禊祓当日の朝は、やけに静かだった。
汐凪がいないせいだろう。朝から祭事の準備で駆り出されているらしく、「先に行ってるね」と早朝に慌ただしく出ていったきりだ。
一人で身支度を整えて学校へ向かうと、校門で煉弥と行き合う。
こちらへ歩いてきた煉弥はまず私の後ろへ視線を向けると、周囲を見回した。
「汐凪はどこだ?」
「祭事の方です。朝から忙しそうで」
「そうか」
煉弥は短く頷いて、それから口の端をわずかに上げた。
「では二人きりだな」
さらりと言われて、私は少し返答に詰まる。
煉弥の方を見ると、こちらを見ていた。視線が合っても彼は逸らさない。それがいつものことだと分かっていても、妙に落ち着かなかった。
それを誤魔化すように視線を逸らしたところで、煉弥は満足したように前を向く。
そして歩き出しながら何でもないことのように言った。
「顔色は悪くないな」
「……そんなに凹んでいるように見えます?」
「多少は引きずるかと思った。実際はどうだ」
直球である。
誤魔化しを許さないような問いに、私は少し迷ってから正直に答えた。
「あの後いろいろ考えてはいましたよ」
「考えるのは悪いことじゃない。引きずるのとは違う」
反神獣団体の襲撃と、あの男の話。
あれから考え込んだのは事実だし、まったく気にしていないと言えば嘘になる。
けれど一人で悩み続けていたわけでもない。汐凪や晶佳とも話したし、自分の中で整理もついている。
「今日の顔を見て、少し安心した」
煉弥の低い声が、朝の静けさの中で妙に真っ直ぐ届いた。
私はその言葉の重さをどこに置いていいか分からなくて、少し視線を逸らす。校舎へ向かう生徒たちの姿が行き交い、遠くでは準備のために集まった生徒たちの声が聞こえた。
「平気ですよ」と答えると、煉弥は少し間を置いてから「そうか」と返す。否定も肯定もしない返し方だったが、歩く速度を私に合わせてくれていることには気づいていた。
禊祓の儀式は学校の中央広場に設けられた祭場で執り行われる。
全校生徒が一度に集まるには人数が多すぎるため、学年ごと、さらに幾つかの組へ分けられ、順番に祓いを受ける形式になっていた。
祭壇の前には白装束を纏った神官役の木気持ちの生徒たちが並び、その向こうでは清めの水を湛えた器や祭具が鎮座していた。
やがて祝詞が奏上され、生徒たちは列ごとに前へ進み、一人ずつ祓いを受けていく。
祭壇の前へ立つと、神官役の生徒が手にした玉串がゆっくりと肩の上を通り、右から左へ、そして再び左から右へと穢れを払うように動かされた。
榊の葉が微かに衣擦れの音を立てて肩先を掠め、その瞬間だけひんやりとした感覚が肌を撫でていく。
それは劇的な変化を伴うものではない。
けれど深く息を吐いた後のような軽さが確かに胸の内へ残り、知らず知らずのうちに抱え込んでいた疲れや緊張が少しだけ薄れた気がした。
儀式を終え、人のいない広場の端へ退いた時だった。
気づけば晶佳が近くに立っていた。並んで立っているわけでもなく、かといって離れているわけでもない。自然とそうなっていた、という感じの距離。
話しかけてくるわけでも、どこかへ行くわけでもなく、ただ儀式の進行を静かに眺めている。
気がついたら、口を開いていた。
「晶佳って汐凪様が好きなの?」
「デリカシー」
「貴女にはいらないと思って」
晶佳は横目で私を見たまま、何かを値踏みするような間を置いて、それからぷい、と視線を戻す。
昔から『自分こそが水筑様の隣に相応しい』という話ばかりされていたので、それが立場への執着なのか彼への恋情なのかは知らなかった。
正直、どちらでも良いとは思っていたので気にしていなかったのだが、先日の話を聞いて少し興味が湧いたようだ。
風が通って、髪が僅かに揺れた。
やはり答えないかと思い始めた頃、晶佳が静かに口を開く。
「好きというか……神獣様と同じよ。あの方は気にもされていないようなことだけど、救われたことがあるの」
それだけ言って、彼女は口を閉じた。詳しく話すつもりはないらしい。
それでも、その短い言葉の中にどれだけのものが詰まっているか、何となく分かる気がした。
本人は覚えていない、あるいは大したことだと思っていない。でも晶佳にとっては、ずっと手放せないものとして残っている。
そういうものは、きっと、誰にでもある。
「だから私は覚悟を決めた。努力もした。相応の準備もした。あの方の隣に立つために必要なことを、貴女よりずっと前から積み上げてきた」
淡々と語られる言葉には怒声のような激しさはなく、それだけに長い年月をかけて沈殿した感情の重みが滲んでいた。
「貴女では力不足よ。それは今も思っている」
彼女の静かな断定に、私は特に反論しなかった。
「はいはい」
晶佳がわずかに肩を動かす。振り返りはしなかったが、剣呑な気配を帯びたのが分かった。
「流すの」
「だって今さらでしょう」
私は苦笑しながら答える。
「その話、初めて聞いたわけじゃないし。晶佳が努力してきたことも、私への不満も、全部知ってる上で今日もここに立ってるので」
晶佳は何も言わなかった。
「そもそも、晶佳はおばば様の星読みや、まして水筑家の決定に逆らう性質じゃないでしょ」
「主家が誤った道を選びそうなら諌めるのも分家の役割よ」
茶々を入れるように反論され、半ば呆れながら確認するように口を開く。
「晶佳の望むところは、私が対外的にも婚約者として不適格と判断されて降ろされるか、」
「そんな醜態晒したら私が殺すわ」
予想内ではあるものの、あまりにも間髪入れぬ返答に苦笑しながら続けた。
「結局、私が婚約者に相応しくなる、が一番納得いくんでしょ」
そう言って肩を竦めると、今度は反論は返ってこなかった。
「貴女の積み上げてきたものを否定する気はないよ。本当に」
晶佳の努力は事実だ。幼い頃から婚約者候補として学び続け、選ばれるために努力し、誰よりも真剣に未来を見据えてきた。
その時間を軽い言葉で片付ける気はない。
「ただ」
私は視線を前方へ向けたまま続けた。
「それを私に言ったところで、今日の私は変わらないし、私が消えるわけでもないから。はいはい、以上の返しようがないんですよね」
力不足なのは分かっている。否定するつもりもない。
ただそれはそれとして、今日やるべきことが一つずつあるというだけの話だ。
晶佳が私より先に歩いていた道を、私も歩くだけという話。
追い越せるとも思わないし、並べるとも限らない。それでも足を止める理由にはならないから、私はただ前を向いたまま、自分の歩幅で歩き続けるだけだ。
