龍棲宮の主

 荒い呼吸を繰り返す中、身体に起きていた異変がすぅっと薄れていく。
 頭部にあった硬い感触がさらさらと崩れるように消え、頬と腕を覆っていた鱗も皮膚へ溶け込むように消失した。
 尾骨から伸びていた尾も煙のように跡形もなくなった。

「……え」
 私は呆然と端末に映る自身を眺める。
 まるで幻だったかのように何も残っていない。

 戸惑いを隠せずにいると、耳が微かな呻き声を拾った。
「——ん……」
「兄さん!」
 痛む脚を引きずって彼に駆け寄る。

 壁際にもたれかかっていた陣がゆっくりと瞼を開いた。焦点の定まらない瞳が数度瞬きを繰り返し、やがて私を捉える。

「……辰巳」
 掠れた声で呼ばれ、安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
「良かった……」
「俺は……」
 陣が額を押さえながら周囲を見渡す。
 妖怪の気配が完全に消滅した中、戦闘の痕跡を目で辿っている。

 数秒の沈黙の後、彼が低く尋ねてきた。
「……お前が倒したのか?」
「え……」
 心臓が跳ねる。
「……た、たぶん」

 自分でも驚くほど歯切れの悪い声だった。
 嘘は言っていない。あれはおそらく私がやったことだ。けれど今の段階で、自分の身に起こったことをそのまま話す勇気はなかった。

 陣はそんな私をじっと見つめた後、小さく笑った。
「そうか……。よくやった」
 ワシャワシャと頭を撫でられる。
 普段なら褒められて嬉しいはずなのに。今はさっきのことで頭がいっぱいで、それどころではない。

 ——あれは……何だったの……?
 龍永の龍神のような姿、自分があんなふうになった事実が飲み込めなくて。
 だからきっと見間違いだと、非常事態で脳が錯乱しただけなのかもしれないと、そう思うことにした。

 けれどそんな淡い幻想は、その日のうちに打ち砕かれることになる。

 ◇

 夜。自宅の浴室で、私は鏡の前に立ち尽くしていた。
「…………」
 脇腹に鱗があった。
 青白く、鉱石みたいな淡い光を放つ鱗。
 恐る恐る指先で触れると、ひやりと冷たい感触が返ってくる。

「……なんで」
 掠れた声が漏れる。
 見間違いじゃなかった。認めざるを得ない。自分の身体に、確実に何か異変が起きている。
 頭がじわじわ冷えていく。
 妖怪との戦闘中、なんらかの影響を受けた可能性が高い。

 ——明日、協会で調べてもらおう。
 大丈夫と何度も自分に言い聞かせても、不安は全然消えてくれなかった。



 入浴を終えた後、私は部屋着へ着替えリビングのソファへ腰を下ろした。
 テレビではバラエティ番組が流れている。芸人の賑やかな笑い声が部屋へ響いていた。けれど内容はほとんど頭に入ってこない。

 ローテーブルの上には開きっぱなしの救急箱。風呂を終えたら包帯を巻けと、陣に念押しされていたのを思い出す。
 でもまだそのままだ。

 私は無言でズボンの裾を捲り上げた。
 露わになった右のふくらはぎには、妖怪に抉られた痛々しい爪痕が残っている。
 幸い血は止まっているけれど、赤黒い傷口は見るだけで痛みを思い出させた。

「……はぁ」
 小さく息を吐き、裾を元に戻す。
 視線を再びテレビへ向ける。けれどやっぱり、内容は頭に入ってこなかった。

 脇腹の鱗が気になって仕方ない。
 服の下にあれが今も存在している。そう思うだけで落ち着かなくなる。

 番組がCMへ切り替わる。流れてきたのは退魔師協会の広報CMだ。
『あなたの力が、誰かの未来を守る』
 そんなナレーションと共に、医療部隊や研究部隊、実動部隊の映像が次々映し出される。

 私はぼんやりそれを眺めながら考えた。
 ——こういう場合って、どこへ相談すればいいんだろう。
 医療部隊? それとも研究部隊?

 身体の異変だから医療部隊な気もするけれど、妖怪が関与していることなら専門外な気がする。
 そんなことを考えているとピコンとスマホが鳴った。
 メール通知だ。

 なんとなく画面を開いて――私は目を見開いた。
「やった!」
 思わず小声が漏れる。
 少し前に応募していた絵画コンテストの入賞通知だったのだ。

 小さくガッツポーズを作ったと同時に、ドアが開く音がした。
 振り向けば、お風呂から上がった陣が立っていた。彼も部屋着姿で、濡れた髪をタオルで拭きながらこちらを見ている。

「なんだ、やけに嬉しそうだな」
「これ見て!」
 私が勢いよくスマホを見せると、陣は驚いたように目を瞬かせる。

「すごいじゃないか、また入賞したのか」
「ふふん」
 褒められて自然と頬が緩む。脇腹の鱗で沈んでいた気分が少しだけ軽くなった。
 陣が私の隣へ腰を下ろす。

「近いうちに展示されるらしいから、そしたら一緒に見に行こ」
 陣が私の隣へ腰を下ろした後にそう提案すると、彼は「ああ、楽しみだな」と甘く優しい声で感情を表現した。
 その後、彼の視線がローテーブルの救急箱へ向く。

「――ところで、怪我の具合はどうだ?」
「大したことないよ。血も止まったし」
 ほら、と言ってズボンの裾を捲り上げる。
 すると露わになった傷を見るなり陣は眉を寄せた。

「お前、ちゃんと手当てしろって言ったろ」
「これからする予定だよ」
 そう返したものの、説得力は皆無だったらしい。
 陣は小さくため息をつくと私の前へしゃがみ込んだ。

「え、わっ――」
 触れられた右脚がぴくりと震える。
 くすぐったい。
「動くな」
「だ、だってくすぐったいんだもん……」

 彼は慣れた手つきで軟膏を塗り、ガーゼを当て、その上から綺麗に包帯を巻いていく。
 手際の良さはさすがと言うべきか。

「仕事にはもう慣れたか?」
 包帯を巻きながら陣が何気なく尋ねてきた。
「うん。任務の流れも分かってきたし、入社したての頃より余裕は出てきたよ。聞かなくても分かるでしょ? 一番近くで見てるんだから」

 胸を張って答えると、彼はふっと笑う。
「そうだな。他の仕事を斡旋する口実も思い浮かばないほどに」
 その声音には、ほんの少しだけ残念そうな響きが混じっていた。

「もう、兄さんはそんなに私を解雇したいの?」
「お前には危険な目に遭ってほしくないだけだよ。天国にいる養父(とう)さんと養母(かあ)さんだって、きっとそう思ってる」
「それを言うなら兄さんだって――」
「俺はいいんだよ、男だから。危険な仕事は兄さんに任せればいい」
「……性別に問題があるっていうなら、私も男になろうかな」

 私がむぅ、と頬を膨らませると、陣は困ったように苦笑した。
「悪かったって。そんな顔するなよ」
 宥めるように謝った後、包帯の端を留めに入る。
「お前が協会で働きたい理由は痛いほど分かる。だから無理に辞めさせたりはしない。――ほら、出来たぞ」
 巻き終えた包帯を軽く撫で、彼は顔を上げた。

「ありがと」
 礼を言いながら、私はほんの少しだけ表情を曇らせる。
 妖怪によって家族を失った。だからこそ同じ思いをする人を少しでも減らしたい。それが私が退魔師協会へ入った理由だ。
 きっと陣も同じなのだろう。

 でも理由はそれだけじゃない。
 もっと曖昧で、もっと説明のつかない感覚。
 理由というより、ほとんど強迫観念に近い。

 あそこが自分の居場所なのだと。
 あそこにいるのが当然なのだと。
 そんな感覚を、どこかで抱いていた。
 孤児になるより、ずっと前から。