重たい瞼を開くと、見慣れた天井がぼんやりと視界に映った。
私の部屋だ。
「辰巳ちゃん!」
すぐそばから聞こえた声に顔を向けると、ベッド脇にいる真里ちゃんが安堵したように笑った。
「良かった、目が覚めた……! 気分はどう?」
「……真里、ちゃん」
答えようとするけれど、喉が熱い。
息を吸うだけでも身体が火照り、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「君が貰った花束の中にな」
少し離れた場所から男の人の声が聞こえた。ゆっくり視線を向けると、出入口の襖にもたれ掛かる三原隊長の姿があった。
「妖怪が生成する花が一本だけ混じってたんだ」
「妖怪の……花?」
「そう。その花に触れると高熱が出る。それだけならまだいいんだが、厄介なことに自白剤みたいな作用まであってな。どういう経緯で混入したのか、いま調査中だ」
どこかで聞いたことのある話だが、ぼんやりした頭ではよく思い出せない。でも説明の内容はなんとなく理解した。
何故だろう、具合が悪くなった原因は分かったのに不安は消えてくれない。
「……陣は?」
「え?」
三原隊長が一瞬きょとんと目を瞬かせた。
「陣はどこ……? 陣に会いたい……」
どうして。
どうしてこんなにも会いたいと思ってしまうんだろう。
止めようとしても口から言葉が勝手に零れていく。
胸が苦しい、今すぐ彼の顔を見たい。そんな衝動ばかりが膨らんでいく。
「呼んでこようか?」
真里ちゃんの言葉に私は小さく首を横に振った。
駄目。
今会ったら、ずっと胸に秘めていた疑問をぶつけてしまいそうで。
それで彼を困らせてしまったら、それで彼に肯定されてしまったら——私はきっと立ち直れない。
真里ちゃんが困ったように三原隊長を見る。
三原隊長は彼女の視線に応えるように頷くと、襖を開けて部屋を出ていった。
部屋には雨音だけが残る。
私の目からも雨が溢れてきそうだ。
時間はそうかからず再び襖が開いた。
戻ってきた三原隊長の隣には、陣が立っていた。
「何かあったら呼んでね」
真里ちゃんは優しく微笑むと、手招きをする三原隊長のもとへ駆けていく。
彼女と入れ違うように陣が部屋へ足を踏み入れる。
二人が去り、部屋には私と陣だけとなった。
私は慌てて布団を頭まで引き上げた。
途端、ぽろりと涙が零れる。
一粒落ちるともう止まらなかった。ぽたぽたと枕を濡らしていく。
まるで今まで必死に押さえ込んできた不安が、一気に決壊してしまったみたいだ。
「——辰巳」
布団越しに陣の低い声が聞こえる。
ゆっくりと近付いてくる足音。やがて彼の気配がすぐそばで止まった。
「顔、見せてくれないか?」
優しく、それでいてどこか切羽詰まった声。
私は布団をぎゅっと握りしめたまま、おそるおそる頭を出した。
彼と目が合う。
陣はひどく苦しそうな顔をしていた。
私が泣いているせいなのか。それとも別の理由があるのか。
「どこか痛むのか?」
「ち、違うよ」
慌てて首を横に振って上体を起こす。
「目にゴミが入っちゃっただけ」
そんな子供みたいな嘘をつきながら、涙を隠すように目をこすった。
隣で小さなため息が聞こえる。
「見せてみろ」
陣は私の頬へ手を伸ばしてきた。
白い手袋越しの指先が、目元に触れて涙で濡れる。
右の目が真っ直ぐにこちらを見据えるけれど、果たしてそれは本当に中條辰巳を見ているのか。今の私には分からなくて。
怖くなった私は反射的に身体を引き、陣の手から離れた。
部屋に気まずい沈黙が流れる。
陣は行き場を失った手をゆっくり下ろし、自嘲するように笑った。
「……悪い、嫌だったか」
違う、嫌なんかじゃない。
むしろ久しぶりに触れられたことが嬉しくて。
だからこそ、苦しかった。
花の毒に浮かされた頭では、もう感情を押し込めておけない。
私は唇を震わせながら、ずっと胸の奥にしまっていた疑問を口にした。
「——兄さんは……貴方は、どうして私に優しくするの?」
私が言ったことが余程意外だったのか、陣は怪訝そうに眉を寄せる。
「なんでって……。そりゃあお前が俺の——」
「私が貴方の前世の恋人だから?」
その一言で彼の口が--全身がぴたりと止まった。
「貴方は、私のこと龍永籠目の生まれ変わりとして見ているの? 貴方は中條陣としてじゃなく、奥村仁の生まれ変わりとして生きているの……?」
熱で痛む喉から、言葉が堰を切ったように流れてくる。
「待て、なんでそんなこと……」
状況を飲み込めていないような、ひどく困惑した声が陣の口から漏れた。右目は小刻みに揺れている。
私は目を伏せ、小さく息を吐く。
「……ずっと不安だったの。貴方は今の私に前世の私を重ねてるんじゃないかって」
とうとう全部吐き出した。
打ち明けたことで得たのは僅かに軽くなった心と、鉛のように重たい後悔。
部屋に沈黙が流れる。
陣はずっと黙ったまま。
ああ、やっぱり言わなければ良かった。怖くて顔を上げることも出来ない。
「——……いつから」
数秒経って、ようやく聞こえた彼の声は微かに震えていた。
恐る恐る顔を上げると、陣はまるで大切なものを壊してしまったかのような表情を浮かべていた。
「いつから……そんなふうに考えてたんだ?」
いつからだろう。
たぶん前世を全て思い出したあの日から。
「えっと……龍神としての力が完全に目覚めた辺りから、かな」
私が答えると、彼は思い詰めた顔で「そうか」と言って俯いた。
想定外の反応に、今度がこちらが困惑を浮かべる番となる。
やがて陣は私と目線を合わせるように膝をついた。その表情は先程までとは違い、何か覚悟したかのように固く揺るぎない。
「まず謝らせてくれ、不安にさせて悪かった」
頭を下げた後、再び真っ直ぐ私を見つめる。
「その上で言わせてくれ。俺が好きなのはお前だ、中條辰巳だ」
力強く、迷いなく。その言葉は真剣だった。
だけど、素直に頷くことは難しい。今は簡単に鵜呑みに出来るほどの精神状態ではないことは彼も分かっているはずだ。
「……参ったな、どうやって信じてもらおうか」
私の態度に陣は笑う。
困ったような、今にも泣き出しそうな、そんな弱々しい笑みに胸がチクリと痛んだ。
「まず第一に、俺がお前に惚れたのは前世を思い出す前の頃だ」
彼が静かに話し始める。
「……いや、正確には少し違うな。前世の夢自体は物心ついた頃から見てた。でも当時は、それが前世の記憶だなんて思ってもいなかった」
やっぱり、陣は私よりずっと前から前世に触れていたんだ。それでも想像していたより幼い頃からだったことに内心で驚く。
「だから、この気持ちは前世に引っ張られたものじゃない」
陣は一つ一つ言葉を噛み締めるように続けた。
「これは、この想いは——中條陣のものだ」
その瞳に嘘は見えず、きっと今話したことは全て本心なんだろう。
……でも、肝心な部分がまだぼやけたままだ。
「陣は……どうして私のこと好きになったの?」
私が問うと、陣は再び視線を落とした。
「——毎晩、眠るのが怖かった。今日はどんな夢を見るんだろうって、また前世の自分が死ぬときの記憶を見るんじゃないかって怯えてた。……小さい頃はそれがなんなのか分からなかったから、化け物に胸を貫かれる追体験はただただ恐怖でしかなかった」
話の内容とは裏腹に、ぽつりぽつりと落とされる声はひどく穏やかだ。
私は息を潜めて耳を傾ける。
「俺達の養子縁組が決まった日の夜もその夢を見て、うなされて目が覚めて……。また目を閉じたらあの光景を見るじゃないかと思うと眠れなくて。だから俺は、夜風に当たろうと部屋を出たんだ」
その言葉で遠い記憶が蘇る。
夜中、トイレへ行った帰り。廊下の窓際で静かに涙を流す陣を見つけた。
あんなふうに泣く彼を見るのはあれが初めてだった。
驚いて「どうしたの?」と聞くと、陣は乱暴に目元をこすりながら「目にゴミが入っただけだ」と下手な嘘をついて笑った。
私はそんな彼を励まそうとして——して……どうしたんだっけ。
ああそうだ、たしか——。
「お前は何も聞かずに、俺を抱きしめてくれたよな」
陣の声が、私の記憶と重なる。
「背中を優しく叩いて……小さい子をあやすみたいに」
微睡みに溶けるように彼は首を傾ける。その表情は大切な宝物を愛おしむように甘かった。
「これ自体はきっかけに過ぎないけど。でもきっと俺は、このときからお前に特別な想いを抱いてたんだ」
体温がさらに高くなったような気がした。心臓が早鐘を打ち、鼓動が耳の奥まで響いている。
そんな私を見つめたまま、陣はふっと笑う。
「――なあ。今度は俺から一つ聞いてもいいか?」
動揺を悟られぬように、私は目だけで「なに?」と問い返した。
「俺が龍棲宮に来たこと……迷惑だったか?」
「——っ、そんなことないっ」
彼の曇らせた表情から出た言葉に瞬時に答える。
「会いたかった……ずっと——!」
震える手が、しわになることも厭わず袴を掴む。
突然ここへ来たときは驚いたし、戸惑いもした。
それでも嬉しかった。
本当に、本当に嬉しかった。
もう二度と会えないと思っていたから。
陣の喉から小さく音が鳴る。そして膝の上に置かれた私の手を、壊れ物に触れるようにそっと包み込んだ。
「俺の気持ちを知った上でも……会いたいと思ってくれたのか?」
その問いに、顔がまた一段と熱くなる。
目を逸らしたい、今すぐここから逃げ出したい。なのに、陣の真っ直ぐな眼差しがそれを許してくれない。
「それは……その……」
駄目だ、頭が働かない。
熱のせいで思考がまとまらず、視界がふわりと揺れた。
ぐらりと傾く身体を、陣は咄嗟に肩へ手を添えて支える。
「悪い。無理させすぎたな」
申し訳なさそうに笑うと、ゆっくり私をベッドへ横たえ、布団を掛け直してくれた。
「返事は今じゃなくていい、ゆっくり考えてくれ。どんな答えでも……俺は受け止める」
どこまでも優しい声で言った後に小さく微笑むと、陣は静かに部屋を出て行った。
一人になった私は布団をぎゅっと握り締め、固く目を閉じる。
胸の鼓動がまだうるさい。
身体を満たすこの熱は、もう花の毒だけじゃない。
もっと甘くて、どうしようもなく切ない熱が、心の中で芽吹き始めていた。
私の部屋だ。
「辰巳ちゃん!」
すぐそばから聞こえた声に顔を向けると、ベッド脇にいる真里ちゃんが安堵したように笑った。
「良かった、目が覚めた……! 気分はどう?」
「……真里、ちゃん」
答えようとするけれど、喉が熱い。
息を吸うだけでも身体が火照り、浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「君が貰った花束の中にな」
少し離れた場所から男の人の声が聞こえた。ゆっくり視線を向けると、出入口の襖にもたれ掛かる三原隊長の姿があった。
「妖怪が生成する花が一本だけ混じってたんだ」
「妖怪の……花?」
「そう。その花に触れると高熱が出る。それだけならまだいいんだが、厄介なことに自白剤みたいな作用まであってな。どういう経緯で混入したのか、いま調査中だ」
どこかで聞いたことのある話だが、ぼんやりした頭ではよく思い出せない。でも説明の内容はなんとなく理解した。
何故だろう、具合が悪くなった原因は分かったのに不安は消えてくれない。
「……陣は?」
「え?」
三原隊長が一瞬きょとんと目を瞬かせた。
「陣はどこ……? 陣に会いたい……」
どうして。
どうしてこんなにも会いたいと思ってしまうんだろう。
止めようとしても口から言葉が勝手に零れていく。
胸が苦しい、今すぐ彼の顔を見たい。そんな衝動ばかりが膨らんでいく。
「呼んでこようか?」
真里ちゃんの言葉に私は小さく首を横に振った。
駄目。
今会ったら、ずっと胸に秘めていた疑問をぶつけてしまいそうで。
それで彼を困らせてしまったら、それで彼に肯定されてしまったら——私はきっと立ち直れない。
真里ちゃんが困ったように三原隊長を見る。
三原隊長は彼女の視線に応えるように頷くと、襖を開けて部屋を出ていった。
部屋には雨音だけが残る。
私の目からも雨が溢れてきそうだ。
時間はそうかからず再び襖が開いた。
戻ってきた三原隊長の隣には、陣が立っていた。
「何かあったら呼んでね」
真里ちゃんは優しく微笑むと、手招きをする三原隊長のもとへ駆けていく。
彼女と入れ違うように陣が部屋へ足を踏み入れる。
二人が去り、部屋には私と陣だけとなった。
私は慌てて布団を頭まで引き上げた。
途端、ぽろりと涙が零れる。
一粒落ちるともう止まらなかった。ぽたぽたと枕を濡らしていく。
まるで今まで必死に押さえ込んできた不安が、一気に決壊してしまったみたいだ。
「——辰巳」
布団越しに陣の低い声が聞こえる。
ゆっくりと近付いてくる足音。やがて彼の気配がすぐそばで止まった。
「顔、見せてくれないか?」
優しく、それでいてどこか切羽詰まった声。
私は布団をぎゅっと握りしめたまま、おそるおそる頭を出した。
彼と目が合う。
陣はひどく苦しそうな顔をしていた。
私が泣いているせいなのか。それとも別の理由があるのか。
「どこか痛むのか?」
「ち、違うよ」
慌てて首を横に振って上体を起こす。
「目にゴミが入っちゃっただけ」
そんな子供みたいな嘘をつきながら、涙を隠すように目をこすった。
隣で小さなため息が聞こえる。
「見せてみろ」
陣は私の頬へ手を伸ばしてきた。
白い手袋越しの指先が、目元に触れて涙で濡れる。
右の目が真っ直ぐにこちらを見据えるけれど、果たしてそれは本当に中條辰巳を見ているのか。今の私には分からなくて。
怖くなった私は反射的に身体を引き、陣の手から離れた。
部屋に気まずい沈黙が流れる。
陣は行き場を失った手をゆっくり下ろし、自嘲するように笑った。
「……悪い、嫌だったか」
違う、嫌なんかじゃない。
むしろ久しぶりに触れられたことが嬉しくて。
だからこそ、苦しかった。
花の毒に浮かされた頭では、もう感情を押し込めておけない。
私は唇を震わせながら、ずっと胸の奥にしまっていた疑問を口にした。
「——兄さんは……貴方は、どうして私に優しくするの?」
私が言ったことが余程意外だったのか、陣は怪訝そうに眉を寄せる。
「なんでって……。そりゃあお前が俺の——」
「私が貴方の前世の恋人だから?」
その一言で彼の口が--全身がぴたりと止まった。
「貴方は、私のこと龍永籠目の生まれ変わりとして見ているの? 貴方は中條陣としてじゃなく、奥村仁の生まれ変わりとして生きているの……?」
熱で痛む喉から、言葉が堰を切ったように流れてくる。
「待て、なんでそんなこと……」
状況を飲み込めていないような、ひどく困惑した声が陣の口から漏れた。右目は小刻みに揺れている。
私は目を伏せ、小さく息を吐く。
「……ずっと不安だったの。貴方は今の私に前世の私を重ねてるんじゃないかって」
とうとう全部吐き出した。
打ち明けたことで得たのは僅かに軽くなった心と、鉛のように重たい後悔。
部屋に沈黙が流れる。
陣はずっと黙ったまま。
ああ、やっぱり言わなければ良かった。怖くて顔を上げることも出来ない。
「——……いつから」
数秒経って、ようやく聞こえた彼の声は微かに震えていた。
恐る恐る顔を上げると、陣はまるで大切なものを壊してしまったかのような表情を浮かべていた。
「いつから……そんなふうに考えてたんだ?」
いつからだろう。
たぶん前世を全て思い出したあの日から。
「えっと……龍神としての力が完全に目覚めた辺りから、かな」
私が答えると、彼は思い詰めた顔で「そうか」と言って俯いた。
想定外の反応に、今度がこちらが困惑を浮かべる番となる。
やがて陣は私と目線を合わせるように膝をついた。その表情は先程までとは違い、何か覚悟したかのように固く揺るぎない。
「まず謝らせてくれ、不安にさせて悪かった」
頭を下げた後、再び真っ直ぐ私を見つめる。
「その上で言わせてくれ。俺が好きなのはお前だ、中條辰巳だ」
力強く、迷いなく。その言葉は真剣だった。
だけど、素直に頷くことは難しい。今は簡単に鵜呑みに出来るほどの精神状態ではないことは彼も分かっているはずだ。
「……参ったな、どうやって信じてもらおうか」
私の態度に陣は笑う。
困ったような、今にも泣き出しそうな、そんな弱々しい笑みに胸がチクリと痛んだ。
「まず第一に、俺がお前に惚れたのは前世を思い出す前の頃だ」
彼が静かに話し始める。
「……いや、正確には少し違うな。前世の夢自体は物心ついた頃から見てた。でも当時は、それが前世の記憶だなんて思ってもいなかった」
やっぱり、陣は私よりずっと前から前世に触れていたんだ。それでも想像していたより幼い頃からだったことに内心で驚く。
「だから、この気持ちは前世に引っ張られたものじゃない」
陣は一つ一つ言葉を噛み締めるように続けた。
「これは、この想いは——中條陣のものだ」
その瞳に嘘は見えず、きっと今話したことは全て本心なんだろう。
……でも、肝心な部分がまだぼやけたままだ。
「陣は……どうして私のこと好きになったの?」
私が問うと、陣は再び視線を落とした。
「——毎晩、眠るのが怖かった。今日はどんな夢を見るんだろうって、また前世の自分が死ぬときの記憶を見るんじゃないかって怯えてた。……小さい頃はそれがなんなのか分からなかったから、化け物に胸を貫かれる追体験はただただ恐怖でしかなかった」
話の内容とは裏腹に、ぽつりぽつりと落とされる声はひどく穏やかだ。
私は息を潜めて耳を傾ける。
「俺達の養子縁組が決まった日の夜もその夢を見て、うなされて目が覚めて……。また目を閉じたらあの光景を見るじゃないかと思うと眠れなくて。だから俺は、夜風に当たろうと部屋を出たんだ」
その言葉で遠い記憶が蘇る。
夜中、トイレへ行った帰り。廊下の窓際で静かに涙を流す陣を見つけた。
あんなふうに泣く彼を見るのはあれが初めてだった。
驚いて「どうしたの?」と聞くと、陣は乱暴に目元をこすりながら「目にゴミが入っただけだ」と下手な嘘をついて笑った。
私はそんな彼を励まそうとして——して……どうしたんだっけ。
ああそうだ、たしか——。
「お前は何も聞かずに、俺を抱きしめてくれたよな」
陣の声が、私の記憶と重なる。
「背中を優しく叩いて……小さい子をあやすみたいに」
微睡みに溶けるように彼は首を傾ける。その表情は大切な宝物を愛おしむように甘かった。
「これ自体はきっかけに過ぎないけど。でもきっと俺は、このときからお前に特別な想いを抱いてたんだ」
体温がさらに高くなったような気がした。心臓が早鐘を打ち、鼓動が耳の奥まで響いている。
そんな私を見つめたまま、陣はふっと笑う。
「――なあ。今度は俺から一つ聞いてもいいか?」
動揺を悟られぬように、私は目だけで「なに?」と問い返した。
「俺が龍棲宮に来たこと……迷惑だったか?」
「——っ、そんなことないっ」
彼の曇らせた表情から出た言葉に瞬時に答える。
「会いたかった……ずっと——!」
震える手が、しわになることも厭わず袴を掴む。
突然ここへ来たときは驚いたし、戸惑いもした。
それでも嬉しかった。
本当に、本当に嬉しかった。
もう二度と会えないと思っていたから。
陣の喉から小さく音が鳴る。そして膝の上に置かれた私の手を、壊れ物に触れるようにそっと包み込んだ。
「俺の気持ちを知った上でも……会いたいと思ってくれたのか?」
その問いに、顔がまた一段と熱くなる。
目を逸らしたい、今すぐここから逃げ出したい。なのに、陣の真っ直ぐな眼差しがそれを許してくれない。
「それは……その……」
駄目だ、頭が働かない。
熱のせいで思考がまとまらず、視界がふわりと揺れた。
ぐらりと傾く身体を、陣は咄嗟に肩へ手を添えて支える。
「悪い。無理させすぎたな」
申し訳なさそうに笑うと、ゆっくり私をベッドへ横たえ、布団を掛け直してくれた。
「返事は今じゃなくていい、ゆっくり考えてくれ。どんな答えでも……俺は受け止める」
どこまでも優しい声で言った後に小さく微笑むと、陣は静かに部屋を出て行った。
一人になった私は布団をぎゅっと握り締め、固く目を閉じる。
胸の鼓動がまだうるさい。
身体を満たすこの熱は、もう花の毒だけじゃない。
もっと甘くて、どうしようもなく切ない熱が、心の中で芽吹き始めていた。



