好きまでの距離


「じゃあ咲太郎と呼ぶね。ぼくのことは咲太郎が好きに呼んでいいよ」

 お兄さんが、ぼくにそう言ってくれた。

 (お兄さんの名前……呼んでいいんだ)
 (お兄さん、たろうとこれから仲良くなりたいって思ってくれてるのかな)

 そう思ったら、さっきの胸がギュッとなる痛みとは違う、どう表現していいのか分からない初めて感じる胸のざわめきが起きた。

 お兄さん、ぼくに興味ある?そんな風に聞いてみたいのにいつもならギャルぽく明るく聞けるのに、このお兄さんにはなんでかそれができない。

 ぼく自身が1番ぼくの行動に戸惑ってる。

 ぼくが黙ったままだから、お兄さん首を傾げて不思議そうな、少し困ったような顔をしてる。

 (あっ……お兄さんたろうがお名前呼ばないから困ってる)

 お兄さんにそんな顔させたくない。そんな風に思って慌てて口を開く。

「あゆくん」

 それだけ言うのが精一杯だった。
 名前を呼んだ。ただそれだけなのに胸が詰まったような苦しいような変な感じになる。

 (本当に……たろうのお胸さん今日どうしちゃったの)

「あゆくん。ふふっ。そんな風に呼ばれたことないから新鮮かも」
 お兄さんがくすぐったいような照れ臭そうなそんな顔をして笑ってる。

 (あっ……たろうお兄さんのこの笑顔すきだな)
 不意にそう思った。

「あっ……じゃあ他の呼び方の方がいい?みんなはどう呼ぶの?」
 お兄さんがぼくが呼んだ呼び方が嫌だったらどうしようと急に不安になる。
「普段はあゆむかあゆむくんが多いかな。あゆくんは初めて。でも咲太郎だけ特別な呼び名ってなんだかいいね」
 
 お兄さんがそうさらっと言ってくれた。
 その瞬間……。

 (どうしよう……たろうのお胸さん壊れちゃったかもしれない)

 胸が早鐘をうちながらぎゅーっと何かに掴まれたように痛くなる。こんなこと今までなったことない。

「たろうだけ?たろうだけ特別な呼び名で呼んでいいの?」

 お兄さんにそう聞きながら、ぼくの中で特別な名前で呼ばせてくれることになんだか体がむず痒いような感じになる。

「いいよ。咲太郎だけど特別。ぼくも咲太郎て呼ぶからおあいこだね」
 あゆくんが、春の陽だまりのような柔らかい温かみのある笑顔でそう言ってくれた。

 【あゆくん】

 心の中で、あゆくんの名前を呼んでみる。
 名前を呼んでるだけなのに、むず痒いような嬉しいようなソワソワするような気持ちが身体中を駆け回る。

 (何これ。たろうの体さっきからずっと変だ……)

 お兄さんと出会ってから、話してからぼくの体はどうしちゃったの?と思うぐらい変なことが起きてる。

 そういえば30分で戻ってきてとクラスメートに言われてたのを思い出した。
 ちらっと保健室の壁に掛けてある時計を見るとあと30分を少し過ぎようとしていた。

「あっ!たろう30分で戻ってきてと言われてたんだ!やばい!戻んなきゃ。」

 ぼくもう少しここにいたいのに。でもクラスメートが待ってるから帰らなきゃ行けない。
 あゆくんともう少し話したいのにな。

「あゆくん、まだ保健室いる?ちょっと教室戻ってからまた来るから待っててくれる?」

 ここであゆくんとさよならしたくない。そう思ったら自然と言葉が口から出てた。

「うん。ぼくはまだここいるよ。でも咲太郎クラス行事あるだろうから無理したらダメだよ」
「大丈夫だよぉー。また戻ってくるから待っててね!絶対だよぉ」

 それだけあゆくんに伝えたら、急いで保健室を出て小走りで廊下を進み教室に戻る。

 (あっ、ゆーちゃんに挨拶するの忘れてた)

 早歩きしながら、ゆーちゃんに挨拶することもゆーちゃんの存在を忘れてたことにも気がついた。

 廊下を歩きながら、知り合いに声かけられて手を振ったりしながらも頭の中には”あゆくん”その言葉だけがずっと繰り返し流れてる。

 (あゆくんって呼ぶだけで、なんか変な気持ちになるのなんでぇ……)

 わかんないのに、その名前だけが、
 さっきから、ずっと頭の奥でちいさく鳴ってる。