黄金の瞳がゆっくりと私たちを見回す。
『珠輝がここへ来たということは、外の騒ぎも相応なのじゃろう』
「は、はい」
珠輝が背筋を伸ばして頷く。
つい先ほどまで顔を赤くしていたのが嘘のように表情を引き締め、そのまま現在の状況を簡潔に説明し始めた。
「千金楽の結界の複数箇所が破られています。敵の正体も目的もまだ断定できておりませんが、神域を目指している可能性は高いかと」
『うむ』
神獣様は落ち着いた様子で耳を動かした。
侵入者が現れ、神域が狙われているかもしれないという報告を受けているにもかかわらず、焦りも警戒もほとんど見えない。まるで遠くの村で雨が降っていると聞かされた程度の自然さだった。
神獣だから余裕があるのか、それとも本当に危機感がないのか判断に困る。
だが次の言葉に、私たちは思わず息を呑んだ。
『実はの、儂の結界も一部揺らいでおる』
「え!?」
神域周りの人避けと、神域を囲う結界は神獣により張られている古代の術式だ。護家の結界とは成り立ちからして異なり、長い年月を経てもなお機能し続けている規格外の存在である。
それが綻ぶことは普通考えられない。
神獣様はそんな私たちの反応を見ながら、少し困ったように鼻を鳴らした。
『外部から攻撃を受けているわけではないようなのだが……』
どうやら原因そのものが分かっていないらしい。
外から破壊されているならまだ対処しやすい。だが内側から綻び始めているとなれば話は別だ。
神獣様ほどの存在が原因を把握できていないという事実も、地味に恐ろしい。
私が考え込んでいると、神獣様は足元へ視線を落とした。
そこには先ほど折れ落ちた角が転がっている。
『じゃからの、神域の周りの適当なところにこいつをぶっ刺してきておくれ。結界の補強になるからの』
言いながら、角の欠片を鼻先で軽く転がす神獣。
確かにこれを結界の要所へ設置すれば、とんでもない補強効果があるだろう。お土産というのは冗談だったらしい。
『余ったらお主らでわけっこして持って帰って良いぞ』
「全部使っておきます」
『そうかの』
神獣様は少し残念そうに耳を伏せた。まるでお菓子のお裾分けを断られた時のような反応だった。
神獣様から角を預かった珠輝は、それを丁重に抱えながらすぐに立ち上がった。
「では、すぐに設置してきます」
結界の異常が確認されている以上、一刻も早く補強したいという気持ちは当然だろう。
だが神獣様はその言葉を聞くなり、のんびりと耳を揺らした。
『あぁ待て待て。まだ騒ぎは収まっておらん。落ち着いたらで構わんよ』
「ですが……」
珠輝が言い淀む。
神域の結界が揺らいでいると聞かされた以上、後回しにしてよい問題には思えないのだろう。
私も同意見だった。原因不明の異常など放置して良いものではない。
しかし神獣様は気にした様子もなく鼻を鳴らした。
『今すぐどうこうなるものでもない』
その口調には説得力があった。どうやら、結界が揺らいでいるとはいえ崩壊寸前というわけではないらしい。
ならば優先順位は別にある。
私も気持ちを切り替えながら口を開いた。
「襲撃が続いているのなら、そちらの鎮圧も必要でしょう」
神域の安全が確保されている今、外で動いている侵入者への対応も考えなければならない。
「珠輝はこちらで待機していただいて、私たちが──」
そう提案しかけたところで、神獣様が愉快そうに喉を鳴らした。
『おぉ、お主らもゆるりとせい』
ゆるりとしていろと言われても、現在進行形で侵入者が暴れている状況なのだが。
だが神獣様は私たちの反応を気にした様子もなく、ゆっくりと鼻先を持ち上げる。
『ほれ』
まるで風の匂いでも嗅ぐような仕草だ。
『強い水と火の気が近付いてきておる』
私と晶佳は思わず顔を見合わせた。
水と火。
その組み合わせに心当たりがないわけではない。
『随分と元気に暴れておるのう。あれならすぐ収まるじゃろうて』
神獣様は実に気楽に言った。まるで腕の立つ猟犬でも放ったような口調である。
『少し、外を見るかの』
神獣様はそう呟くと、巨大な蹄で地面を軽く叩く。
次の瞬間、金属の砂が静かに動き始める。さらさらと流れるように左右へ退き、地面の下から何かが押し出されるように迫り上がった。
銀色の板だ。
薄く、しかし大きい。地面からゆっくりと垂直に立ち上がり、私たちの前に鏡のように聳え立つ。
表面は完全に平らで、光を吸い込むのではなく溜め込むような、独特の輝きを持っていた。鏡面、というより水面に近い気がする。
板の表面が、じわりと揺れた。霧のような白が広がったかと思うと、すっと晴れて、映像が現れる。
「これは……」
珠輝が思わず息を呑む。
鎮守林だった。
つい先ほどまで私たちが通ってきた光景であり、木々の間を吹き抜ける風や揺れる枝葉まで鮮明に見える。
木々の間を、人影が走っていた。複数の気配が交錯して、霊力がぶつかり合う光が木立を照らしている。
『ほれ、元気にやっておる』
「あ」
思わず声が出た。
色素の薄い髪が木立の間を翻り、鋭い目が正面を睨んでいる。汐凪だ。
そしてその隣、半歩後ろに煉弥がいた。
『なかなかやるのう、あの二人』
神獣様が感心したように言った。
片方は荒れ狂う水流のような霊力を纏い、もう片方は燃え盛る炎そのものを思わせる気を放っている。
いや、二人とも襲撃者と戦っているのだが、どう見ても互いへの苛立ちも混ざっている。
『そっちに飛ばすな!』
『お前が避けるからだろ!』
映像越しにもはっきり聞こえる怒鳴り声。
煉弥が放った炎は完璧な制御で森を焼くことはなく、正確に追い立てられた襲撃者が飛び出した瞬間、今度は待ち構えていた汐凪の術式が容赦なく叩き込まれる。
水の鎖が大蛇のように伸び、侵入者をまとめて木へ縫い付けた。
連携としては完璧だった。問題は当人たちにその認識が全くなさそうなことである。
『お前、少しは加減を覚えろ!』
『それはこっちの台詞だ』
再び怒鳴り合う。
しかしその直後には別方向から飛び出した襲撃者へ同時に反応し、炎と水が寸分違わず交差して相手の退路を塞ぐ。
まるで長年訓練を積んだ相棒同士のような動きだった。本人たちが認めたら憤死しそうだが。
晶佳も同じことを思ったらしく、何とも言えない顔になっている。
珠輝に至っては映像と私たちの反応を交互に見ながら小さく首を傾げていた。
「……仲が良いのですか?」
「そうなんですけど、認めないんですよね」
『水の仔と火の仔が揃うと、そうなりがちじゃな』
神獣様が穏やかに言った。どこか見慣れた光景を眺めるような口調だった。
映像の向こうではさらに数人の襲撃者が現れるが、今度は煉弥が吹き飛ばし、逃げた先を汐凪が捕らえ、その隙に別の敵を蹴り飛ばした煉弥へ汐凪が文句を言い、その文句を聞きながら煉弥が別の敵を叩き落としている。
もはや何を見せられているのか分からない。
少なくとも襲撃者たちにとっては最悪だろう。
高位術師二人が言い争いながら暴れ回っているせいで、どこへ逃げても水か火のどちらかが飛んでくる。
『ほれ、言ったじゃろう』
神獣様が満足そうに耳を揺らした。
『すぐ終わるとな』
その言葉通り、映像の中では既に襲撃者たちの勢いが目に見えて削がれている。
むしろ問題なのは侵入者ではなく、戦闘後に汐凪と煉弥の口論がどこまで続くかの方かもしれなかった。
