八十八年目の星結び


「……よっこいせ」
 積み上げた学級日誌と提出ノートを抱え直しながら、私は小さく息を吐いた。
 本来なら共に日直だった生徒と二人で分担するはずだった。のだが、その相手が急遽委員会に呼ばれてしまったため、大量のノートを一人で職員室へ届ける任務を背負うことになってしまった。

 ずしりと腕へかかる重みに顔をしかめつつ、机の横を抜けようとした、その時。
依玖(いく)。帰ろうか」
 穏やかで、耳に心地よく落ちる声が頭上から降ってくる。
 教室内の空気がふっと揺れた気がした。
 実際にはもちろんそんなことはないのだろうが、少なくとも周囲の女子たちが一斉に視線を向けたのは事実である。

 私はゆっくり振り返る。
 そこに立っていた青年を見て、私はいつものように数秒ほど現実感を失った。

 当然のような顔をしてそこに立っている婚約者、そして顔面がどう考えても理不尽な男──水筑汐凪(みずきせな)が、至近距離からこちらを見下ろしている。

 同じ服を着ているはずなのに、どうしてこの人はこうも神々しいのだろう、と私は毎回わりと真面目に悩んでいる。制服というものは本来、学生間の差異を均すためのものではなかっただろうか。少なくとも”神域から降りてきた高位存在感”を演出するための衣装ではなかったはずである。

「あ、すみません。日直の仕事がまだ残っていて……」
 私はどうにか意識を引き戻し、抱えていたノートの束を少し持ち上げて見せた。
「これを職員室に届けないといけないので」
「手伝うよ」
 返答が早い。
 というか食い気味だった。
「いえ、そんな……!」
 思わず恐縮して首を振る。
 彼は学生の身ながら次期斎祀として、勉学や訓練、仕事までこなしている身だ。日々の忙しさは常人の比ではない。そんな人に雑用を手伝わせるなど恐れ多いにも程がある。

「先に帰っていただいて構いませんので……!」
「そう?」
 汐凪は小さく首を傾げた。
 だが、その「そう?」はほとんど確認の意味を成していなかった。次の瞬間には私が抱えていたノートの束を半分ほどひょいと持ち上げてしまう。
「あっ」
「これでいいだろう」
「よ、良くないです……!」
「俺が一緒に帰りたいんだ」
「グゥ……ッ」
 私はしばらく呻いたあと、結局観念して残りのノートを抱え直した。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」

 廊下へ出れば生徒たちがまだ多く残っていた。
「あっ、見て見て。水筑様と永露さん」
「今日も一緒に帰るんだ」
 部活動へ向かう者、友人同士で談笑する者、購買帰りらしく袋を抱えている者。そんな中を、次期斎祀とその婚約者が並んで歩いていれば、当然ながら視線は集まる。
 彼はそういう視線にも慣れきっているのか、まるで意に介した様子もない。私も婚約してから7年、割と慣れた。
「毎日送り迎えしてくれるって聞いた!」
「同じお邸に住んでるんだもんね。少女漫画か??」
「水筑様、今日も顔が良すぎん?」
「わかる」
 わかる。
 びっくりするくらい良い。毎日見ていても「今日もすごいな……」と思うくらいには良い。
 内心でしみじみと頷いていると、ひそひそと聞こえてくる声の中、一人の女子生徒が羨望混じりにこちらを見た。
「永露さん、よっぽど前世で徳積んでたんだろうなあ……」
「どんだけ善行したらあんなイケメン御曹司と婚約できるの? 世界救った?」
 私もそう思う。神獣を五柱くらい救ったのかもしれない。ありがとう、たぶん英雄だった前世の私。

 ちら、と隣を歩く汐凪を見上げる。
 整った横顔は夕日に照らされ、静かな水面みたいな青灰色の瞳が柔らかく細められていた。
「どうしたの?」
「いえ……」
 顔がいいなあ、と改めて思っただけである。

 七年前、星読みによって最適と判断されて決まった婚約。
 政略であり、義務であり、次期斎祀を支えるためのもの。
 ──なのだけれど。
(まあ普通に、めっっっちゃタイプなんだよな……)




 校門を出て迎えの車に乗って帰路に着く。
 走り出した車窓の向こうでは、夕暮れの街並みがゆっくり流れていた。
 商店街の軒先に灯りがともり始め、学生たちが連れ立って歩き、遠くには水路沿いの柳が揺れている。
 この国は水の神獣の加護を受ける土地らしく、都市のあちこちに水脈を利用した流路や水庭が整備されていて、夕刻になるとその水面が空の色を映してひどく綺麗なのだ。

 こうして見ると、この世界が崩壊と裏表にある中で発展してきたとは思えない。

 ──世界は、かつて荒れていた。
 大地は絶えず裂け、山は炎を噴き、海は牙を剥き、空は怒り狂ったように嵐を落とした。
 災禍は季節のように繰り返し訪れ、そのたびに国は崩れ、街は呑まれ、人々は為す術もなく死んでいったという。古い文献には、夜が来るたび「明日も太陽が昇るだろうか」と怯えながら眠った人々の記録が残されていた。
 明日を迎えられる保証すらなかった時代。
 人々は祈った。
 どうか平穏を、と。ただ穏やかな明日を、と。
 そして。
 その祈りに応えるようにして現れたのが、五柱の神獣だった。

 五行を宿した神獣たちはそれぞれ大陸各地へ座し、神域を築き、その力によって災禍を抑え込んだ。
 荒れ狂っていた海は静まり、裂け続けていた大地は安定し、空は四季を巡らせるようになる。
 世界はようやく、平穏を手に入れた。
 以来、人々は神獣を奉っている。
 神域を守護し、霊力を捧げ、加護を維持し続けるために。

 そして、八十八年ごとに執り行われる契約更新の祭儀──再誓の儀。
 それは単なる儀式ではない。神獣との繋がりを維持し、この世界の平穏を次代へ繋ぐための、大陸規模の祭儀である。
 もし契約が失われれば、再び世界は災禍に呑まれる。

 その再誓の儀が、今まさに数ヶ月後の目前まで迫っていた。

 水を司る神獣が座す我が国、瑞潮国(ずいちょうこく)
 そして各国に存在する神域を守護する役目を持つ護家(ごけ)、その一角、水筑家。
 さらにその再誓の儀──神獣からの試練を受ける資格を有する斎祀(さいし)が、汐凪なのだ。

 そしてさらに、何をとち狂ったのか七年前、本家直属の占星術師であるおばば様が選んだ彼の婚約者が、分家の分家の枝葉の家の出である平々凡々ガールの私なのだった。

 柔らかな革張りの座席、淡い香木の香り、ほとんど揺れを感じさせない滑らかな発進。こういうところにも”名家”を感じるのだが、七年も婚約者をやっていると、最初ほどいちいち緊張しなくなったのは成長だと思いたい。
「今日の予定は?」
 車が走り出して少しした頃、汐凪がこちらへ視線を向けながら穏やかに尋ねてくる。

 制服姿のままゆったり座る、ただそれだけで妙に絵になっていて困る。窓から差し込む夕陽が長い睫毛の影を落とし、青灰色の瞳が静かな水面みたいに柔らかく細められているものだから、私は一瞬だけ「あ、顔がいい」といつもの感想を抱いてから、慌てて意識を会話へ戻した。
「お茶とお花と──お淑やかな日ですね!」
 指折り数えながら答えると、彼はふっと笑う。
「お淑やかな日」
「はい。比較的平和です」
 汐凪の婚約者としての日々は、思っていた以上に忙しい。
 茶道、華道、舞、礼法、楽器、神事作法、古典、星読みに関する基礎知識、祭儀の補佐業務、各家との付き合い方云々かんぬん……。本家嫡男の伴侶ともなれば求められるものは多い。
 しかも数ヶ月後には再誓の儀まで控えているため、最近はその試練の課題である夫婦舞の練習時間も増えていた。

 そんなことを思い出していると、汐凪が少しだけ眉を下げた。
「……大変じゃない? 毎日」
 静かな声だった。けれど、その声音には本気で私を案じている色が滲んでいて、思わずぱちりと瞬きをする。
「いえ、全然!」
 勢いよく答えると、彼は少しだけ目を丸くした。
「やることは多いですけど、やりがいがありますし。知らないことを覚えるのも楽しいですし、前はできなかったことができるようになるのも嬉しいので」
 何より。
 彼の隣に立つために努力できること自体が、私には案外幸せだった。

「──そう、それは、よかった」
 汐凪が目を細める。本当に安心したように、嬉しそうに。
 柔らかく緩んだ表情は普段より年相応に見えて、次期斎祀としての凛とした雰囲気が少しだけ薄れる。そういう瞬間を見るたび、私は少し得をした気分になるのだ。

「そもそも、汐凪様の方が大変じゃないですか」
 私の忙しさなど、彼に比べれば可愛いものだろう。幼い頃から次期斎祀として育てられてきた責任の重さは、たぶん私には想像しきれない。
 すると汐凪は少し肩の力を抜きながら、小さく笑った。
「まぁ……それだけ望まれてるってことだから、やりがいがあるよ」
 どこかで聞いたような言い回しだな、と思った瞬間。
「あ」
「ん?」
「今、私の真似しましたね?」
 指摘すると、彼は一瞬だけ目を丸くし、それから少し可笑しそうに笑った。
「そうかも」
「しましたよね?」
「君の言葉、わりと好きだから」
「ンィ……ッ」




 翌日の学校は生徒たちのざわめきが妙に浮ついていて、廊下を行き交う女子たちは皆どこかそわそわと落ち着かずにいた。
 普段なら小テストだ課題提出だと騒いでいるはずの教室も、今日に限って話題はひとつしかない。
 隣国、火の神獣を奉る灯賀国(とうがこく)、その護家一族火能(ひよき)家の御曹司であり次期斎祀が留学してきた、という話だ。転入先は隣のクラスらしい。

「ねえねえ、見た!? さっき中庭にいた!」
「見た見た! めちゃくちゃ背高かった!」
「火の国って感じだったよね。なんかこう……強そう」
「顔も良かった」
「重要情報だね」
「水筑様と並んだらどうなるんだろ」
「圧がすごそう」
 普段から名家の子弟が少なくない学校ではあるものの、それでも隣国の次期斎祀ともなれば話は別だ。女子たちが騒ぐのも無理はない。顔も良いらしいし。

 姦しい談笑を盗み聞きしながらノートを整理していると、不意に、廊下側が騒がしくなる。
 何事かと思って顔を上げれば、教室の入り口付近に人だかりができていた。
 きゃっ、と小さな悲鳴のような声が上がり、教室の入り口付近にいた生徒たちがさっと左右へ割れるのが窓越しに見える。
 ガラ、と力強い音で開かれた扉の前に立つのはスラリとした長身の青年。
 鍛えられた身体。鋭い瞳には獣じみた力強さが宿っていて、ただ立っているだけなのに周囲の空気まで押し広げるような存在感がある。 

 周囲が息を呑む中、その男子生徒は教室をぐるりと見渡し──そして、ぴたりと視線を止めた。
「見つけた!」
 彼は太陽のようにぱっと表情を輝かせた。
 周囲がざわつく。しかし彼はそんなことお構いなしに、ズカズカと教室へ入ってきた。
 一直線に。
 本当に一直線に。
 獲物を見つけた大型肉食獣みたいな勢いで来ている。
 こちらへ。
「ヒェッ」
 嫌な予感がした。
 というか完全に目が合っている。

 彼は私の机の前まで来ると、まるで長年探し求めていた宝でも見つけたみたいな顔でこちらを見下ろし──。
「やっと会えた」
「は?」
「星が選んだオレの伴侶」
「……はぇ?」
 教室が、しん、と静まり返った。