八十八年目の星結び


 やがて汐凪が静かに口を開く。
 感情を抑えた、それでいて真剣な声だった。
「このお話は、今までの斎祀には……」
 この裏話を知ったうえで歴代の斎祀たちは祭儀へ臨んでいたのか、それとも私たちみたいに、厳粛な試練だと信じたまま役目を果たしていたのか。

 水虎様は煎餅の欠片を咥えたまま、特に隠す様子もなく答える。
『聞かれたら答えておったよ。ま、祭儀の前から知っとったやつは一人か二人か……。お主にも伝わっとらんということは、聞いたやつらも口を噤んどったんだの』
「でしょうね……」
 汐凪が乾いた笑みを浮かべる。
 その声音には納得と疲労が半分ずつ混じっていて、彼以外の知ってしまった歴代斎祀たちが何を思い、何を抱えながら沈黙を選んだのか、少しだけ想像できてしまう。
 私がその立場だったとしても多分黙る。黙って墓まで持っていく。

 私は湯呑みへ視線を落としたまま、ふと頭に浮かんだことを口にした。
「こんな話、反神獣団体の人が聞いたらどうなっちゃうんでしょうね……」
 その呟きを耳にした水虎様がぱちりと瞬きをする。
『反神獣?』
 どうやら存在自体をご存知なかったらしい。
 私と汐凪は一度目を見合わせ、少し言葉を選びながら説明を始めた。

 神獣信仰への依存を批判し、人の社会は人自身の力で成り立つべきだと主張する集団。
 中には穏健派もいるが、過激な者たちは「神獣による加護そのものが虚構だ」「神獣こそが災禍を齎す魔獣だ」と唱え、加護や護家を権威維持のための欺瞞だと糾弾していること。
 近年は技術の発展もあって、「神獣なしでも人類はやっていける」という思想へ共感する若者も増えていること。

 水虎様はその説明を静かに聞き終えると、なるほどのう、と低く呟いた。
 私は少し躊躇ったあと、恐る恐る続ける。
「ちなみに、一応、不敬を重々承知で聞きますけど、「神獣が災禍を抑えているのは嘘」という主張に心当たりは……」
 本来なら神獣へ向けるには危うすぎる問いだ。
 けれど水虎様は怒る様子もなく、ゆるりと尾を揺らしながら穏やかに答える。

『安心せい。加護はちゃんと働いておるよ』
 その声音は不思議なほど静かだった。
 冗談も茶化しもなく、ただ淡々と事実を述べる響きだったからこそ、逆に重みがある。
 私は無意識に肩から力を抜いていた。
 どれだけ俗っぽい裏話を聞かされても、この存在が国を守る柱であること自体は変わらない。

『しかしそうじゃな……。世が荒れておった時代も、今や昔。人の生は短いからの。当時の様子など、風化しておっても不思議ではない』
 水虎様は窓の外へ目を向けた。窓越しの柔らかな光の向こうでは、穏やかな風が庭木を揺らしている。
 その瞳の奥には、人では到底辿り着けないほど長い時間が静かに沈んでいる。
 私たちにとって歴史書の中でしか知らない大災害も、この方にとっては”昔見た出来事”なのだ。

 汐凪が静かに言葉を継ぐ。
「文献なども残ってはいるのですが……」
『文字だけでは実感は残りにくいからの。飢えも洪水も、大地の裂ける音も、実際に見た者でなければ分からぬ』
 その言葉に、私は小さく息を呑む。
 書物の中で読む災禍は、どこか遠い。
 数字や記録として理解はできても、足元が割れる感覚や、濁流に街が呑まれる恐怖までは実感できない。
 平和な時代に育った私たちは、「昔は大変だったらしい」と知識として学んではいても、それを本当に理解しているわけではないのだろう。

『昔……8代ほど前じゃったか。土の斎祀が祭儀前に地に還ってしまったことがあってな。襲撃などでなくただの事故ではあったが……』
 さらりと語られた内容に、私は思わず背筋を伸ばした。
 斎祀が再誓の儀前に亡くなる。誰もが想像したくない事態だ。

『新しい斎祀もすぐに選定されたが、更新のための"調整"が遅れてしもうた。その時は多少、地が荒れた』
 多少、と水虎様は言った。
 けれど神獣の言う”多少”は、人間の尺度では到底測れないだろう。
『我らが降り立つ前の時代に比べれば極々小規模な災害じゃが……当時の者たちには、充分に恐ろしい体験じゃったろうて』

 しばらくの沈黙の後、水虎様がぽつりと呟いた。
『人とは難しいものじゃな』
 窓の外の庭木が、また風に揺れた。

『災禍が遠のけば、災禍の恐ろしさを知らずに育つ世代が出てくる。平和になれば、平和を維持しておるものを忘れる。じゃが、それもまた自然なことではある』
 責めるでもなく、諦めるでもなく、ただ長い時を生きた存在らしい穏やかな響き。
 波一つない深い水の底みたいな、静かな声だった。

『反神獣とやらの者たちも、平和な世に生まれたからこそ、そう思えるのかもしれんな。荒れた大地を知らずに育ったということじゃ。恨めしいとは思わんよ』
 人は平和に慣れる。痛みを忘れる。
 そして、守られていることすら当たり前になる。
 それは確かに、悪意というより生き物として自然な流れなのかもしれない。

『我らが直接民の前に立てれば話は早いのじゃが、それもなかなか難しくての。神域から出られぬ身では、存在するとわかっておっても遠い話になってしまう』
 水虎様は少し困ったように耳を伏せる。
 その姿はどこか寂しげですらあった。

 水虎様の声が、少しだけ柔らかくなった。
『お主らがおるから、我らは民と繋がっておれる。文字でも言葉でも届かぬものが、あの光の柱ひとつで届くことがある。じゃから派手にするのじゃよ』
「……そういうことなら」
 私は少し考えてから言った。
「ちょっと派手な演出も、許します」
 水虎様がくつくつと笑う。尾がゆったりと揺れた。汐凪が小さく息を吐いて、肩の力を抜いたのがわかった。

 窓の外の光は傾いて、庭木の影が長くなっていた。水虎様の分体はその光を透かして、ゆらゆらと輪郭を揺らしている。
 この方はずっと、ここにいたのだ。人の世が変わっても、信じる者が減っても、ただここにいて、大地の下の術式を守り続けていた。
 それを思ったら、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなったけれど、うまく言葉にはできなかったので、黙っておいた。

『で、我の名は?』
「た、たきつかがみがたやしおこもりのかみ!」
「違うね」
「えっ!? うそ!?」