通りから少し外れた場所にあるカフェは、古い町家を改装した造りになっていた。
格子窓から差し込む夕暮れの日差しが、木目の濃い床板の上に柔らかな影を落としている。
運ばれてきた紅茶の湯気を眺めながら、私はカップに指を添え、胸の内から浮かんできた疑問をそのまま口にした。
「神獣を批判するって、どんな気持ちなんでしょう」
ぽつりと零れた言葉に、向かいに座る汐凪は目を瞬かせる。
「神獣様の存在を疑う、というなら分かるんです。実際にお目にかかれるのは斎祀くらいですし、普通の人は一生姿を見ることもありませんから」
神域の奥深くに鎮座する神獣は、国を守る存在として誰もがその存在を知っている一方で、その姿を知る者は極めて限られている。
だからこそ、見たことのないものを信じられないという感覚そのものは理解できたし、実際にそう考える人がいても不思議ではないと思う。
「でも、あの人たちは違うじゃないですか」
そう言いながら視線を窓の外へ向けると、行き交う人々の姿が目に入る。
「神獣様が存在していること自体は認めているんですよね。その上で、なんというか……あんな風に、憎む、みたいな……。神獣様に何かをされた、ってこともないはずなのに」
自分でも上手く整理できていない疑問だった。
汐凪はしばらく考えるようにカップを傾け、それから静かに口を開く。
「案外、神獣そのものを憎んでいるわけではないのかもしれないね」
静かに紡がれた言葉に、私は思わず彼の顔を見返した。
「天を恨む人がいるように、運命を呪う人がいるように、神獣を憎む人もいる。相手が巨大で、自分では変えられない存在であればあるほど、その感情は向かいやすいのかも」
私は熱さの落ち着いた紅茶を口に含んだ。柔らかな香りが広がる一方で、胸の奥には言いようのない重さが残る。
神獣は国を守っている。この国に住まうすべての人がその恩恵を受けている。
けれど、それで全ての人間が幸福に生きられるわけではない。
「……それに」
そこで彼は少しだけ言葉を切った。
「神獣を信じていない人間、というのは、口に出さないだけで、思っているより多いかもしれないね」
私は思わず瞬きをした。
「そうなんですか」
「別に反神獣団体に入るほどじゃなくても、興味がない人とか、自分の生活とは関係ないと思っている人とか、神獣の加護なんて実感したことがないと思っている人はいるよ」
「……まぁ、確かに。信じていなくても生活はできますからね」
「そういうこと」
彼は苦笑混じりに頷き、そのまま肩の力を抜いたような声音で続ける。
「だから、神獣なんて本当に必要なのか、と思う人もいるんだろうね」
言われてみれば理解できる話だったが、それでもどこか現実味が薄く感じられたのは、私自身が幼い頃から神獣を身近な存在として育ってきたからなのだろう。
「実際に儀式や奉納をしたことがない人の方が圧倒的に多いし、信じる必要性を感じていない人もいるだろう。信仰が薄いことと、敵視することは別問題だけどね」
考えてみれば、婚約者をはじめ、私の周囲には神獣と深く関わる人間ばかりがいる。
だから感覚が少し偏っていたのかもしれない。
毎年の祭礼を楽しみにしていても、その意味までは深く考えない人もいるだろうし、神獣の名を口にして感謝を捧げながらも、それを季節の挨拶のような習慣として受け止めているだけの人もいるだろう。
世の中の大半の人々にとって神獣とは、崇める対象というよりも、遠い昔から存在すると言われている大きな何か、に過ぎないのかも。
普段なら考えもしないようなことを色々と思い巡らせていたせいか、私は少しだけ頭を使い過ぎたような気分になり、無意識のうちに息を吐く。
そんな私の様子を見ていたのか、汐凪は話題を変えるように小さく笑った。
「そういえば、来週から準備期間だったね」
何のことかと首を傾げかけた私は、すぐに思い当たり、小さく声を上げた。
「ああ、禊祓ですか」
「うん。今年もあっという間だ」
話題が変わったことで少し肩の力が抜け、私は頷きながら記憶を探った。
学校には年間を通して様々な行事が存在するが、その中でも禊祓は比較的大きな催しに分類されている。
昼には校内全体で祓えの儀が執り行われ、夜には河畔で灯籠流しが行われる。
日々の中で小さく降り積もる災厄や穢れを祓い、半年分の無事を感謝すると共に、これから先の平穏を祈願する行事であり、生徒たちにとっては一種のお祭りのような位置付けになっていた。
授業の合間に資材運びをする生徒の姿が増え、放課後になればあちらこちらで飾り付けの制作や打ち合わせが行われ、普段は静かな中庭まで活気づくのだから、季節の風物詩と言ってもいい。
私自身の担当作業を思い浮かべながら頷いたのだが、ふと目の前の彼の事情を思い出した。
「でも汐凪様は学校だけじゃなくて、家の方もありますよね」
その言葉に彼は苦笑しながら頷く。
「あるね」
返事は短かったが、その一言だけで十分だった。
学校の禊祓はあくまで教育機関としての行事だが、水筑家にとっては敷地内の祭祀場で正式な祭儀が行われる時期でもある。
一般の参拝客も訪れるためやるべきことは山ほどあり、本家の跡取りである汐凪が忙しくなるのは当然だった。
「大変そうですね」
「慣れてるから平気だよ」
汐凪はそう言って笑ったが、その笑顔の裏にある忙しさは容易に想像できた。学校の課題や授業まで考えれば、自由な時間などほとんど残らないはずだ。
それでも愚痴一つ零さないのは、彼にとってそれが当たり前の責務だからなのかもしれない。
その姿勢を立派だと思う一方で、少し無理をしているのではないかと心配になる自分もいて、けれどそれを口に出すのも無遠慮な気がして、私は結局何も言えなかった。
代わりに口から出たのは、もっと他愛のない言葉だった。
「じゃあ、当日はほとんど会えなさそうですね」
しかし、言ってから少しだけ後悔する。
別に深い意味で聞いたわけではない。ただ予定を確認したかっただけなのだが、口に出してみると妙に名残惜しさを滲ませた言葉に聞こえてしまった気がした。
「昼は無理だろうね」
学校の担当と水筑家の役目、その両方を抱えている以上、それは当然だ。
けれど彼はすぐに続ける。
「でも、夜なら時間を作れると思う」
「夜?」
「灯籠流し」
その言葉に、私は小さく瞬きをした。
「せっかくだし、一緒に見ようか」
あまりにも自然な口調だったせいで、一瞬その意味を理解するのが遅れた。
だが理解した途端、胸の奥が少しだけ熱を帯びる。
特別な誘いではない。祭りの日に会おうというだけの約束だ。
それなのに、なぜだか妙に嬉しく感じてしまう。
「はい」
気付けば、返事は思っていたよりもずっと素直に口から出ていた。
「じゃあ、夜に」
「うん、夜に」
穏やかに微笑む彼を見ていると自然と頬が緩み、私もまた同じように笑みを返す。
来週になれば学園は準備の喧騒に包まれ、当日は朝から慌ただしく過ぎていくだろう。
それでも、無数の灯籠が川面を照らすあの時間だけは共有できるのだ。
そう思うと不思議なくらい心が軽くなり、先ほどまで感じていた小さな寂しさはいつの間にか綺麗に消えていた。
