神域からの帰還後は想像していた以上に慌ただしかった。
事情聴取や関係各所への報告が立て続けに行われた後、私たちは当初滞在する予定だった宿泊先へ戻ることなく、そのまま千金楽の本邸へ移されることに。
理由は明白で、襲撃時に珠輝と行動を共にしていた以上、私も晶佳も重要参考人である。状況が完全に収束したとは言い切れない現段階では保護と監視を兼ねて一箇所へ集めておく方が管理しやすいのだろう。
表向きは客人として扱われていても、自由に出歩ける立場ではないことくらいは理解できた。
襲撃直後なのだから致し方ない、むしろ安全な場所を提供されているだけ恵まれている。
そんな中で不幸中の幸いだったのは、お土産の水まんじゅうを無駄にせず済んだことだ。
最悪の場合は同室だった仲間たちと分け合う予定だったが、こうして本邸へ滞在することになったおかげで珠輝本人へ直接渡す機会ができた。
受け取った珠輝が素直に喜んでくれたこともあり、慌ただしい数日の中では数少ない穏やかな出来事だったように思う。
そうして一通りの用事を終えた私は、大浴場でひとっ風呂浴びた後、宛てがわれた部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。
磨き上げられた廊下はどこまでも続いているように見える。庭へ面した側は障子やガラス戸が開け放たれているため、心地よい柔らかな風が静かに吹き抜けていった。
ふと視線を庭へ向けた私は、その一角に汐凪と煉弥の姿を見つけて思わず足を止める。
帰還後はそれぞれ事情聴取や家の対応に追われていたため、こうして落ち着いて話している姿を見るのは神域以来かもしれない。
二人は庭石の近くに立ちながら何やら真面目な話をしているようだった。
さすがに距離があるため内容までは聞き取れないものの、互いに向き合う表情からはいつもの軽口を交わしている雰囲気とは少し異なる空気が感じられる。
顔を合わせれば反射的に言い争いを始める二人が珍しく落ち着いた様子で言葉を交わしている光景に興味を引かれ、私はその場から離れることなく、しばらく二人の様子を眺めることにした。
しかし視線に気づかれたらしい。不意にこちらを振り返った汐凪が表情を和らげ、目を細めながら手を振ってきた。
隠れて見ていたつもりはなかったものの、こうもあっさり見つかると妙に気まずい。
私は軽く手を振り返し、足元へ視線を落とした。廊下の縁には沓脱石が据えられており、サンダルが何足か揃えられている。
せっかく見つかったのだから合流してもいいだろうかと思いかけたところで、庭の反対側から人影が近づいてくるのが見えた。
晶佳だ。
彼女は私の存在に気付いていないはずもないのに、ちらりと一度だけ視線を寄越した後は何事もなかったかのように視線を外し、そのまま当然のように汐凪たちの方へ歩いていった。
何となく扱いが雑ではないだろうかと思いながら見守っていると、晶佳は二人の傍まで来たところで立ち止まり、次の瞬間にはごく自然な動作で汐凪の隣へ膝をつく。
その仕草があまりにも迷いなく行われたせいで、私は思わず瞬きをした。
「デジャブだ……」
やはり降りた方がよさそうだと判断してサンダルを借り、沓脱石から庭へ足を下ろす。
晶佳は普段と変わらない淡々とした口調のまま、汐凪に対して頭を下げている。
「一度ならず二度とまでも、御婚約者様を危険な目に遭わせてしまい、不徳の致すところです」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
理解した後も、なお理解できなかった。
本人は至って真面目で、冗談を言っている様子もなければ皮肉を込めている気配もない。
なんだこいつ……。
内心の感想がそのまま顔へ出そうになるのを辛うじて堪えながら、私は額を押さえた。
「いや別に、私のこと守ろうとかそういう空気なかったじゃん」
二人で珠輝を守ろうと提案したのは私の方だったし、晶佳も反対するどころか当然のこととして受け入れていたはずで、少なくとも私を優先しようという空気は感じなかった。
もちろん見捨てられたとかそういう話ではないのだが、少なくともあの場で彼女の意識が向いていたのは明らかに珠輝だった。
ところが晶佳は顔を伏せたまま、淡々と反論し出す。
「私の力量では斎祀様と貴女の二人を纏めて守り切るのは難しいと思ったから。より危険度の高そうな珠輝様を優先しただけよ」
晶佳はそこで言葉を終えず、少しだけ視線を伏せながら続けた。
「本来なら、水筑の分家筋として私は貴女を守るべきなの」
彼女にとっては冗談でも建前でもなく、本当にそう考えていたのだろう。
「貴女自身の安否はどうでもいいけれど、"水筑様の御婚約者"を守るのが私の役目だったのに、私はそれを後回しにした。咎めを受けて当然よ」
枕詞が余計では。
しばらく晶佳の横顔を見つめた私は、結局最も素直な感想だけを口にした。
「ややこしい女だなほんと……」
晶佳は不満そうに眉を寄せたものの、それ以上は何も言い返さなかった。反論したところで余計に話が拗れると理解しているのかもしれない。
そんな微妙な沈黙が流れたところで、不意に煉弥が小さく笑う。
「いや、むしろ上出来だろう」
晶佳が怪訝そうに顔を向けると、煉弥は腕を組みながらどこか面白そうに口元を緩めていた。
「霊力の消耗した二人を抱えて複数の敵と対峙する中で、優先順位をつけたのは正しい判断だ。結果的に神域まで全員生存で辿り着いてるんだから、評価されることはあっても責められることではないだろう」
神域へ至るまでの道のりを思い返してみても、あの時の私たちは決して余裕のある状態ではなかった。
霊力は消耗し、敵の正体も規模も分からない。そんな中で全員を守ると理想論を掲げることは簡単だが、実際にそれを実現できるかは別問題だ。
「全員を守ろうとして中途半端になる方がよほど危険だ。むしろオレは評価するぞ。あの状況で迷わなかったのは大したものだ」
煉弥は断言した。そこにはお世辞も遠慮もなく、実力主義の彼らしい評価だけがある。
だからこそ晶佳も軽々しく否定できなかったのだろう。彼女は何か言いかけて口を閉ざし、僅かに視線を伏せる。
その様子を見ていた汐凪も静かに口を開いた。
「俺も同意見かな」
煉弥ほど断定的ではないが、その言葉には迷いがない。
「その時点で持っていた情報と状況を考えれば妥当な判断だったと思う。そして結果的に珠輝様も依玖も無事だった」
そう言って汐凪は私へ一度視線を向け、それから再び晶佳を見る。
「もし依玖が本当に危険な状態になっていたら、たぶん君はそっちも助けに動いていたと思うしね」
「……買い被りです」
「そうかな」
晶佳の否定を汐凪は軽く受け流す。どこか確信しているような笑みだった。
「少なくとも、咎めを受けるような話じゃないと思う」
静かに重ねられたその言葉に、私は思わず頷いた。
そもそも私自身、晶佳に対して不満など抱いていない。
助けられなかったと思われるほど危険な目に遭った記憶もなければ、守られなかったという感覚もないというのに、本人だけが律儀に責任を抱え込んでいる。本当に面倒くさい。
晶佳はしばらく黙っていた。
理屈で言えば反論はいくらでもできるのだろう。分家としての責務、本来の護衛対象、優先順位の問題、あるいは結果論で評価すべきではないという考え方もある。
それでも言葉が続かないのは、自分でもどこかで分かっているからかもしれない。
理想通りではなかっただけで、最終的な結果は守られている。
しばらくして晶佳は小さく息を吐いた。
