龍棲宮の主

 二〇五七年、八月の終わり。
 夏の暑さがまだ居座る午後、私はいつものようにアトリエで絵を描いていた。
 いつもと少し違うのは——頭がほんの少し軽いこと。

 今朝、角が抜け落ちたのだ。
 この日をずっと待っていた。これでようやく、あの絵を完成させられる。

「ふんふーん……」
 鼻歌交じりに顔料に加工した角を筆先に含ませる。そしてキャンバスの中の彼の左頬へ、慎重に色を重ねていった。

 目の前にあるのは結婚式の日の陣を描いた絵だ。紋付袴に身を包み、穏やかな笑顔を浮かべている。
 絵自体は挙式が終わった春頃から描き始めていた。

 けれどどうしても再現できない色が一つだけ。
 彼の左頬に刻まれた伴侶の刻印だ。
 あの青白い光を帯びた色だけは、やはり他の顔料では出せない。だから角が生え変わる今日まで待っていたのだ。

 ——後もう少しで……。
 そんなことを考えながら筆を動かしていると——。
「なーに描いてんだ?」
「わあっ!?」
 突然、真後ろから陣に声を掛けられた。

 いつの間にいたのか、驚いて肩を跳ねさせる。
 私は急いで立ち上がると、キャンバスの前で両手を広げた。
「だーめ! まだ完成してないんだから!」
「なんだよ。別に見せてくれてもいいだろ?」

 慌てた様子の私に、陣はくすくすと可笑しそうに笑う。そんな彼の顔には今も青白い爪痕が淡く輝いている。
 私が彼へ贈った、私にとって唯一の人であることの証。
 それを見るたびに頬が緩みそうだ。

「春野隊長がケーキを持ってきてくれたんだ。皆で食べよう」
「ケーキ!? やったぁ!」
 絵のことなどすっかり頭から抜け落ち、私はアトリエを飛び出した。

「辰巳ちゃーん!」
 廊下の向こうでは、真里ちゃんがこちらへ手を振っている。
 その隣には三原隊長と、ケーキの箱を抱えた春野隊長。
 私は遅れてやってきた陣と並んで、三人のもとへ向かった。

 私は中條辰巳、龍永の龍神の血を引く龍棲宮の主。
 多少の不自由はあるけれど、それでも、私の心は満たされている。
 隣に陣がいてくれるから。
 どうかこの先も、今みたいな幸せがずっと続きますように——。

 完