祭り会場へ向かう前に、一度私達の家へ寄ることになった。
陣が制服のままでは目立ってしまうし、私もせっかくのお祭りなら浴衣で歩きたい。
「ただいまー」
玄関の扉を開けるなり、私は足早にリビングへ駆ける。
ふわりと鼻をくすぐる懐かしい匂い。床や家具に染みついた、この家だけの香りを胸いっぱいに吸い込む。
「——うん、ちゃんと綺麗にしてるみたいだね」
部屋を見渡しても、床には埃ひとつ落ちていない。家具の上もピカピカで、隅々まで手入れが行き届いていた。
「なんだ、お前は俺が一人じゃ掃除も出来ないと思ってたのか?」
後ろから陣が笑う。
「えへへ、ちょっとだけ?」
「まったく……失礼なやつだな」
横を通り過ぎる際に咎めるように私の鼻をつまむも、その顔はどこか楽しそうだった。
陣はソファの上に置いてあるカバーに入れられた浴衣を手に取り、私へ差し出す。
「ほら。尻尾用の穴も開けておいたから、着替えてこい」
「さすが陣、準備がいいね」
私は浴衣を受け取るとそのまま二階の自室へ向かった。
部屋は私が龍棲宮へ移る前と何一つ変わっていなかった。
机の上の小物も、本棚にある漫画や小説も、あの頃もままだ。
——陣、とっておいてくれたんだ。
もうここへ戻ることはないのだから、処分しても良かったのにと思う反面、彼がその選択肢を取らないでいてくれたことにじんわりと胸が温かくなった。
「お待たせ」
浴衣姿になって玄関へ戻ると、既に着替えを終えた陣が待っていた。
「尻尾はどうだ? 窮屈じゃないか?」
「うん、大丈夫。ぴったりだよ」
私はくるりと後ろを向き、浴衣から覗く尻尾を揺らして見せる。
「そりゃ良かった」
陣は安心したように微笑むと、少しだけ腰を屈めて私と目線を合わせてきた。
「今日は俺の奢りだ。お前が好きなもの、何でも買ってやる」
「ほんと?」
彼の言葉に胸がぱっと弾む。
「じゃあ着いたら、まずはりんご飴が食べたい!」
「ああ、分かった」
優しく笑う彼に釣られて私まで笑顔になる。
急いで下駄を履き、玄関の扉へ手を掛けた。
恋人になって初めて迎える龍神祭。どんな夜になるだろう。
期待で胸を膨らませながら、私は陣と並んで家を後にした。
◇
遠くで祭りの明かりが見え始めた頃だった。
「わぁああっ!」
鋭い悲鳴が夜道に響く。
反射的に声のした方を見ると、小さな男の子が尻もちをついたまま後ずさっていた。
その目の前には、犬に似た小型の妖怪が牙を剥き、今にも飛び掛かろうとしている。
「危ない!」
私が駆け出そうとした、その一瞬。陣の方が速かった。
風を切るように男の子の前へ飛び込み、素早く浴衣の帯へ手を伸ばす。
今の今まで気付かなかったが、そこには協会の隊員に支給されている警棒があった。何かあったときのために持ってきていたようだ。
陣は警棒を刀に変形させ、振り下ろされた妖怪の爪を受け止めた。
火花が散り、鈍い衝撃音が夜道へ響く。
「下がれ!」
短く叫びながら妖怪を押し返すと、男の子を抱き上げその場から飛び退いた。
その僅かな隙の間に。
妖怪の鋭い爪が陣の頬を掠めた。
左目を覆っていた眼帯がはらりと地面へ落ち、隠されていた傷痕が月明かりに晒される。
固く閉ざされた目の上には、瞼から頬にかけて幾筋もの深い裂傷が走っていた。
まるで獣に引き裂かれたような生々しい古傷だ。
妖怪が再び飛び掛かる。私は右手を突き出した。
「はっ!」
青白い光が妖怪を包み込み、その身体は音もなく崩れ夜空へ溶けていった。
静寂が戻る。
「怪我はないか?」
陣は男の子をそっと地面へ降ろすと優しく問いかけた。
けれど男の子はそれに答えることなく、「ひっ」と小さく悲鳴を上げて駆け出してしまった。
「あっ……」
遠ざかっていく小さな背中に陣は一瞬だけ目を見開くも、すぐにそれは自嘲するような笑顔に変わる。
「はは……怖がらせちまったな」
無理矢理絞り出したようなその表情に、私の胸は締め付けられた。
「……無理しなくていいよ」
傷付いた心を隠す必要なんてないのに。そう思いながら、地面に落ちた眼帯を拾い上げる。
土埃で少し汚れてしまっていた。
「どうする? 一回家に戻って、新しいの取ってくる?」
「……いや。時間がもったいないし、このままでいい」
陣は首を横に振るも、左目を隠すように何度も手が伸びている。どこか落ち着かない様子が痛いほど伝わってきた。
私は小さくため息をつくと、彼の手を掴んで家の方へ歩きだした。
「お、おい!」
「もう、無理しなくていいって言ったばっかなのに」
慌てた様子の陣に振り返って笑う。
「せっかくのお祭りなんだから、陣も楽しめなきゃ意味ないよ」
伝えたいことを言ったので前を向いて歩き続けていると、やがて握った手にそっと力が返ってきた。
「……ありがとな、辰巳」
その声は今まで聞いたなかで一番弱々しかったけれど。
私はそれが、とても嬉しかった。
家へ戻って新しい眼帯を付け直した後、私達は改めて龍神祭の会場へ向かった。
提灯の灯りが夜道を優しく照らし、屋台からは甘い匂いや香ばしい匂いが次々と漂ってくる。
金魚すくいに夢中な子供達、射的ではしゃぐ学生達、そして龍神の仮装をする老若男女。
色とりどりの浴衣が行き交い、街中が笑顔に包まれていた。
「んー、おいしい!」
念願のりんご飴を一口かじる。
頬を緩ませている私の横で、陣が愛おしげに見つめている。
「あっ」
そんな中、幼い声が耳に届く。
振り向くと、さっき助けた男の子がこちらへ駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん……さっきはごめんなさい。助けてくれたのに……」
男の子は陣の前でぴたりと立ち止まると、深々と頭を下げる。
陣は少し驚いたように目を丸くした後、柔らかく笑ってしゃがんだ。
「気にしなくていい、怪我がなくて本当に良かった」
男の子が顔を上げる。先程まで強張っていた表情は、今は少し安心をしたように力が抜けていた。
その後彼は、恥ずかしそうにもじもじして両手で大事そうに抱えていたものを陣に差し出してくる。
「これ……」
小さな手に握られていたのは、屋台で買ったのだろう、青い龍を模したガラス細工のキーホルダーだった。
「お礼……」
陣は一瞬きょとんとしたあと、丁寧にそれを受け取る。
「——ありがとう、大事にするよ」
その声は、どこか照れくさそうだった。
男の子は満面の笑みを浮かべると「またね!」と元気よく手を振り、人混みの中へ駆けていった。
彼の後ろ姿を見送る陣は、どこか穏やかな顔をしていた。
さっきまで心に残っていた痛みが、少しだけ溶けていったような表情。
そんな陣を見て、私まで胸が温かくなる。
陣の横顔を見続けていると——。
ドンッっと大きな音が響いた。
色鮮やかな花火が夜空いっぱいに咲き誇り、あちこちから歓声が上がる。
「綺麗……」
無数の光が夜空を彩り、私達の瞳にも映り込む。
「去年は見られなかったからな」
隣で陣がゆっくりと口を開いた。夜空を見上げたまま、小さく笑っている。
「今日こうして、お前と一緒に来れてよかった」
花火を見つめる横顔は、光を受けていつもより優しく、儚く見えた。
「——私も……陣と一緒に見れて本当に良かった」
夜空には次々と大輪の花が咲いていく。
その光景を、私たちは肩を並べて、いつまでも見つめていた。
陣が制服のままでは目立ってしまうし、私もせっかくのお祭りなら浴衣で歩きたい。
「ただいまー」
玄関の扉を開けるなり、私は足早にリビングへ駆ける。
ふわりと鼻をくすぐる懐かしい匂い。床や家具に染みついた、この家だけの香りを胸いっぱいに吸い込む。
「——うん、ちゃんと綺麗にしてるみたいだね」
部屋を見渡しても、床には埃ひとつ落ちていない。家具の上もピカピカで、隅々まで手入れが行き届いていた。
「なんだ、お前は俺が一人じゃ掃除も出来ないと思ってたのか?」
後ろから陣が笑う。
「えへへ、ちょっとだけ?」
「まったく……失礼なやつだな」
横を通り過ぎる際に咎めるように私の鼻をつまむも、その顔はどこか楽しそうだった。
陣はソファの上に置いてあるカバーに入れられた浴衣を手に取り、私へ差し出す。
「ほら。尻尾用の穴も開けておいたから、着替えてこい」
「さすが陣、準備がいいね」
私は浴衣を受け取るとそのまま二階の自室へ向かった。
部屋は私が龍棲宮へ移る前と何一つ変わっていなかった。
机の上の小物も、本棚にある漫画や小説も、あの頃もままだ。
——陣、とっておいてくれたんだ。
もうここへ戻ることはないのだから、処分しても良かったのにと思う反面、彼がその選択肢を取らないでいてくれたことにじんわりと胸が温かくなった。
「お待たせ」
浴衣姿になって玄関へ戻ると、既に着替えを終えた陣が待っていた。
「尻尾はどうだ? 窮屈じゃないか?」
「うん、大丈夫。ぴったりだよ」
私はくるりと後ろを向き、浴衣から覗く尻尾を揺らして見せる。
「そりゃ良かった」
陣は安心したように微笑むと、少しだけ腰を屈めて私と目線を合わせてきた。
「今日は俺の奢りだ。お前が好きなもの、何でも買ってやる」
「ほんと?」
彼の言葉に胸がぱっと弾む。
「じゃあ着いたら、まずはりんご飴が食べたい!」
「ああ、分かった」
優しく笑う彼に釣られて私まで笑顔になる。
急いで下駄を履き、玄関の扉へ手を掛けた。
恋人になって初めて迎える龍神祭。どんな夜になるだろう。
期待で胸を膨らませながら、私は陣と並んで家を後にした。
◇
遠くで祭りの明かりが見え始めた頃だった。
「わぁああっ!」
鋭い悲鳴が夜道に響く。
反射的に声のした方を見ると、小さな男の子が尻もちをついたまま後ずさっていた。
その目の前には、犬に似た小型の妖怪が牙を剥き、今にも飛び掛かろうとしている。
「危ない!」
私が駆け出そうとした、その一瞬。陣の方が速かった。
風を切るように男の子の前へ飛び込み、素早く浴衣の帯へ手を伸ばす。
今の今まで気付かなかったが、そこには協会の隊員に支給されている警棒があった。何かあったときのために持ってきていたようだ。
陣は警棒を刀に変形させ、振り下ろされた妖怪の爪を受け止めた。
火花が散り、鈍い衝撃音が夜道へ響く。
「下がれ!」
短く叫びながら妖怪を押し返すと、男の子を抱き上げその場から飛び退いた。
その僅かな隙の間に。
妖怪の鋭い爪が陣の頬を掠めた。
左目を覆っていた眼帯がはらりと地面へ落ち、隠されていた傷痕が月明かりに晒される。
固く閉ざされた目の上には、瞼から頬にかけて幾筋もの深い裂傷が走っていた。
まるで獣に引き裂かれたような生々しい古傷だ。
妖怪が再び飛び掛かる。私は右手を突き出した。
「はっ!」
青白い光が妖怪を包み込み、その身体は音もなく崩れ夜空へ溶けていった。
静寂が戻る。
「怪我はないか?」
陣は男の子をそっと地面へ降ろすと優しく問いかけた。
けれど男の子はそれに答えることなく、「ひっ」と小さく悲鳴を上げて駆け出してしまった。
「あっ……」
遠ざかっていく小さな背中に陣は一瞬だけ目を見開くも、すぐにそれは自嘲するような笑顔に変わる。
「はは……怖がらせちまったな」
無理矢理絞り出したようなその表情に、私の胸は締め付けられた。
「……無理しなくていいよ」
傷付いた心を隠す必要なんてないのに。そう思いながら、地面に落ちた眼帯を拾い上げる。
土埃で少し汚れてしまっていた。
「どうする? 一回家に戻って、新しいの取ってくる?」
「……いや。時間がもったいないし、このままでいい」
陣は首を横に振るも、左目を隠すように何度も手が伸びている。どこか落ち着かない様子が痛いほど伝わってきた。
私は小さくため息をつくと、彼の手を掴んで家の方へ歩きだした。
「お、おい!」
「もう、無理しなくていいって言ったばっかなのに」
慌てた様子の陣に振り返って笑う。
「せっかくのお祭りなんだから、陣も楽しめなきゃ意味ないよ」
伝えたいことを言ったので前を向いて歩き続けていると、やがて握った手にそっと力が返ってきた。
「……ありがとな、辰巳」
その声は今まで聞いたなかで一番弱々しかったけれど。
私はそれが、とても嬉しかった。
家へ戻って新しい眼帯を付け直した後、私達は改めて龍神祭の会場へ向かった。
提灯の灯りが夜道を優しく照らし、屋台からは甘い匂いや香ばしい匂いが次々と漂ってくる。
金魚すくいに夢中な子供達、射的ではしゃぐ学生達、そして龍神の仮装をする老若男女。
色とりどりの浴衣が行き交い、街中が笑顔に包まれていた。
「んー、おいしい!」
念願のりんご飴を一口かじる。
頬を緩ませている私の横で、陣が愛おしげに見つめている。
「あっ」
そんな中、幼い声が耳に届く。
振り向くと、さっき助けた男の子がこちらへ駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん……さっきはごめんなさい。助けてくれたのに……」
男の子は陣の前でぴたりと立ち止まると、深々と頭を下げる。
陣は少し驚いたように目を丸くした後、柔らかく笑ってしゃがんだ。
「気にしなくていい、怪我がなくて本当に良かった」
男の子が顔を上げる。先程まで強張っていた表情は、今は少し安心をしたように力が抜けていた。
その後彼は、恥ずかしそうにもじもじして両手で大事そうに抱えていたものを陣に差し出してくる。
「これ……」
小さな手に握られていたのは、屋台で買ったのだろう、青い龍を模したガラス細工のキーホルダーだった。
「お礼……」
陣は一瞬きょとんとしたあと、丁寧にそれを受け取る。
「——ありがとう、大事にするよ」
その声は、どこか照れくさそうだった。
男の子は満面の笑みを浮かべると「またね!」と元気よく手を振り、人混みの中へ駆けていった。
彼の後ろ姿を見送る陣は、どこか穏やかな顔をしていた。
さっきまで心に残っていた痛みが、少しだけ溶けていったような表情。
そんな陣を見て、私まで胸が温かくなる。
陣の横顔を見続けていると——。
ドンッっと大きな音が響いた。
色鮮やかな花火が夜空いっぱいに咲き誇り、あちこちから歓声が上がる。
「綺麗……」
無数の光が夜空を彩り、私達の瞳にも映り込む。
「去年は見られなかったからな」
隣で陣がゆっくりと口を開いた。夜空を見上げたまま、小さく笑っている。
「今日こうして、お前と一緒に来れてよかった」
花火を見つめる横顔は、光を受けていつもより優しく、儚く見えた。
「——私も……陣と一緒に見れて本当に良かった」
夜空には次々と大輪の花が咲いていく。
その光景を、私たちは肩を並べて、いつまでも見つめていた。



