八十八年目の星結び


「──今年は何を祈るの?」
 すぐ後ろから聞こえた声に、私は一瞬手を止めた。
 あまりにも自然だったせいで驚く暇もなく、私はそのまま振り返らずに答える。
「去年までは毎年世界平和だったんですけど」
 背後から「依玖らしいね」と小さな笑い声が聞こえた。

 周囲を見れば、既に多くの生徒たちは流した灯籠を追い掛けるように下流側へ移動しており、岸辺の人影は少なくなっている。
 賑やかだった声も遠ざかり、湖面を渡る風と水音だけが近くに残っていた。

 私は手の中の灯籠へ視線を落とす。
 本来なら真面目な願い事をするべきなのかもしれない。世界平和だって半分は本気だった。
 けれど今の私は、もっと別のことを考えている。

 本当は色々言いたいことがあった気がする。来てくれてありがとうだとか、お疲れ様だとか。
 けれど口から出たのは別の言葉だった。
「……今後は、婚約者に放っておかれないようにお願いします」
 随分と子供じみた言い方になってしまったことに、言ってから気が付く。

 その後ろで、ふっと空気が止まった。
 振り返らなくても分かった。汐凪が固まっている。目を丸くしている気配が背中越しに伝わってきた。
 私はそれを感じながらも顔を上げず、水面を流れていく灯籠を見送った。

 言ってしまったものは仕方がない。どうせ今さら取り消せない。むしろ少しくらい困ればいい。
 そんなことを思っている自分に気付き、私は自分でも意外なほど素直に拗ねていたらしいと、ようやく自覚した。

「……依玖」
 呼ばれた声はどこか困ったようでもあり、信じられないものを見たようでもあった。
 私はそこでようやく振り返る。案の定、汐凪は目を丸くしていた。
 祭儀用の正装のまま駆けつけたのだろう、髪も衣も少し乱れていて、額にはうっすら汗が滲んでいる。相当急いできたらしい。

「何ですか」
 なるべく平然とした声を出したつもりだったが、胸の内に溜まっていたものを完全に隠し通せるほど器用でもなく、僅かな棘が混じってしまった。
 汐凪は数秒ほど言葉を探すように口を開きかけては閉じ、また言葉を探すように視線を泳がせた。
「怒ってる?」
「別に」
「怒ってるね」
「怒ってません」
「その返し方をする時は大体怒ってる」
 あまりにも迷いのない断言に私は思わず顔をしかめた。即座に見抜かれたことが悔しくて、口元が不満げに尖る。
 水面を流れていく灯籠を目で追いながら、なるべく汐凪の方を見ないようにした。

「ごめん、最近ずっと忙しくて」
「知ってます」
「祭事の準備もあったし、襲撃の後始末のこともあったし」
「知ってます」
 だから忙しいこと自体に文句があるわけではない。むしろ無理をしているのではないかと心配になるくらいだ。
 しかし、だからといって私の不満が消えるわけでもない。

「煉弥も来たし」
「それです」
 その言葉を聞いた瞬間、私はじとりとした視線を向ける。
 ようやく本題へ辿り着いた気がした。
「……それ?」
「それですよ」
 あまりにも心当たりがなさそうな反応に、私は思わず身を乗り出した。
 そんな私の勢いに押されたのか、汐凪がわずかに身を引く。

「最近ずっと煉弥様と一緒じゃないですか」
 言った途端、汐凪が瞬いた。
 どうやら本当に自覚がなかったらしい。予想していた反応ではあったが、こちらとしては納得がいかない。
「朝もそうですし、昼もそうですし、気付けばいつも二人でいるし」
 言葉を重ねるたびに思い当たる場面が次々浮かび、自然と口調に不満が滲んでいく。
「それは」
「最近は私よりお話ししてるんじゃないですか?」
「それはない」
 返答はあまりにも早かった。一瞬たりとも迷わず、考える余地すらないと言わんばかりの即答である。
 だが否定されたことにむむッと眉を寄せる。

「同じ立場のお友達ができたのが嬉しいのはわかるんですけど」
「断じて違う」
 断じて、と繰り返された。そこまで強く否定する必要があるだろうか。むしろその反応の方が怪しい気さえしてくる。

 汐凪は軽く額へ手を当てると、どこか疲れたような息を吐いた。
「あいつは放っておくとすぐ依玖に接触しようとするから」
「わかってます。婚約者として盾になってくださってるんですよね」
 煉弥が必要以上に私へ近付いたり、私がふらっと煉弥に靡いたりしないように防いでいるのだろう。
 しかし私の返答を聞いた汐凪は、なぜか少し微妙な顔になった。
「それはそうだけど……」
 納得したような、していないような。そして小さく首を傾げた。
「本当にわかってるのかな」
「わかってますよ」
「そうかなあ……」
 どうにも信用されていない。

 私は少し不服になりながら言い返そうとしたが、その前に胸の中に燻っていた別の不満が顔を出した。
「けど! それなら!」
 私は勢いのまま、逃がさないと言わんばかりに指を突きつける。
「煉弥様じゃなくて、私の傍を離れるべきではないのでは!?」

 汐凪はしばらく私を見ていた。
 それから、静かに、慎重に、言葉を選ぶように口を開いた。
「つまり……妬いてるの?」
「そういう話をしています!」
 最初からそう言っているではないか。むしろ今さら何を確認しているのかわからない。
 ところが私の返答を聞いた汐凪は、なぜかさらに固まった。
「…………」
 彼は両手で、ゆっくりと顔を覆う。
 そして動かなくなった。