八十八年目の星結び


 昼下がりの私室で、妙に熱の入った応援と悲鳴じみた声が交互に響く。
『いけっ! そこだ梨々子! 落とせ!』
「えぇ〜〜やだ〜〜、誠司さんは惑わされないで……」

 画面の中では、ここ数話に渡って主人公夫婦の家庭へ波乱を巻き起こしている悪女・梨々子が、しっとり濡れた瞳で主人公の夫・誠司へ詰め寄っている真っ最中である。
 実に20話かけて積み上げられてきた攻防だ。
 ここで誠司が絆されたら全てが終わる。頼む、と念じながら画面を見守っていると、誠司は梨々子の肩をそっと押しとどめた。
 真っ直ぐな目で、穏やかに、しかしはっきりと。

「そう! それでこそ!」
 思わず声が出た。誠司がいい男すぎる。梨々子の気持ちも分からないでもないのだが、それでも誠司には筋を通してほしい。通してくれた。えらい。
『っか〜〜! こりゃ梨々子の心についちまったなぁ、"火"……』

 隣からやけに味わい深い感想が飛んだその時、部屋の扉がコンコン、と音を立てた。
「依玖、居る? 今いいかな」
 扉越しの汐凪の声を聞き、チラリと隣に視線を向けると、画面から目を離さないまま『よいぞ〜』と返される。
 それを確認してから、扉の向こうに返事をした。
「はーい、どうぞー」

 開いた扉の前に、汐凪が紙袋を提げて立っている。有名な高級和菓子屋の袋だ。老舗の、贈答用でしか見ないやつ。
「さっきいただいたんだ。一緒に食べようと思っ、たんだけど……?」
 彼の視線が、ゆっくりとソファの隣へ流れた。

 虎がいる。
 小さく、体の一部が水のように透けていて、ゆらゆらと尾を揺らしながらテレビを見ている虎が。
『おっ、久遠堂の練切じゃな?』
 紙袋の方にふんふんと鼻を鳴らし、機嫌良さげにヒゲを震わせた虎が。

 汐凪が目頭を揉む。一度、二度。
 それから何かを腹に決めたような顔をして、静かに膝をつき、深く、深く額を伏せた。
「水の神獣様。お目にかかれて光栄です。不意の御来訪、失礼をお許しください……」
『あぁ良い良い、水の仔よ。堅苦しいのはいらんよ』
 神獣様は鷹揚に言いながら、気楽そうに前足を振る。

 汐凪がゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。目の中に小さな疑問符がいくつも浮かんでいるのが見えた。
「……これは、どういう状況?」
 正当な疑問だと思う。
 テレビへ視線を戻すと次回予告が流れはじめていた。梨々子がまた懲りずに笑っている。来週も荒れそうだ。
「一緒に昼ドラ観てました」
「昼ドラ……」

 汐凪が徐に部屋へ入ってくる。扉を閉めて、ソファの前まで来て、神獣様と私を交互に見て、それからもう一度、神獣様を見た。
 神獣様は紙袋をふんふんと確認しながら尾をゆらゆら揺らしている。

 膝をついた汐凪が丁寧に包みを取り出して、神獣様の前へ置いた。練り切りが三つ、花の形に整えられている。
 神獣様が鼻先でくんくんと確かめてから、満足そうに目を細めた。
『うむ。久遠堂はやはり良い』
「……ありがとうございます」
 満足そうに目を細めた神獣様に、汐凪は神妙な顔で頭を下げた。

 それからそっと立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。
「いつから……」
「六歳の頃からの友達で」
「あの頃から……」

 当時の私は敷地内をふらふらと散歩するのが日課だった。
 花があれば眺め、虫がいれば追いかけ、知らない道があれば入ってみる。誰かに止められるまで歩き続けるような子どもだった。
 その日も気がつけば随分と奥まで入り込んでいた。
 敷地中を張り巡っている水路を辿ると、普段は入ったことのない区画まで行き着く。
 木々が深く、足元も苔むしていた。空気が違ったのを覚えている。
 冷たくて、重くて、でもなぜか怖くなかった。むしろ静かで心地いいくらいだった。

 そこに、虎がいた。
 逃げた方が良かったのかもしれないが、その時はそういう発想が出てこなかった。
 透き通る水みたいな身体を木漏れ日が照らし、その輪郭がゆらゆら揺れている様子は、子ども心にも現実離れしていて、綺麗だな、と思ったのだ。

『迷い込んだか、小さいの』
 低く響いた声は不思議と穏やかで、怒られなかった。
『まあ良い。ここまで来られたのなら縁があるということじゃ』
 その言葉と共に、水のような尾がゆらりと揺れる。
 それが始まりだった。

「通常、神域には近づけないようになっているはずですが……」
 汐凪が静かに疑問を呟く。
 神域周辺には複数の結界と認識阻害が施されており、普通の人間はまず辿り着けないのだ。
 近づこうとしても自然と足が向かなくなる。気がつけば別の道を歩いている。そういう仕組みになっているはずだった。

『神域周りの様子は中からでも感知できるからの。何やらちいこいのが迷いなくまっすぐ近づいてくるから気になって、人避けは施さんかった。悪意もなかったしの』
 神獣様が練切を器用に前足で押さえながら、鷹揚に説明する。

『それで帰り道を教えてやったら、お礼にと翌日また来おったんじゃ。どんぐりを持って』
「持っていきました」
 どんぐりのお礼というのも今思えばよくわからないが、子供の発想とはそういうものだろう。
 神獣様はたいそう喜んでくださった。

「以来こうして、ちょこちょこ遊びに来てくれて」
『本体は神域から離れられんが、近い範囲を見聞きする程度であれば分体を飛ばせるでな』

 それを聞きながら、汐凪は静かに何かを飲み込んでいる顔をしていた。
「それで、神獣様と昼ドラを……」
「お好きみたいで」
『人間の情愛の機微は見ていて飽きんな。特に今作の梨々子は業が深くて良い』
「なるほど」
 汐凪は静かに相槌を打った。動揺しているのかしていないのかわからない顔だった。適応が早い。さすがだと思う。

『梨々子の話、聞かせてやろうか。悪い娘ではないのじゃよ、あれも』
 神獣様がそう言いながら私の方へ顔を向ける。
「あ、はい」
 私は汐凪へ向き直った。
「20話分あるんですが」
「……頼む」
 覚悟の滲んだ返事だった。

 神獣様は満足そうに尾を揺らしながら、二つ目の練り切りに鼻先を寄せている。
 ちらりとそちらを見て、私は口を開いた。
「水虎様、私の分もどうぞ」
『むむ……、いや、よいのだ。仔からおやつを取ったりせぬのだ、我神獣だから……』
 いいのに。

 それをみていた汐凪が目を瞬かせた。こちらを見て、神獣様を見て、また私を見る。
 そしてこちらへ耳打ちするように言った。
「水虎様、というのは……」
「神獣様のお名前、長くて……」
「真名をお教えいただいて」
「はい」
「それが長くて」
「はい」

 神獣様の耳がぴんと立ち、誇らしげな気配がふわりと広がる。
瀧津鏡水方八潮虎守神(たきつかがみかたやしおこもりのかみ)という』
 汐凪がさっと居住まいを正した。
「は、光栄に存じます、瀧津鏡水方八潮虎守神様」
『うむ、水の仔は飲み込みが早くて良い。お主も水虎様、で良いぞ』
 神獣様の尾が満足そうに揺れる。
 褒められた汐凪はわずかに肩の力を抜いた。

 私はというと、久しぶりに聞いたその長大な真名が頭の中でまだ絡まっており、改めて口の中で転がすように繰り返してみる。
「たきつかがみかたやしおこもりのかみ」
 声に出すと改めて長い。
 その様子を見た汐凪が微笑んで言った。
「十分後にもう一度聞くね」
「た、たきつかがみかたやしおこもりのかみたきつかがみかたやしおこもりのかみたきつかがみかたやしおこもりのかみ……」