晶佳は酷く驚いたらしい。交流会の主役格である汐凪が、庭の端で落ち葉を集めている子供に声をかけるなど、思ってもみなかったから。
「何故そんなに一生懸命なんだ、と聞かれたわ」
晶佳は当時を思い返すように目を伏せる。
──『お前は今日一日、誰よりも真面目に動いていた。大人でも疲れる場で、頼まれてもいないことまで探して、それでもまだ夕刻に落ち葉を集めている。家のためだけでそこまでできるものか』
「最初、意味がわからなかった。一生懸命なのは当たり前のことだったから。水筑の分家として、将来本家を支える者として、できることをするのは当然だと思っていた」
その横顔を見つめていると、当時の彼女がどれほど真面目に、そして疑いなく自分の役目を受け入れていたのかが伝わってきた。
だから何故と問われた時も、彼女は迷うことなく『水筑様の婚約者候補として当然のことです』と答えたらしい。
しかし、こう返されたのだそうだ。『まだ決まったわけじゃないんだろう』、と。それなのに、そんなに頑張れるものかと。
「私はまだ、水筑様の隣に立つには未熟です。けれど、足りないのなら足りるようになればいい。選ばれるような自分になればいいのだ、と。思えば随分無礼だったけれど、そう言ったの。そうしたら……」
少し目を細めた彼女は懐かしむように視線を遠くへ流した。
夕暮れの光を背負った少年の姿は輪郭ばかりが眩しく、その表情は判然としなかったはそうだが、晶佳の記憶にはその時感じた空気が鮮やかに残っているらしい。
「笑われたの。逆光の中でよく見えなかったのに、そんな顔をするんだ、と思ったのを覚えてる」
そして彼は言ったのだという。
──『家のためでも、誰かに見られているからでもなく、自分でそう選んだのなら、それがお前自身の誇りなんだな』
「その後、少しだけ話をした。大した話じゃないわ。交流会の感想だとか、好きな食べ物だとか。子どもの他愛ない話」
そう言って、晶佳は微かに笑った。
けれどその時間が彼女にとってどれほど特別だったのかは、その笑みの柔らかさを見れば分かる。
何気ない雑談の内容など今では曖昧になっているのかもしれない。それでも、そこで交わした言葉や空気、初めて自分自身を見つめ直した時の感覚だけは、今なお鮮明に胸へ残り続けているのだ。
「私はその時まで、自分がそういう人間だとは思っていなかった。家のために動いていると思っていた。期待に応えなければと思っていた。でも水筑様にそう言われて、初めて気がついたわ」
一度言葉を切った晶佳は、自分自身の形を確かめるように静かに息を吐いた。
「私は、そうありたかったんだと。誰かに言われたからではなく、見られているからではなく、自分がそういう人間でありたかった。水筑家のためでも式海のためでもなく、私自身の矜持として」
その声には揺るぎない芯が通っており、長い年月をかけて磨かれた覚悟が確かな重みを伴って響く。
「それから私は決めたの。この人の隣に立つに相応しい人間になろう。恥じない人間であろうって。婚約者候補だからとか、分家の責務だからとか、そういう理由じゃなくて」
自分の在り方を言い当てられた驚きと、自分でも知らなかった願いを見つけてもらえた喜びがあり、その感情は幼い少女の胸に小さな火種として残り続けた。
そしてその火は消えることなく、彼女が歩み続けるための灯となったのだろう。
きっと彼女が追い続けてきたのは水筑の後継、次期斎祀という肩書ではない。
夕暮れの光の中で、自分自身すら見つけられなかった本心を言い当ててみせた一人の少年であり、その隣に胸を張って立てる自分自身だったのだ。
