鎮守林を進む。
最初は木々の間を縫う風の温度が少し下がった、という程度だった。しかし奥へ進むほどに、その変化は確かなものになっていく。
木々の色が、少しずつ違う。幹の表面に鈍い光が混じり始めていた。葉の縁が、金属のように光を弾く。
足元の草花も同じだ。普通の緑の中に銀や金の光沢を持つものが紛れ込んでいて、踏みしめるたびに微かに硬い音がする。
神域が近い。
追っ手には会わなかった。人避けの結界がまだ生きているのか、林の奥に入ってからは足音も気配も遠のいている。
それでも三人とも緊張を解かないまま、足音を殺して進み続けた。
やがて木立が開ける。
巨大な水晶の結晶が、地から聳え立っていた。
一つ一つの結晶は人の背丈をはるかに超えて、幾本もの柱が並び立ち、互いに絡み合うようにして壁を成している。
内側から輝くような透明感があり、しかし中は見通せない。表面に触れれば吸い込まれそうな、そういう気配があった。
これが神域を覆う結界。
神獣の座す場所の、境界線。
珠輝が迷いなく歩み寄った。
結晶の前で立ち止まり、右手をそっと表面に当てる。霊力を認識するような間があって、それから水晶の光が柔らかく揺らいだ。
「参りましょう」
珠輝の小さな体が、するりと吸い込まれるように中へ入った。
次に私も続いた。水晶の表面に触れた瞬間、全身が細かく震えるような感覚が走る。異物ではないかと確かめるような、しかし拒絶ではない触れ方だった。
一歩踏み込むと、視界が白く飽和して、次の瞬間には内側に立っていた。
「……すごい」
さらに遅れて足を踏み入れた晶佳が、珍しく素直な声を出す。
森だ。
木々が鈍く光る金属でできている。
葉も、草も、地を覆う苔も、全てが金属の質感を持ちながら、しかし生きていた。
風が吹けば葉が揺れ、金属同士が触れ合う涼やかな音が森に満ちた。しゃらしゃらと、細い鈴が鳴るような音だった。
その向こうから、大きな気配が来た。
『おぉ、おぉ』
水虎様とは全く違う形をしているが、纏う気配の重さは似ている。
白い体に、その一部が金属でできている鹿だった。
角は複雑に枝分かれして、その全てが磨かれた銀のように輝いている。一歩踏み出すたびに、蹄が地を打って、しゃんと音が鳴った。目は金色で、深い。
『よく来たの、金の仔ら』
穏やかな声が響く。老成した響きを持ちながらどこか親しみ深く、不思議と安心感を与える声だった。
踏み出すたびに地面を叩く音がして、それが森の中に澄んだ響きを残す。
金色の瞳が心配そうに珠輝を見つめた。その眼差しには親類の子どもを気遣う祖父母のような温かさがある。
『何やら外が騒がしいようじゃが、怪我はないか?』
「御心労おかけして申し訳ありません、神獣様」
珠輝が深く頭を下げると、神獣様はゆるりと首を振った。
『よいよい、お主こそ疲れておるじゃろう』
「少しだけです」
『少しだけと言う顔ではないのう』
珠輝は困ったように笑った。
「奉納式の後ですから」
『だからと言って無理をしてよい理由にはならぬぞ』
その声音には叱責より心配が滲んでいた。珠輝が幼い頃からこうして見守られてきたのだろう。
そこで神獣様の視線が、珠輝からこちらへ移った。
その瞬間、晶佳が迷いなく片膝をついた。私は一拍遅れてその動作に気付き、慌てて同じように膝をつく。
「此度は御身のお膝元にて、ご迷惑をおかけしております。瑞潮国よりご奉納に参りました。式海晶佳と申します」
「同じく、永露依玖でございます」
『ふむ、水ヤツのところの仔らか』
神獣様がゆっくりと近づいてきた。
立ち上がっていいのかわからないままそのまま待っていると、鼻先がすっと私の前に来た。確かめるように、ふんふんと息を吸う。
『おぬしは随分と水のヤツの気がするのう』
私は一瞬、返す言葉を探した。
「……お世話になっております」
他に言いようがなかった。
神獣様がくつくつと笑うような気配がする。
『仲良くしてやっておくれ。あやつ、ああ見えて寂しがりじゃからな』
神獣様は私から少し離れると、今度は私と晶佳を見比べるように視線を巡らせた。
その仕草だけで周囲の金属樹が微かに震え、葉擦れの音に似た澄んだ響きが森へ広がっていく。
『お主らが珠輝をここまで連れてきてくれたのか』
「正直に申し上げれば、行き当たりばったりでした」
明け透けな私の答えに、神獣様は不快そうな様子を見せるどころか、むしろ面白そうに目を細めた。
『ほほ。人の世の出来事なぞ、大半は行き当たりばったりじゃ』
晶佳が私を肘で軽くつつく。
余計なことを言うな、という意味なのか、それとももう少し体裁の良い説明をしろという意味なのかは分からなかったが、どちらにせよ今さら取り繕ったところで遅い気もした。
そんな私をよそに、晶佳は居住まいを正す。
「斎祀様御自ら神域へ向かうことをお決めになられたのです。お役目に従われただけでなく、神獣様を案じてのご判断でした」
神獣様は「ほう」と感心したように鼻を鳴らした。
『珠輝がのう』
そう呟いた神獣様は、どこか懐かしむような眼差しを珠輝へ向けた。
珠輝は少しだけ困ったように笑っている。
『小さい頃は泣き虫であったのに』
「神獣様」
『木の根に躓いて泣き』
「神獣様」
『鹿に追いかけられて泣き』
「神獣様」
『儂に怒られて泣き』
「怒られてはいませんでした!」
ついに珠輝が反論する。
先ほどまで神獣を守る覚悟を語っていた凛々しい斎祀の姿はどこへやら、今は昔の失敗談を暴露される孫娘そのものである。
神獣様は楽しそうに喉を鳴らした。
『よう育った。儂の珠輝は良い仔じゃのう』
「神獣様」
『賢いし優しいし頑張り屋じゃ』
「神獣様」
『可愛いしのう』
「神獣様」
もはや抗議というよりお願いに近い声音だったが、神獣様はまるで気にした様子もなく機嫌良さそうに尻尾を揺らしている。
やがて神獣様は何かを思いついたらしく、『可愛い珠輝に土産でもやろうかの』と立派な角を揺らしながら首を傾げた。
ぽろり、と実に軽い音を立てて角の先端がいくつか折れ落ちる。
あまりにも自然な動作だったため、一瞬何が起きたのか理解できなかった。
だが地面へ転がったそれは神気を濃密に宿しているのが離れていても分かる。
「いただけません!!?」
珠輝は一拍遅れて状況を理解すると、先ほどまでの照れも吹き飛んだらしく悲鳴のような声を上げた。
神獣の体の一部など、宝物庫へ厳重に封印されてもおかしくない代物だ。それを土産感覚で配ろうとしている時点で色々おかしい。
だが神獣様は『え〜、そうか?』不思議そうに耳を動かしているだけで、自分がどれほど非常識なことをしたのか全く理解していないらしい。
水虎様もかなり自由な性格をしているが、目の前の金の神獣様も別方向に大概である。
ふいに神獣様が声音を変える。
『さて』
それまでの和やかな空気が完全に消えたわけではないが、少なくとも話題が本筋へ戻ったことだけは分かった。
