「女装・男装喫茶」の看板が、窓から差し込む夕陽に照らされる。
喫茶店のように飾り付けられた教室の中央で、クラスメイトに囲まれた委員長が拳を突き上げた。
「みんな、明日はいよいよ文化祭だ。頑張ろう!」
「おーっ!」
クラスメイトたちもやる気に満ちた表情で声を張り上げた。
1カ月。みんなで作り上げてきた喫茶店。男装で接客は恥ずかしいけど、みんなのために頑張らないと。
それと……。
「鹿島君たち、長宮さんはステージ頑張って!」
委員長が期待に満ちた顔でプレッシャーをかけてくる。
普通で平凡な高校生活を送りたかっただけなのに、葵と晴の父親と理事長のせいで、私までステージに上がることに……。
言い合いをしながらも、寝不足になりながらも、なんとか準備は整った。
きっと、上手くいく、はず。
「アオさま、ハルさま、応援してるね!」
「長宮さんも頑張ってね」
次々と声をかけて教室を出ていくクラスメイトたち。
「あ、うん。ありがとう」
麗はぎこちなく笑って、手を振った。
入学初日から最恐最悪の双子のせいで、憧れていた普通の青春が壊された。
でも、文化祭のおかげで、少しだけクラスに馴染めた気がする。
「レイ。ステージ楽しみにしてるよ。また明日」
手を振る恵に、麗は静かに微笑んで手を振り返した。
「うん。バイバイ」
メグはもう、放課後一緒に帰ろうと誘ってくることはなくなった。
クラスメイト以上、友達未満。それでいい。その距離がちょうど良い。
壁に掛けられた鏡に目を向ける。自分の薄茶色の瞳が、こちらを見つめている。
——父親に似た瞳。
私の人生を壊した元凶。
胸の奥に閉じ込めた黒い影が、顔を覗かせようとする。
……隠さなきゃ。
前髪を留めているヘアピンを取って、ポケットにしまう。
重たくて長い前髪が目を覆う。
明日は、この瞳をさらけ出す。
みんなの期待に応えるために。
でも……。
ちゃんとできるかな。
セリフとんだらどうしよう。
せっかく頑張ってきたことが台無しになっちゃう。
みんなに失望されるかも。
すぐ帰ってセリフの確認しなきゃ。
はやる気持ちが血管の中を全力疾走で駆け抜ける。
麗は鞄の持ち手をぎゅっと握り締めた。
その手は微かに震える。そこに、晴が自分の手を重ねてきた。
「麗ちゃん、準備頑張ったね。ご褒美に、僕とデートしよう」
「嫌。したくない」
晴の手をどかして眉をひそめる。手の震えは自ずと止まった。
「えー、即答? カラオケ、ボウリング、ゲーセンがある所で遊ぼうと思ってたんだけど。クレープ屋もあるらしいよ。制服で遊びにい行って、クレープ食べるの、憧れだったんじゃない?」
本心を見透かすような晴の艶やかな瞳。麗はビクッと肩を震わせた。
正直、行ってみたい。
まさしく憧れていた普通の青春っぽい放課後そのもの。
友達じゃなくて、晴っていうのは嫌だけど。
「帰るぞ」
葵が強引に手を引っ張る。
「ちょっと、待ってよ」
麗が葵の手を振り払おうとしたが、びくともしない。
「麗ちゃんは僕とデートするんだから、アオはひとりで帰って」
麗の手を引き、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「はあ? こいつは俺のモノだ」
「僕のモノでもあるでしょ」
また始まった。6年前から変わらない。いつまでたっても私は”モノ”。
「3人で行こうよ」
呆れ顔で言うと、葵はしかめっ面をして、晴はにんまりほくそ笑んだ。
「しかたねえな。そんなに行きたいならついてってやる」
別に頼んでないし。上から目線の言い方は昔から変わらない。ほんと、暴君。
「アオは邪魔だけど、麗ちゃんがそう言うなら仕方ないか」
晴は肩をすくめ、葵の隣に並んで歩き出す。
6年前からいつも私の行く手を阻む2人の背中。
下僕扱いでこき使われてきたし、信頼を裏切られて傷つけられてきた。いつか復讐してやる。そう思っているのに。
どうして、安心しちゃうの……。
葵と晴の後についていくと駅前の繁華街に入っていく。様々な制服姿の同年代が行き交う。お揃いのキーホルダーを鞄につけた女子たちが、クレープやフローズンドリンクを片手に笑い合いながらすれ違う。
まさに憧れの普通の高校生。
私もいつか、あんなふうに友達とできたらいいな。
女子たちは葵と晴にちらちらと目線を送り、頬を染めている。
葵と晴は女子たちには目もくれず、人混みの中をすいすい進んでいく。
「ここだよ」
晴が足を止めた先には、5階建てのアミューズメント施設がそびえ立っていた。1階はゲームセンターで、2階から上の窓には、カラオケとボウリングの文字が目立っている。
開放的な入口から中に入ると、外まで響く大きなBGMに圧倒される。大量のクレーンゲーム機が所狭しと置かれている。奥にはリズムゲームやシューティングゲーム、プリクラの台もある。
こんなところに友達と来てみたかった。
おそろいのぬいぐるみをクレーンゲームでゲットして、プリクラ撮って、クレープ食べながら帰る。 恋バナしたり、勉強とか家族の愚痴を言って盛り上がれたら楽しいだろうな。
麗の目にはどれもがキラキラと輝いて見える。
もっとよく見ようと、ヘアピンで前髪を上げて目を凝らす。
すれ違う他校の制服を着た男子たちが、麗に目を留めてにやけた顔をする。葵は咄嗟に、麗を背中に隠すように立ち塞がり、晴がヘアピンを奪った。
麗の視界は再び前髪に覆われた。
「返してよ」
「だーめ。これは没収」
晴は口角を上げ、自分のポケットにしまった。
ひどい! 私のなのに!
地団駄を踏んで晴を睨むが、飄々とした笑顔でさらりとかわされた。
「カラオケとボウリング対決して、ビリの人がクレープおごるっていうのどう?」
「俺はやらねえ」
「自信ないんだ。アオは音楽の成績悪いもんね」
「悪くねえよ!」
「へえ。なら、カラオケの採点で実力見せてよ」
「……1曲だけだからな」
さすが晴。葵の扱いを熟知している。乗せられやすい単純脳細胞なんだから。
「麗ちゃんもやるよね? やらないとおごり決定ね」
「……選ぶ権利ないじゃん。何もしないでおごりたくない」
「じゃあ、お手並み拝見。楽しみにしてるね」
これが求めていた青春なんでしょと言わんばかりの、見透かしたような笑み。
認めたくないけど、その通り。
癪に障る。
でも、頬が緩む。
カラオケもボウリングもやったことないけど、聞こえてくる声は楽しそうに弾んでいる。
この空間にいるだけでも、小さな夢が叶ったみたいで心が躍る。
目の前にいる葵と晴も、いつもとは違って普通の高校生に見える。
――はずなのに。
聞き慣れない晴の透き通った歌声が、耳について離れない。
ストライクをとる度に小さくガッツポーズする葵のドヤ顔から、目が離せない。
心臓がきゅっと締め付けられるのはどうして……。
浮かれすぎておかしくなったのかな。
あの2人がちょっと眩しく見える。
「麗ちゃん、好きなの選んで」
クレープ屋の前で、晴がメニューを見せてきた。
「うわぁ……!」
イチゴ、バナナ、チョコ、キャラメルの甘いものから、ツナサラダ、タコス、フランクフルトのしょっぱいものまで、何種類ものクレープがある。全部がキラキラして見える。
「どっちも2位だったくせに、喜んでじゃねえよ」
葵が鼻で笑って、麗の頭を小突いた。
「いいじゃん。カラオケはアオが最下位、ボウリングはハルが最下位だったんだから。2人からおごってもらえるんだよ。喜んで当然でしょ」
「麗ちゃんって、案外何やっても”普通”だよね」
満面の笑みで晴が嫌味を言ってくる。
誉め言葉じゃないことは分かっているけど、”普通”は私にとって特別な言葉。全然、悪い気がしない。
「にやけてないでとっとと決めろよ」
「にやけてないよ」
葵に言われて頬に手を当てると、小さなえくぼができていた。
「麗ちゃんが好きそうなの買ってきてあげるよ」
「待って!」
晴にメニューを奪われそうになり、麗は慌てて避けた。
「自分で選びたい」
せっかく選ぶ権利があるんだから。誰かに決められるのはもう嫌。自分のことは自分で決める。
とはいえ、こんなにあると迷う。目移りして全然決められない。
「全部食べたい!」
「はあ? 食べきれねえだろ」
「欲張りだねえ」
「だって、どれもおいしそうだから」
呆れ顔の2人から目を逸らす。
「全部乗せ、あるよ」
クレープ屋の店主が声をかけてくれ、麗は目を輝かせた。
「それ、お願いします!」
「あいよ」
手際よく作ってもらった全部乗せには、甘いのもしょっぱいのもてんこ盛りで、ずっしりと重い。
「すごい! 見てみて。本当に全部のってる!」
「うわあ。ひくほどすごいね」
「うまいのか、これ?」
「おいしいよ。食べる?」
ついテンションが上がって差し出してしまった。
「いいの? いただきまーす」
「味見してやるか」
晴は甘い方を、葵はしょっぱい方を、遠慮なく大きな一口でかじりついた。一気に半分がなくなってしまった。
「食べすぎ!」
「まあまあだね」
「腹の足しにもならねえな」
「あげなきゃよかった……」
肩を落として項垂れる麗の前を、大きなくまのぬいぐるみを抱えた親子が通り過ぎていった。目の前にあるクレーンゲームの景品のようだ。
私もぬいぐるみとってもらったな。全然取れないのに必死になって。取れた時はすっごく嬉しかった。
あのぬいぐるみは、喫茶店と一緒に置いてきた。楽しい思い出は全部、過去のもの。
「あれ、欲しいのか?」
くまのぬいぐるみが積まれているクレーンゲーム機を、葵が指さした。
「……とってくれるの?」
葵は返事をしないでクレーンゲームを操作し始めた。
あのアオが、私のために? まさか、ね。
「くそっ。全然とれねえ」
何回やっても、掴んでは落ちてしまう。だんだん苛立ってきて、クレーンゲームに殴りかからないか心配になる。
「僕にもやらせて」
晴もやってみるが、全然とれる気配がない。
「もういいよ。すっごく欲しいってわけじゃないし」
「ここまで課金してやめられるかよ」
「あと少しでとれるはず。……とれなかったら、ネガティブな口コミ投稿するから」
不敵な笑みを浮かべる晴の目が細くなる。
これは本気だ。これ以上止めても無意味。
葵も躍起になって、鬼の形相でレバーを慎重に操作している。
「アオ、もう少し右」
「ここか? いきすぎてねえか?」
「いきすぎだよ。下手くそ」
「うるせえな。おまえだってとれねえだろ」
「アオだってとれてないじゃん」
言い合いながらも、葵と晴はガラスに顔を近づけて、真剣な顔でぬいぐるみを睨んでいる。
肩を寄せ合う2人の背中が、あの頃の自分と父親と重なる。
他愛もない光景なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
「とれた!」
「やった!」
葵と晴が同時に声を上げ、ぬいぐるみを麗の前に突き出した。
「すごい! 2人ともありがとう」
ふわふわのぬいぐるみに頬を寄せる。懐かしさが込み上げ、嬉しさと切なさが混ざり合う。それでも麗の顔には、柔らかい笑みが満ちる。
葵と晴は、一瞬目を瞠る。
「そんなに嬉しいかよ。ガキか」
口調は乱暴だが、葵の瞳の奥は淡く揺れる。
「麗ちゃんは笑顔も似合うよね。……でも、泣き顔の方が好みだけど」
晴が耳元で囁く。
麗の背筋がぞわりと粟立つ。ぬいぐるみを抱きしめる手に力が入る。一歩後ずさると、葵にぶつかった。
「何してんだよ。帰るぞ」
葵に腕を引っ張られる。
「置いてかないでよ」
もう片方の腕を晴に掴まれる。横並びで歩く違和感と、両腕から伝わる熱のせいか、麗の心臓は落ち着かない。
「帰ったらステージの練習する?」
「めんどくせえ」
晴に問いかけられ、葵は眉をひそめた。
「やろうよ。ここまで頑張ったんだから、失敗したくない。喫茶店もステージも成功させよう!」
風が吹いて麗の前髪が煽られる。やる気に溢れた麗の薄茶色の瞳に、街路灯の光が反射して煌めく。
「しょうがねえな。付き合ってやるか」
葵が肩をすくめる。
「文化祭、何も起きないといいけど」
口角を上げる晴が、小さく呟いた。
憧れていた”普通”の高校生活に、指先が触れる。
もう少しで手に入りそう。
文化祭が成功すれば、きっと私もクラスの中に、学園の中に溶け込める。
――忘れてないよね?
胸の奥の深い闇から、影が揺らめく。
復讐を誓う私の本心が、静かに微笑む。
この時、私はまだ知らなかった。
復讐の先にある深淵の闇が、すぐそこまで来ているということを――。
喫茶店のように飾り付けられた教室の中央で、クラスメイトに囲まれた委員長が拳を突き上げた。
「みんな、明日はいよいよ文化祭だ。頑張ろう!」
「おーっ!」
クラスメイトたちもやる気に満ちた表情で声を張り上げた。
1カ月。みんなで作り上げてきた喫茶店。男装で接客は恥ずかしいけど、みんなのために頑張らないと。
それと……。
「鹿島君たち、長宮さんはステージ頑張って!」
委員長が期待に満ちた顔でプレッシャーをかけてくる。
普通で平凡な高校生活を送りたかっただけなのに、葵と晴の父親と理事長のせいで、私までステージに上がることに……。
言い合いをしながらも、寝不足になりながらも、なんとか準備は整った。
きっと、上手くいく、はず。
「アオさま、ハルさま、応援してるね!」
「長宮さんも頑張ってね」
次々と声をかけて教室を出ていくクラスメイトたち。
「あ、うん。ありがとう」
麗はぎこちなく笑って、手を振った。
入学初日から最恐最悪の双子のせいで、憧れていた普通の青春が壊された。
でも、文化祭のおかげで、少しだけクラスに馴染めた気がする。
「レイ。ステージ楽しみにしてるよ。また明日」
手を振る恵に、麗は静かに微笑んで手を振り返した。
「うん。バイバイ」
メグはもう、放課後一緒に帰ろうと誘ってくることはなくなった。
クラスメイト以上、友達未満。それでいい。その距離がちょうど良い。
壁に掛けられた鏡に目を向ける。自分の薄茶色の瞳が、こちらを見つめている。
——父親に似た瞳。
私の人生を壊した元凶。
胸の奥に閉じ込めた黒い影が、顔を覗かせようとする。
……隠さなきゃ。
前髪を留めているヘアピンを取って、ポケットにしまう。
重たくて長い前髪が目を覆う。
明日は、この瞳をさらけ出す。
みんなの期待に応えるために。
でも……。
ちゃんとできるかな。
セリフとんだらどうしよう。
せっかく頑張ってきたことが台無しになっちゃう。
みんなに失望されるかも。
すぐ帰ってセリフの確認しなきゃ。
はやる気持ちが血管の中を全力疾走で駆け抜ける。
麗は鞄の持ち手をぎゅっと握り締めた。
その手は微かに震える。そこに、晴が自分の手を重ねてきた。
「麗ちゃん、準備頑張ったね。ご褒美に、僕とデートしよう」
「嫌。したくない」
晴の手をどかして眉をひそめる。手の震えは自ずと止まった。
「えー、即答? カラオケ、ボウリング、ゲーセンがある所で遊ぼうと思ってたんだけど。クレープ屋もあるらしいよ。制服で遊びにい行って、クレープ食べるの、憧れだったんじゃない?」
本心を見透かすような晴の艶やかな瞳。麗はビクッと肩を震わせた。
正直、行ってみたい。
まさしく憧れていた普通の青春っぽい放課後そのもの。
友達じゃなくて、晴っていうのは嫌だけど。
「帰るぞ」
葵が強引に手を引っ張る。
「ちょっと、待ってよ」
麗が葵の手を振り払おうとしたが、びくともしない。
「麗ちゃんは僕とデートするんだから、アオはひとりで帰って」
麗の手を引き、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「はあ? こいつは俺のモノだ」
「僕のモノでもあるでしょ」
また始まった。6年前から変わらない。いつまでたっても私は”モノ”。
「3人で行こうよ」
呆れ顔で言うと、葵はしかめっ面をして、晴はにんまりほくそ笑んだ。
「しかたねえな。そんなに行きたいならついてってやる」
別に頼んでないし。上から目線の言い方は昔から変わらない。ほんと、暴君。
「アオは邪魔だけど、麗ちゃんがそう言うなら仕方ないか」
晴は肩をすくめ、葵の隣に並んで歩き出す。
6年前からいつも私の行く手を阻む2人の背中。
下僕扱いでこき使われてきたし、信頼を裏切られて傷つけられてきた。いつか復讐してやる。そう思っているのに。
どうして、安心しちゃうの……。
葵と晴の後についていくと駅前の繁華街に入っていく。様々な制服姿の同年代が行き交う。お揃いのキーホルダーを鞄につけた女子たちが、クレープやフローズンドリンクを片手に笑い合いながらすれ違う。
まさに憧れの普通の高校生。
私もいつか、あんなふうに友達とできたらいいな。
女子たちは葵と晴にちらちらと目線を送り、頬を染めている。
葵と晴は女子たちには目もくれず、人混みの中をすいすい進んでいく。
「ここだよ」
晴が足を止めた先には、5階建てのアミューズメント施設がそびえ立っていた。1階はゲームセンターで、2階から上の窓には、カラオケとボウリングの文字が目立っている。
開放的な入口から中に入ると、外まで響く大きなBGMに圧倒される。大量のクレーンゲーム機が所狭しと置かれている。奥にはリズムゲームやシューティングゲーム、プリクラの台もある。
こんなところに友達と来てみたかった。
おそろいのぬいぐるみをクレーンゲームでゲットして、プリクラ撮って、クレープ食べながら帰る。 恋バナしたり、勉強とか家族の愚痴を言って盛り上がれたら楽しいだろうな。
麗の目にはどれもがキラキラと輝いて見える。
もっとよく見ようと、ヘアピンで前髪を上げて目を凝らす。
すれ違う他校の制服を着た男子たちが、麗に目を留めてにやけた顔をする。葵は咄嗟に、麗を背中に隠すように立ち塞がり、晴がヘアピンを奪った。
麗の視界は再び前髪に覆われた。
「返してよ」
「だーめ。これは没収」
晴は口角を上げ、自分のポケットにしまった。
ひどい! 私のなのに!
地団駄を踏んで晴を睨むが、飄々とした笑顔でさらりとかわされた。
「カラオケとボウリング対決して、ビリの人がクレープおごるっていうのどう?」
「俺はやらねえ」
「自信ないんだ。アオは音楽の成績悪いもんね」
「悪くねえよ!」
「へえ。なら、カラオケの採点で実力見せてよ」
「……1曲だけだからな」
さすが晴。葵の扱いを熟知している。乗せられやすい単純脳細胞なんだから。
「麗ちゃんもやるよね? やらないとおごり決定ね」
「……選ぶ権利ないじゃん。何もしないでおごりたくない」
「じゃあ、お手並み拝見。楽しみにしてるね」
これが求めていた青春なんでしょと言わんばかりの、見透かしたような笑み。
認めたくないけど、その通り。
癪に障る。
でも、頬が緩む。
カラオケもボウリングもやったことないけど、聞こえてくる声は楽しそうに弾んでいる。
この空間にいるだけでも、小さな夢が叶ったみたいで心が躍る。
目の前にいる葵と晴も、いつもとは違って普通の高校生に見える。
――はずなのに。
聞き慣れない晴の透き通った歌声が、耳について離れない。
ストライクをとる度に小さくガッツポーズする葵のドヤ顔から、目が離せない。
心臓がきゅっと締め付けられるのはどうして……。
浮かれすぎておかしくなったのかな。
あの2人がちょっと眩しく見える。
「麗ちゃん、好きなの選んで」
クレープ屋の前で、晴がメニューを見せてきた。
「うわぁ……!」
イチゴ、バナナ、チョコ、キャラメルの甘いものから、ツナサラダ、タコス、フランクフルトのしょっぱいものまで、何種類ものクレープがある。全部がキラキラして見える。
「どっちも2位だったくせに、喜んでじゃねえよ」
葵が鼻で笑って、麗の頭を小突いた。
「いいじゃん。カラオケはアオが最下位、ボウリングはハルが最下位だったんだから。2人からおごってもらえるんだよ。喜んで当然でしょ」
「麗ちゃんって、案外何やっても”普通”だよね」
満面の笑みで晴が嫌味を言ってくる。
誉め言葉じゃないことは分かっているけど、”普通”は私にとって特別な言葉。全然、悪い気がしない。
「にやけてないでとっとと決めろよ」
「にやけてないよ」
葵に言われて頬に手を当てると、小さなえくぼができていた。
「麗ちゃんが好きそうなの買ってきてあげるよ」
「待って!」
晴にメニューを奪われそうになり、麗は慌てて避けた。
「自分で選びたい」
せっかく選ぶ権利があるんだから。誰かに決められるのはもう嫌。自分のことは自分で決める。
とはいえ、こんなにあると迷う。目移りして全然決められない。
「全部食べたい!」
「はあ? 食べきれねえだろ」
「欲張りだねえ」
「だって、どれもおいしそうだから」
呆れ顔の2人から目を逸らす。
「全部乗せ、あるよ」
クレープ屋の店主が声をかけてくれ、麗は目を輝かせた。
「それ、お願いします!」
「あいよ」
手際よく作ってもらった全部乗せには、甘いのもしょっぱいのもてんこ盛りで、ずっしりと重い。
「すごい! 見てみて。本当に全部のってる!」
「うわあ。ひくほどすごいね」
「うまいのか、これ?」
「おいしいよ。食べる?」
ついテンションが上がって差し出してしまった。
「いいの? いただきまーす」
「味見してやるか」
晴は甘い方を、葵はしょっぱい方を、遠慮なく大きな一口でかじりついた。一気に半分がなくなってしまった。
「食べすぎ!」
「まあまあだね」
「腹の足しにもならねえな」
「あげなきゃよかった……」
肩を落として項垂れる麗の前を、大きなくまのぬいぐるみを抱えた親子が通り過ぎていった。目の前にあるクレーンゲームの景品のようだ。
私もぬいぐるみとってもらったな。全然取れないのに必死になって。取れた時はすっごく嬉しかった。
あのぬいぐるみは、喫茶店と一緒に置いてきた。楽しい思い出は全部、過去のもの。
「あれ、欲しいのか?」
くまのぬいぐるみが積まれているクレーンゲーム機を、葵が指さした。
「……とってくれるの?」
葵は返事をしないでクレーンゲームを操作し始めた。
あのアオが、私のために? まさか、ね。
「くそっ。全然とれねえ」
何回やっても、掴んでは落ちてしまう。だんだん苛立ってきて、クレーンゲームに殴りかからないか心配になる。
「僕にもやらせて」
晴もやってみるが、全然とれる気配がない。
「もういいよ。すっごく欲しいってわけじゃないし」
「ここまで課金してやめられるかよ」
「あと少しでとれるはず。……とれなかったら、ネガティブな口コミ投稿するから」
不敵な笑みを浮かべる晴の目が細くなる。
これは本気だ。これ以上止めても無意味。
葵も躍起になって、鬼の形相でレバーを慎重に操作している。
「アオ、もう少し右」
「ここか? いきすぎてねえか?」
「いきすぎだよ。下手くそ」
「うるせえな。おまえだってとれねえだろ」
「アオだってとれてないじゃん」
言い合いながらも、葵と晴はガラスに顔を近づけて、真剣な顔でぬいぐるみを睨んでいる。
肩を寄せ合う2人の背中が、あの頃の自分と父親と重なる。
他愛もない光景なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれる。
「とれた!」
「やった!」
葵と晴が同時に声を上げ、ぬいぐるみを麗の前に突き出した。
「すごい! 2人ともありがとう」
ふわふわのぬいぐるみに頬を寄せる。懐かしさが込み上げ、嬉しさと切なさが混ざり合う。それでも麗の顔には、柔らかい笑みが満ちる。
葵と晴は、一瞬目を瞠る。
「そんなに嬉しいかよ。ガキか」
口調は乱暴だが、葵の瞳の奥は淡く揺れる。
「麗ちゃんは笑顔も似合うよね。……でも、泣き顔の方が好みだけど」
晴が耳元で囁く。
麗の背筋がぞわりと粟立つ。ぬいぐるみを抱きしめる手に力が入る。一歩後ずさると、葵にぶつかった。
「何してんだよ。帰るぞ」
葵に腕を引っ張られる。
「置いてかないでよ」
もう片方の腕を晴に掴まれる。横並びで歩く違和感と、両腕から伝わる熱のせいか、麗の心臓は落ち着かない。
「帰ったらステージの練習する?」
「めんどくせえ」
晴に問いかけられ、葵は眉をひそめた。
「やろうよ。ここまで頑張ったんだから、失敗したくない。喫茶店もステージも成功させよう!」
風が吹いて麗の前髪が煽られる。やる気に溢れた麗の薄茶色の瞳に、街路灯の光が反射して煌めく。
「しょうがねえな。付き合ってやるか」
葵が肩をすくめる。
「文化祭、何も起きないといいけど」
口角を上げる晴が、小さく呟いた。
憧れていた”普通”の高校生活に、指先が触れる。
もう少しで手に入りそう。
文化祭が成功すれば、きっと私もクラスの中に、学園の中に溶け込める。
――忘れてないよね?
胸の奥の深い闇から、影が揺らめく。
復讐を誓う私の本心が、静かに微笑む。
この時、私はまだ知らなかった。
復讐の先にある深淵の闇が、すぐそこまで来ているということを――。

