八十八年目の星結び


 私は木の幹から顔だけ覗かせながら、なるほど、と納得する。
 襲ってきた連中は反神獣団体だったらしい。
 そして今の会話から察するに、彼らと晶佳はこれまで何らかの接触を持っていたのだろう。
 晶佳が私を人気のない場所へ呼び出し、そこで私を排除する。そういう協力を取り付けていたようだ。

 再誓の儀を目前に控えた夫婦舞の片割れが消えれば大きな混乱を引き起こせるし、その混乱は神獣や護家への不信へ繋げることもできる。
 だが、晶佳は最初からそのつもりなどなかったらしい。

「その女がいなくなるのがお前の望みだろう!」
 食い下がる男の叫びに、晶佳は鼻で笑う。
「そうね。それで後釜に私が収まる。そういう話だったわね」
 まるで他人事のような言い方だった。
 その余裕に男の顔が歪む。
「馬鹿にしてるのか!」
「馬鹿にしてるのよ」
 即答だった。
 しかも一切の迷いがない。そこには明確な侮蔑が込められていた。

「それで私が無事でいられると信じるほどお花畑じゃないわ」
 低く落とされた声に空気が張り詰める。
 私も内心で頷いた。
 夫婦舞の片割れを排除したいのであれば、その後釜に座る人間もまた同じように邪魔になる。
 反神獣団体の目的が神獣とその体制を崩すことにあるなら、次に邪魔になるのは晶佳自身だ。
 良くて陰謀への関与を暴露されて社会的に処分される。悪ければ私と同じように、あるいはそれ以上に直接的な形で始末される。
 そんな未来を想像できないほど彼女は甘くない。

 晶佳は剣先をゆっくり持ち上げながら、呆れたように肩を竦めた。
「自分たちが賢いと思っている人間ほど扱いやすいものはないけれど、だからといって私まで同じ程度の頭だと思われるのは心外ね」
 淡々と告げられた言葉に、男の顔が怒りで歪む。

「何故お前たちは」
 男は歯を食いしばりながら、絞り出すように続けた。
「神獣などというものを、そこまで信じられる」
 嘲りとも嘆きともつかない響きが混じり合う。

 追い詰められた末の負け惜しみというよりは、本当に理解できないものを前にした困惑と苛立ちが色濃く滲んでいた。
 自分たちこそ真実を見ているのだと信じ、その前提から外れた人間の思考がどうしても理解できないと言わんばかりだ。

「化け物に縋って生きることの何が誇らしい。神獣など、お前たちを都合よく使う存在に過ぎない。その証拠に、あれは決して姿を見せない。姿を見せられない理由があるからだ。実体などなく、名家が作り上げた虚像に過ぎないからだ」
 言葉は荒れていた。怒りに任せて吐き出されている部分もあるのだろう。
 しかし、それだけに切迫した確信が滲んでいた。

 晶佳はその言葉を、剣先を宙に静止させたまま聞いていた。
 その表情から感情を読み取るのは難しかったが、木陰から様子を窺っていた私には、晶佳の目が僅かに細くなったのが見えた。

「見たことがないから信じないというのなら」
 やがて晶佳は穏やかな声で口を開いた。
 その落ち着いた声音は男の激しさと対照的で、だからこそ不思議な存在感を持って夜の空気へ溶け込む。
「風を見た人間がいるかしら」
 男が怪訝そうに眉を寄せるのを意に介さず、晶佳は続けた。
「木の葉が揺れるのを見た。水面が波立つのを見た。髪が流れるのを感じた。それで十分でしょう。風そのものを目で見た人間はいないけれど、誰も風が存在しないとは言わない」
「それとこれとは話が違う」
「そう?」
 晶佳の唇が僅かに動いた。笑みともとれない、微かな表情の変化だった。

「私が七歳の頃、夜中に一人で庭に出たことがあったわ」
 唐突な話の始まりに、男は怪訝そうに浅く息を吐く。
「理由は大したことじゃない。稽古がうまくいかなくて、むしゃくしゃして眠れなくて、誰にも顔を見せたくなかった」
 晶佳の声は淡々としていた。感傷を排したような、事実の羅列だ。

「それで縁側に座って庭を眺めていたら、池の水面が揺れたの。魚がいるわけでもない、風もない夜だったのに。それだけよ」
「……それだけ?」
 男が思わず、といった様子で声を返す。
「そう、それだけ」
 晶佳は短く頷いた。
 夜風が吹き抜け、白銀の剣身に映る月光が微かに揺れる。

「神獣様が姿を見せたわけじゃない。声をかけてきたわけでもない。ただ、水面が揺れた。でも私にはわかった。見られていると。見捨てられていないと」
 それは他人から見れば曖昧で、根拠のない思い込みだと切り捨てられる類の話なのだろう。
 けれど晶佳は少しも恥じる様子を見せなかった。

「翌日、私は稽古に戻った。それだけの話」
 それは確かに、それだけの話だ。
 だが人が生きる上で支えになるものは、必ずしも壮大な奇跡や揺るぎない証明である必要はない。
 たった一度の言葉や、たった一瞬の景色が、その後の人生を支えることだってある。

「馬鹿馬鹿しい」
 男が吐き捨てるように言った。
 その声音には侮蔑が込められていたが、それ以上に、自分には理解できない何かへの苛立ちが滲んでいるようにも聞こえた。
「水面が揺れただけだろう。虫か木の葉でも落ちたか、そんなことで──」
「そうかもしれない」
 嘲笑を含んだ言葉は途中まで勢いよく放たれたものの、その勢いは晶佳の反応によってあっけなく受け止められる。

「でも」
 晶佳はわずかに顎を上げ、その口元に冷ややかな笑みを浮かべながら男を見据えた。
「その程度の話すら、貴方は私から奪えない」
 鼻で笑うような声音だ。
 それは怒りとも嘲りとも違う、あまりにも浅はかな考えに対する呆れを伴って男へ突きつけられていた。

「信仰というのはね、証明できないから無意味なのではないの。証明できなくても手放せないものが、人にはある。私にはあの日の気配がある。貴方には何もないのかもしれないけれど、そんなのは私が知ったことじゃないわ」
 その声には一歩たりとも譲る気のない硬さがあり、その言葉を真正面から受けた男の表情が見る見るうちに歪んでいく。

「神獣様に仇なす輩に、式海の娘であるこの私が手を貸すだなんて──」
 晶佳は男を真っ直ぐ見据えたまま、一歩も引かずに言い放つ。
「見くびるのも大概にしなさい!」

 晶佳がそう吠えた瞬間、男の顔から余裕が消え失せた。
「っクソ!」
 怒鳴り声と同時に男の掌から炎が噴き上がり、蛇のようにうねりながら晶佳へ襲いかかる。
 さらにそれは合図でもあったらしく、周囲に倒れていた者たちが一斉に身を起こし、四方から石礫や呪符を投げつけた。

 だが晶佳は驚く様子すら見せず、むしろ予想通りだと言わんばかりに小さく息を吐く。
 迫る炎を紙一重でかわしながら霊力を纏わせた剣を振り抜き、その軌跡が火勢を押し返して男の体勢を崩した。
 間髪入れず前に踏み込み、飛来した石礫を正確に打ち落としながら接近すると、懐へ潜り込んだ勢いのまま男の鳩尾へ鋭い一撃を叩き込む。

 不意を突くつもりだった仲間たちも動揺したのか、一瞬反応が遅れた。
 その隙を晶佳は見逃さない。
 流れるような身のこなしで次々と間合いへ入り込み、手首を打ち、足を払って戦意を削ぎ、反撃の機会すら与えないまま制圧していく。

 やがて最後の一人が地面へ崩れ落ちる頃には、その場に立っている敵は誰一人残っておらず、荒く息を吐く男たちを見下ろした晶佳は乱れた髪をかき上げながら心底うんざりしたように眉を顰めた。
「だから見くびるなと言ったでしょう」
 その声音には勝利の高揚など欠片もなく、ただ忠告を無視されたことへの呆れだけが滲んでいた。