八十八年目の星結び


 気が付けば今日も一日が終わっていた。
 禊祓へ向けた準備は着実に進んでいるはずなのに、やるべきことは次から次へと現れ、帰宅までの時間はあっという間に過ぎてしまう。
 窓の外が夕暮れ色に染まり始めた頃になってようやく区切りがつき、私は鞄を手に教室を出て、人の少なくなった廊下を歩きながら小さく息を吐いた。

 今日も汐凪とはあまり話せなかった。
 祭事の準備で登下校のタイミングはズレ、同じ校内にいても互いに忙しく、顔を合わせる機会はあっても立ち止まって言葉を交わせるほどの余裕はなく、結局まともな会話をした記憶もないまま一日が終わろうとしている。
 別に珍しいことではない。ここ最近はこんな日ばかりだった。

 靴へ履き替えようと下駄箱の扉を開いた時、その中に見慣れない封筒が挟まれていることに気付く。
 一瞬だけ首を傾げたものの、封筒に書かれた名前を見てすぐに手を伸ばした。
 晶佳からだった。
 白い封筒を開き、中の便箋へ目を落とす。

 内容は驚くほど簡潔だった。
 二人きりで話したいことがある。
 放課後、裏手の湖で待っている。
 それだけ。

 余計な説明も理由もなく、けれど晶佳らしいといえばらしい流麗な筆跡を眺めながら、私は無意識に眉を寄せた。

 指定された場所は校舎裏でも体育館裏でもなく、そのさらに先に広がる林の奥にある湖だ。
 生徒の立ち入りが禁止されているわけではないものの、日が暮れ始める時間帯に訪れる者は多くなく、普段なら散歩の目的でもなければ足を向けることのない場所だった。
 少し考えた末、私は手紙を畳んで鞄へしまう。



 手紙に記されていた場所へ向かい、林の中を抜けて湖畔へ辿り着いた頃には、空はすでに夕焼けの色を失い始めていた。
 西の空にわずかに残る橙色の光も木々の向こうへ沈みかけており、水面は薄暗い群青を映しながら静かに揺れ、その周囲を囲む森の影は時間と共に濃さを増している。

 私は立ち止まり、辺りを見回す。
 まだ晶佳の姿は見えない。
 人気のない夕刻の湖畔はどこか、現実から切り離されたような静けさと美しさを纏っていて、呼び出しの内容への不安よりも先にその場の空気へ心を奪われそうになる。

 けれど同時に、晶佳がわざわざこの場所を選んだ理由も気になっていた。
 ただの雑談ならこんな場所を指定する必要はない。
 きっと人には聞かれたくない話なのだろう。
 私は湖の畔へ歩み寄りながら、胸の奥で静かに膨らみ始めた予感を抱えたまま、彼女が現れるのを待った。

 少し早かったのだろうか。
 そう考えながらさらに一歩踏み出したその時、不意に背筋を冷たいものが這い上がった。
 誰かがいる。
 根拠を説明することはできない。けれど確かに、誰かがこちらを見ているような感覚があった。

 反射的に振り返ろうとしたその時、林の奥から複数の影が飛び出す。

 黒い衣服に身を包んだ人物たちが躊躇も警告もなく、獲物へ飛び掛かる獣のような勢いでこちらへ迫ってきた。
 その手に握られた刃が薄闇の中で鈍く光る。
 息を呑む暇すらなかった。
 鋭い殺気が肌を刺し、全身の血が凍り付く。

 次の瞬間、鋭い破裂音にも似た衝撃が森の静寂を切り裂いた。

 白銀の光が闇の中を奔り、襲撃者の身体を横から吹き飛ばす。
 黒い影は数メートル先まで弾き飛ばされ、木の幹へ激突して大きく揺れた。

「勝手に始めないでくれる?」
 何が起きたのか理解するより先に、聞き慣れた声が湖畔へ響く。
「本当に礼儀がなってないわね」
 木々の影からゆっくりと姿を現したのは晶佳だった。
 普段と変わらぬ制服姿でありながら、その手には白銀の剣が握られており、湖面を反射した淡い光が刃を滑るたび冷たい輝きを放っている。

 空気そのものが張り詰めていた。襲撃者たちもそれを感じたのか、明らかに警戒を強めている。
 しかし晶佳はそんな視線など気にも留めず、くるりとこちらを振り返りこちらを指差した。
「貴女はそこでじっとしていなさい! いいわね!」
「アッス」
 有無を言わせぬ勢いに、慌てて近くの大木へ駆け寄り抱きつきながら様子を窺うと、晶佳は満足そうにふん、と鼻を鳴らした。お気に召したようだ。

 木陰からそっと顔を覗かせると、晶佳は既に複数の襲撃者を相手に大立ち回りをしていた。
 白銀の剣が振るわれるたび空気が裂け、鋭い軌跡が夜の林へ刻まれていく。
 その動きには一切の無駄がなく、踏み込みも斬撃も洗練されており、相手が反応する頃には既に次の動作へ移っている。

 しかも驚くべきことに、彼女は剣だけで戦っているわけではなかった。
 不意に空いている手が翻る。
 次の瞬間には銀色の光が林の奥へ吸い込まれるように飛び、姿の見えていなかった襲撃者の悲鳴が木々の向こうから響いた。
 隠れていた敵を正確に射抜いたらしい。

「つっよ」
 近接戦闘の成績もそれなりな私と比べれば雲泥である。
 私は木の陰から戦況を見守りながら、自分が参戦するよりも大人しく隠れていた方が確実に役に立つという事実を痛感し、晶佳の指示に従った自分を心の底から褒め称えた。

 数の上では優勢だったはずの襲撃者たちは次第に追い詰められ、当初の勢いを失っていく。
 晶佳は呼吸一つ乱した様子もなく白銀の剣を構え、逃げ道を塞ぐように立ちながら冷えた視線を向けている。

 襲撃者の一人が荒い息を吐きながら後退し、その顔を歪めて晶佳へ怒鳴り声をぶつけた。
「──裏切ったな!」

 切迫した叫びだ。
 焦燥と苛立ちが滲んでいたが、それに対する晶佳の反応は驚くほど冷淡だった。
「むしろ何故反神獣団体なんかに大人しく従うと思ったのよ」
 吐き捨てるような声音には呆れすら混じっている。