龍棲宮の主

 翌朝にはすっかり元気になった。
 それからさらに数日経った現在。陣とは以前よりも自然に話せるようになったものの、あの日の返事はまだ返せずにいる。

「随分とたくさん作ったな」
 アトリエへ入ってくるなり、陣がくすりと笑った。
 私は気にすることなく、十体目のてるてる坊主の首へ紐をきゅっと結び、机の上へ並べる。
「これだけ作れば、さすがに晴れてくれるでしょ」

 窓の外では今日も雨が降り続いている。
 晴れたら庭に紫陽花を植えるという約束を楽しみにしている私は、一向に顔を見せてくれないお天道様に痺れを切らし、とうとう古典的な雨乞いに縋ることにしたのだった。

「さて、あとは顔を描くだけだね」
 立ち上がって棚へ向かう。
 一番上の段にあるマジックペンの箱へ背伸びして手を伸ばすけれど、あと少し届かない。
「んっ……!」
 痛みが走るほどに腕を伸ばしていると、不意に頭上から大きな手が伸びてきた。
 その手がひょい、と軽々しく箱を取る。

「ほら」
「あ……ありがとう……」
 振り向くと、いつの間にか陣がすぐ後ろに立っていた。
 触れそうで触れない距離。背中越しに伝わる体温に、心臓がどくんと大きく鳴る。

「そ、そうだ。せっかくだし兄さんも描いてよ、顔」
 誤魔化すようにマジックを一本渡し、私は棚と陣の間を逃げるようにすり抜けた。
 ここ最近ずっとこんな調子だ。
 彼が笑うだけで、近くにいるだけで、胸が勝手に騒いでしまう。

 さっきだって、笑顔で箱を差し出されただけなのに顔が熱くなってしまった。
 確実に陣に対する認識が変わってきている。
 私の中で、彼はもう兄と呼べるだけの存在ではなくなり始めていた。
 それなのに――。

「好きに描いていいのか?」
「うん」
 陣はいつも通りだった。
 私に向ける笑顔も接し方も、昔と変わらない、優しくて面倒見が良い兄の姿だ。
 とても数日前に溶けるような視線で思いをぶつけてきた人とは思えない。

 これでは私ばかりが意識しているみたいで、なんだか悔しい。
 私はやり場のない苛立ちをぶつけるように、てるてる坊主にグリグリとマジックを押し付けた。

「出来た」
 そうしていると、満足げな顔をした陣が手にしていたてるてる坊主をこちらに見せてくる。
 まんまるの目の上には二つの三角、そしてにっこりとした口の左右に格子状の線が描かれていた。

「それって、もしかして私?」
「ああ。なかなか上手に描けてるだろ?」
 褒めてほしいと言わんばかりの笑顔を向けられ、私はふいっと顔を背ける。

「……まあまあかな」
 素っ気なく答えたものの、ぱたぱたと揺れる尻尾だけは正直だった。
 その様子を見た陣の口から「フッ」と小さな笑い声が漏れる。
 その声を聞いて、また顔が熱くなった。

「——じゃあ私は兄さんを描いてあげる」
 にやりと口角を上げて、まだ何も描かれていないてるてる坊主を手に取ると、私は迷わず左目へ眼帯を描き足す。
 こうして眼帯姿のてるてる坊主を一つ誕生させた。

 全部に顔を描き終えた後、椅子を窓際まで持っていく。
「俺がやるよ。危ないだろ?」
「大丈夫だよこのくらい」
 心配そうな陣をよそに、私は半ば強引に十体のてるてる坊主を彼へ預けて椅子に上がった。
 一体ずつ受け取ってはカーテンレールに吊るしていく作業を繰り返す。

「——よし、これで全部だね」
 最後の一体——陣を模した眼帯のてるてる坊主を吊るし終えて、額の汗を拭う。
 十体のてるてる坊主が仲良く並ぶ光景は、とても賑やかで愛らしい。

 そう思って眺めていると、ゆらゆらと揺れていた一番端の眼帯坊主が、隣にある私を模した龍神坊主にぶつかった。
 布に描かれた小さな口同士がちゅっと触れ合う。

「……っ」
 心臓がまた大きく跳ねた。
 ただ偶然触れ合っただけなのに。それなのに妙に意識してしまう。
 こんなことで動揺しているなんて、絶対に陣には知られたくない。
 私は何食わぬ顔で眼帯坊主を少し離そうと手を伸ばした。
 それがいけなかったのか、途端に体勢を崩してしまう。

「わっ」
 身体がぐらりと傾き、ガタンと椅子が倒れる音がアトリエに響く。だが、私の身体が床に打ちつけられることはなかった。
 咄嗟に陣が抱き留めてくれたからだ。

「まったく言わんこっちゃない……。怪我はないか?」
 心配そうに顔を覗き込まれる。
 駄目、こんな近くで見ないで。きっと今の私は林檎みたいに真っ赤になっている。

 内心で焦っていると、呼吸に似た笑い声が聞こえてきた。
「ほんとに可愛いな、お前は。そんなに顔を赤くして——ああ悪い悪い、そう睨むなよ」
 悔しくなって陣の胸をポカポカ叩く。もちろんこのくらいではびくともしない。
「……不公平だよ。私ばっかり緊張してるみたいでさ」

 あまりにも余裕のある態度に腹が立ったので愚痴を溢す。すると陣は一瞬目を瞬かせた後にスッと細めた。
「俺が緊張してないって?」
 胸を叩いていた私の手を包み込み、指を優しく開かせる。
「なら、確かめてみるか?」

 導かれるまま、私の手のひらは陣の心臓部分へ触れた。
 どくっ。
 どくっ、どくっ——。
 手のひら越しに伝わる鼓動は私に負けないくらい速い。

「……え」
 驚いて顔を上げて、彼と目が合う。
 細められた右目はあの日と同じように甘く熱い。
 その太陽のような熱は、私の中にある感情を開花させるのに充分だった。

 金縛りにあったように陣を見つめていると、ふっと部屋の中が明るくなる。
「あっ」
 窓の外を見ると、いつの間にか雨脚は弱まり厚い雲の切れ間から太陽が顔を覗かせていた。

「晴れたよ兄さん! これで紫陽花植えられるね、行こ!」
 照れ隠しに私はわざとらしくはしゃいで陣の腕を引っ張る。
「まだちょっと降ってるぞ。もう少し待った方が——」
「だーめ、今やるの!」
 彼の提案を跳ね除けて、強引に庭へと向かった。

 ◇

 紫陽花が入ったプランターとスコップを持って縁側から庭に出る。羽織はしゃがんだときに土で汚れると悪いから置いてきた。

 雨はまだちらほらと降っている。灰色の雲の切れ間から零れる陽射しが、細かな雨粒をきらきらと照らしている。
 空から落ちる光と雨が重なり合い、庭はまるで薄い硝子の幕に包まれているようだった。

 頬や腕にある青白い鱗へ雨粒が触れる。
 ひやりとした感触が心地よく、火照った身体をゆっくりと冷ましてくれる。

 あらかじめ決めていた場所まで歩くと、私は早速スコップを土へ差し込んだ。
 湿った土は思ったより柔らかく、掘るたびに土の匂いがふわりと立ち上る。

 黙々と穴を掘っていると、不意に陽射しが遮られた。
 顔を上げると傘を差した陣と目が合った。
「せっかく熱が下がったばかりなんだ、あまり濡れるな」
 そう言うと、彼は私の隣へしゃがみ込む。

 作業を再開しようとした直前、陣の肩が少し濡れていることに気付いた。
「兄さん、肩が……」
「ん? ——ああ、別にこのくらい大したことない」
 気にするなと笑いながら、傘を自分の方へ向けることも、身を寄せることもせず。

 仕方がないので私の方から動いた。
 肩と肩が軽く触れ合うくらいまで距離を詰める。
「これならお互い濡れないでしょ?」
「——っ」
 私の行動が余程意外だったのか、僅かに陣は目を丸くする。けれどすぐに取り繕うように柔らかく笑った。
「ああ……そうだな」

「……」
 再びスコップを動かしながら考える。
 きっと陣は私に遠慮しているのだろう。そんな必要はないのに。
 私の気持ちはもう決まっている、あとは伝えるだけ。
「私も好き」と言えば済む話だ。
 でもそのたった一言がどうしても喉を通ってくれない。

 ——だったら。
 私は掘り終えた穴へ紫陽花を移し、優しく土を戻していく。
「やっぱり、この庭によく似合う」
 陣が植えたばかりの紫陽花を見つめて微笑むと、こちらにタオルを差し出してきた。

「ありがとう」
 タオルを受け取り、手についた土を丁寧に拭き取る。
 ——言葉にできないのなら、別の方法で……。
 これ以上彼を苦しませたくない。
 私は深く息を吸い、タオルを陣へ返した。

「よし、無事に植え終えたことだし中へ戻ろ——」
 その言葉が終わるより早く。
 私は背伸びをして、陣の左頬へキスをした。

 柔らかな感触。唇が触れた箇所から熱が広がっていく。
 彼が今どんな顔をしているのか、ここからでは分からない。怖くて確認する勇気も湧かなかった。

 永遠にも思える静寂の後、ボトッと鈍い音が庭に響く。
 恐る恐る目を開けて口を離すと、陣の手から滑り落ちた傘が地面へ転がっていた。
 その光景に気を取られていた次の瞬間。

 気付けば私は、強く抱き寄せられていた。
 ぎゅっと、苦しいくらい力強く。互いの体温が溶け合ってしまいそうなほどに。

「陣……?」
 顔を上げると、彼の右頬に一筋の雫が伝っていた。
「陣……泣いてるの?」
 私はそっとその雫を指先で拭う。
 すると陣は、その手へ甘えるように頬を擦り寄せた。

「……泣いてない、雨だ」
 小さな声であまりにも子供じみた嘘をつくものだから、思わず笑ってしまいそうになる。

 陣は落ちた傘を拾い上げると、屋敷から私達が見えないように傾ける。
「……もう二度とお前を離さない。——愛してるよ、辰巳」
 幸せそうに目を細めたまま囁いた後、陣は私の唇に口付けた。

 天泣(てんきゅう)の中。雨粒が紫陽花を揺らし、その傍らで実った想いを誰にも知られないようささやかに祝福していた。