八十八年目の星結び


 肌の上を氷水が走るみたいな悪寒が背筋を駆け上がる。

 ──襲撃だ。
 頭で考えるより先に身体が動いていた。
「失礼します」
「きゃっ」
 細い身体を抱き上げると、珠輝は突然のことに小さく声を上げたものの、すぐに状況を理解したらしく慌てて私の首へ腕を回す。

 警鐘はまだ鳴り続けていた。
 遠くで何かが燃えているのか、焦げた匂いが風に乗って届く。
 境内のあちこちで人々の戸惑いと怒号が上がり始め、警備の術者たちが走る気配が伝わってきた。

 私は人波を避けるように駆けながら、頭の中で必死に状況を整理する。
 敵の目的は何か。
 神域への侵入か、それとも斎祀の確保か。
 今この場で最優先すべきなのは、この少女を守ること。

 だが奉納舞の直後で、私たちの霊力は消耗している。一人で抱え込むのは危険だった。協力者が必要だ。
 神官? 使用人? 警備兵?
 迷ったのはほんの一瞬だった。
 私は走りながら、境内の人混みの中に一つの姿を探した。

 柱の陰で状況を確認しようとしている、見慣れた背筋の伸びた立ち姿。
 鋭い目つきで周囲を警戒している少女の姿を見つけた瞬間、私は一直線に駆け出す。

「っ、」
 名前を呼ぶ代わりに、腕を掴む。
 晶佳がぎょっとした顔でこちらを振り返った。
「は!? 貴女なに、斎祀様!?」
 晶佳は私の腕の中にいる珠輝を見た途端さらに目を見開く。驚きはしたが、悲鳴は上げなかった。さすがだと思う。

 私は息を切らしながら言い放った。
「この場で一番信用できるの、貴女だけだから」
「ば、ばっかじゃないの!?」
 晶佳の声が裏返った。
「貴女ついこの間あったこと忘れたの!? 私は反神獣団体と接触してたのよ!?」
「そうなんですか!?」
「だからこそでしょ」
「そうなんですか!?」
 腕の中で珠輝が素っ頓狂な声を上げながら、混乱したまま私と晶佳を交互に見比べていた。

 確かに晶佳は反神獣団体の策略に乗り、私を危機にさらした。
 だが、少なくとも、自分の信念を裏切るような人間ではない。

 晶佳はわなわなと肩を震わせたあと、とうとう頭を抱えた。
「〜〜あぁもう!」
 けれど、その目にはもう迷いがない。
 彼女は舌打ち混じりに周囲を睨み、声を潜める。
「状況は?」
「結界の一部が破られたっぽい、侵入規模は不明、狙いもまだ分からない」
「最悪じゃない」
 吐き捨てるような返答と同時に、境内の奥で再び何かが炸裂した。
 轟音が腹の底まで響き、空気そのものがびりっと震える。
 木々の梢から鳥たちが一斉に飛び立ち、黒い影となって空へ散っていくのが見えた。
 私は無意識に、腕の中の小さな身体を抱き込む力を強めた。

 晶佳が鋭く問う。
「どこへ逃げるの」
「人を避けたい」
 そう答えた瞬間、腕の中の珠輝がぱっと顔を上げて告げた。
「では、鎮守林へ!」



「──どうですか?」
 枝葉の隙間から境内の方角を警戒しながら問いかけると、隣で携帯端末を握っていた珠輝は、小さな眉をきゅっと寄せたまま画面を見つめ、それから静かに首を横へ振った。
「ダメです。繋がりません」
 薄暗い木陰の下で、端末の光だけが彼女の白い横顔をぼんやり照らしている。
 先ほどから何度も通信を試みているものの、応答は一切返ってこない。

「妨害電波か何かでしょうね」
 晶佳がそう当たりをつける。珠輝は端末を胸元へ引き寄せながら顔を上げた。
「式神を飛ばしますか?」
「居場所が割れるリスクは避けたいですね……。もう少し粘りましょう」
 私がそう答えると、珠輝も納得したように小さく頷いた。

 現在地は鎮守林の奥深く。
 幹の太い大樹の枝へ三人並んで腰を下ろし、葉の隙間から周囲の様子を窺っている。
 時折風に乗って届く鈍い破裂音だけが、騒乱がまだ終わっていないことを嫌でも思い出させる。

「かかったわ」
 不意に晶佳が低く呟いた。指先が僅かに動き、見えない糸を手繰るような仕草をする。
 私と晶佳は逃げ込む途中、林のあちこちへ金の霊力を使った細い金属線を張り巡らせていた。
 光を反射しないほど細い即席の罠だが、触れれば感知し、その場へ身体を拘束する程度の力はある。
 既に何人か引っかかっていた。正直敵か味方かまではわからないが、こちらへ近づいてくる存在をそのまま通すわけにもいかない。

「今更だけど、普通に避難した方が良かったんじゃない?」
 晶佳がぼやく。林の様子を油断なく窺いながら、しかし声だけはどこか呆れている。
 木漏れ日が彼女の横顔をまだらに照らし、疲労と緊張で少し尖った表情を浮かび上がらせていた。
「どこに敵がいるかもわからないから」
 私が答えると、晶佳は露骨に顔をしかめる。

 奉納式の大まかな予定は参加者へ周知されている。
 だが正式な開始時刻と終了時刻、それに警備体制の詳細を知ることができるのは千金楽家の関係者だけだ。
 にもかかわらず、奉納が終わったほぼ直後に襲撃が発生した。
 内部の情報が漏れていると思った方がいい。
「こういう時は一番信用している人を疑うくらいで丁度いい」
「貴女ね……」
 はあ、と盛大に呆れたような溜め息が落ちる。

「というかそんなこと、斎祀様の前で言うことじゃないでしょう」
 確かに、守るべき対象の前で身内すら信用するなと言うのは、あまり褒められた態度ではないかもしれない。
 けれど珠輝は不快そうな顔ひとつ見せなかった。
 むしろ少し困ったように微笑みながら、静かな声音で言葉を返す。
「いえ、どうしても身内相手には甘くなってしまうものですから。お二人に釘を刺していただけると助かります」

 その返答に、私と晶佳は思わず顔を見合わせた。
「人間が出来すぎている……」
「見習いなさいよ」
「貴女もね……」
 即座に言い返し、私たちは同時に顔をしかめた。