彼と出会って、私の人生は色付いた。
龍神としての役目は変わらない、龍棲宮に縛られたままの生活も変わらない。
自由になれたわけではない。それでも、私の心は満たされていた。
隣に仁がいてくれるから。
何気ない会話をして、同じ景色を見て笑い合う。
そんな当たり前の時間が、私には何よりかけがえのないものだった。
この先も今みたいな幸せがずっと続くのだと思っていた。
それが、あんなことになるなんて……——。
◇
昨日の青空が嘘のような天気だ。
空は厚い雲に覆われ、窓ガラスへ激しい雨粒が叩きつけられている。
今日は両親が龍棲宮に来る日。私は客間で仁と並んで座っていた。
緊張した様子の彼をからかいながら、雨音へ耳を傾けていたところ。
——……?
妙な感覚が背筋を走る。
私は反射的に天井を上げた。
——なんだ、この強い気配は……。
全身の鱗がざわりと疼く。
龍神としての本能が警鐘を鳴らしていた。
何かが来る。それもとてつもなく危険な何かが。
直後。
奥村の左腕の端末がけたたましい警報音を鳴らした。
それとほぼ同時にバキバキバキッ! と天井が凄まじい音を立てる。
木材が軋み、梁が砕け、ものの数秒で崩落した。
仁が咄嗟に私の腕を引く。
そのすぐ後、轟音と共に巨大な何かが私のいた場所へ降り立った。
畳が砕ける。木片が飛び散る。
現れたのは巨大な節足だった。
黒光りする外殻、人間など容易く押し潰せる太さ。先程から感じていた嫌な気配の正体だ。
仁が即座に動く。
ホルスターから警棒を引き抜くと刀に変形させ、一切の躊躇なく節足へ斬りつけた。
「キィィィィィィィッ!」
鼓膜を震わせる耳障りな悲鳴が響く。
斬り落とされた脚の残った部分が天井の奥へ引っ込んでいった。
天井に出来た穴から雨粒が侵入し畳を濡らしていく。
見上げると、穴の奥にもう一つ穴があった。
雨空に空いた真っ黒い穴。そこから八つの目がこちらを覗き込んでいる。
巨大な蜘蛛型の妖怪だ。
龍棲宮は龍神の力が最も強く及ぶ場所、妖怪発生の抑制効果も最大。
ここに現れたということは並の妖怪ではない。
「早く籠目様を安全な場所へ!」
仁が廊下の隊員達へ叫び、隊員達も即座に動き出す。
だが彼らが私に近付くよりも先に、大蜘蛛が口から大量の糸を吐き出した。
白い奔流となったそれが客間へ降り注ぐ。
糸は床へ触れ、瓦礫へ触れ、そして私に触れて瞬く間に凍り付かせた。
逃げる暇もなく、足元から這い上がり全身を覆う氷に動きを封じられる。
身体にまとわりつく冷気は冷たいを通り越して針を刺すような痛みだった。
「籠目様!!」
視界の端で、仁と隊員達が警棒で氷を破壊しようとしているのが見えた。
——まずい、このままでは……。
全員やられてしまう。
私は冷たい痛みに耐えながら、消滅の力を使おうと歯を食いしばった。
身体の内側に意識を向け、溜めた力を解き放とうとしたそのとき。
「退魔能力を使うな」
背後で地を這うような低い声がしたかと思えば、ドッと胸に今までとは違う痛みが走る。
目線だけを下に向けると、赤く濡れた刃が私の身体を貫通していた。
状況を理解するよりも先に口から血が溢れ出て、周囲の氷に滴り落ちる。
「貴様——!?」
仁が怒りとも、困惑とも、殺意ともとれる声を上げたのち、視界の端から消える。
背後では激しい金属音と誰かの呻き声、そしてバタバタと人が倒れる音が続いた。
——何が……起きて……。
意識が朦朧とするなか、すぐ近くで起きている事態に全身の震えが止まらない。
「な、何故退魔能力が使えない——!?」
地獄めいた雑音に混じった隊員の言葉でようやく気付いた。
消滅の力が発動出来なくなっている。何かに堰き止められているように外に出せない。
不意に一人の男が眼前に現れる。
白い制服に付着した血は、その全てが他人のものだった。
「お前……何者だ」
にい、と口を歪めた男の姿が変わっていく。
脚は鋭い鉤爪を持つ鳥の足へ。皮膚は黒く染まり、口元は黒い嘴へ変形していく。
白い制服は黒を基調とした装束——山伏めいた服装に変わった。
そして背には大きな漆黒の翼。
目の前の化け物に、私は顔を引きつらずにはいられなかった。
「驚いた……気配まで消して人に化けていたとは……」
化け物は獲物を追い詰めた捕食者のような余裕を浮かべて私を見つめている。
「鴉天狗、嘴霊。貴様の命、今ここで頂戴する」
嘴から耳障りな低声を響かせると、手にしていた刀を頭上に構えた。
奴が刀を振り下ろすよりも前に。
バンッ! と銃声が響いた。
鴉天狗が弾丸をよけたそのすぐ後、発砲した人物が視界に現れる。
仁だ。
彼もひどい有様だった。戦闘中に吹き飛んだのか眼鏡はなくなっており、制服はあちこち破れ、そこから血が滲んでいる。
そんな状態で彼は化け物に刃を向けて接近した。
「止まれ!」
化け物が叫んだ途端、仁の身体がぴたりと止まる。
それが本人の意思でないのは言わずもがな。まるで見えない糸で全身を縛られているようだった。
彼は苦々しい表情を浮かべ、化け物を睨みつける。
「この力——言霊か」
喉を鳴らし、黒翼を広げて鴉天狗が得意げに笑う。
「ああ。素晴らしい能力だろう? 俺の命令には何人たりとも逆らうことは——」
だがその言葉は最後まで続かなかった。
仁の身体が動いたからだ。
ゆっくりと少しずつ。拘束を力任せに引きちぎるかのように。
化け物の顔から余裕が消え、慌てて後退する。
だが遅い。
銀閃が走り、奴の喉から鮮血が噴き出た。
「が——っ!?」
潰れた蛙のような声を上げてうずくまる化け物に仁がさらに追撃をかけるも、今度は防がれる。
そうして二度三度攻防を繰り広げた末に、鴉天狗は空へ飛び立った。
「待て!」
逃がすまいと仁が穴の真下へ立ったそのとき。
ぐしゃり、と嫌な音が響いた。
何が起きたのか理解するよりも先に、赤い飛沫が視界を染める。
大蜘蛛の脚、それが仁の胸を貫いていたのだ。
白い制服が瞬く間に赤く染まる。
彼の身体がゆっくり崩れ落ちていく。
大きく揺れていた目が次第に動かなくなってゆく。
「ぁ……」
私の口からはか細い声しか出なかった。
目の前の光景が受け入れられなくて。
唇が震える。
私の中で何かが壊れる音がした。
同時に、今まで堰き止められていた力が爆発する。
辺りは青白い光に包まれて、彼を貫いていた大蜘蛛の脚は崩れかけながら上空の穴へ逃げていった。
光が収まり、二つの邪悪な気配は完全に消え、雨音だけが私の耳を刺激する。
氷が溶ける。拘束が解けた私は重たい身体を引きずりながら仁のもとへ駆け寄った。
「仁!」
浅い呼吸を繰り返しながら、彼が薄く目を開ける。
「籠目様……。申し訳……貴女をお護り出来ず……」
「いい、もう喋るな! いま人を——」
今ならまだ彼を助けられるかもしれない。彼の胸に空いた致命傷に目を逸らしながら立ち上がろうとするが、身体に力が入らずその場で膝をついてしまう。
「どうしよう……私、どうすれば……っ」
視界が滲み、ぽたりと彼の頬に涙を落とす。
自分の不甲斐なさにただ泣くことしか出来ない。
仁はそんな私を安心させるように微笑んだ。
震える手がそっと頬へ伸びてくる。
「——もし生まれ変われたら……今度こそ……最期まで、貴女のおそばに……」
その言葉を最後に。
彼の腕から力が抜け、だらりと床へ落ちた。
「仁——? 仁……!」
何度も何度も名前を呼んだ。だがもう言葉は返ってこない。
私は冷たくなった彼の身体に縋り付いて泣き続けた。
雨音が響くなか、己の意識が途切れるまで。
龍神としての役目は変わらない、龍棲宮に縛られたままの生活も変わらない。
自由になれたわけではない。それでも、私の心は満たされていた。
隣に仁がいてくれるから。
何気ない会話をして、同じ景色を見て笑い合う。
そんな当たり前の時間が、私には何よりかけがえのないものだった。
この先も今みたいな幸せがずっと続くのだと思っていた。
それが、あんなことになるなんて……——。
◇
昨日の青空が嘘のような天気だ。
空は厚い雲に覆われ、窓ガラスへ激しい雨粒が叩きつけられている。
今日は両親が龍棲宮に来る日。私は客間で仁と並んで座っていた。
緊張した様子の彼をからかいながら、雨音へ耳を傾けていたところ。
——……?
妙な感覚が背筋を走る。
私は反射的に天井を上げた。
——なんだ、この強い気配は……。
全身の鱗がざわりと疼く。
龍神としての本能が警鐘を鳴らしていた。
何かが来る。それもとてつもなく危険な何かが。
直後。
奥村の左腕の端末がけたたましい警報音を鳴らした。
それとほぼ同時にバキバキバキッ! と天井が凄まじい音を立てる。
木材が軋み、梁が砕け、ものの数秒で崩落した。
仁が咄嗟に私の腕を引く。
そのすぐ後、轟音と共に巨大な何かが私のいた場所へ降り立った。
畳が砕ける。木片が飛び散る。
現れたのは巨大な節足だった。
黒光りする外殻、人間など容易く押し潰せる太さ。先程から感じていた嫌な気配の正体だ。
仁が即座に動く。
ホルスターから警棒を引き抜くと刀に変形させ、一切の躊躇なく節足へ斬りつけた。
「キィィィィィィィッ!」
鼓膜を震わせる耳障りな悲鳴が響く。
斬り落とされた脚の残った部分が天井の奥へ引っ込んでいった。
天井に出来た穴から雨粒が侵入し畳を濡らしていく。
見上げると、穴の奥にもう一つ穴があった。
雨空に空いた真っ黒い穴。そこから八つの目がこちらを覗き込んでいる。
巨大な蜘蛛型の妖怪だ。
龍棲宮は龍神の力が最も強く及ぶ場所、妖怪発生の抑制効果も最大。
ここに現れたということは並の妖怪ではない。
「早く籠目様を安全な場所へ!」
仁が廊下の隊員達へ叫び、隊員達も即座に動き出す。
だが彼らが私に近付くよりも先に、大蜘蛛が口から大量の糸を吐き出した。
白い奔流となったそれが客間へ降り注ぐ。
糸は床へ触れ、瓦礫へ触れ、そして私に触れて瞬く間に凍り付かせた。
逃げる暇もなく、足元から這い上がり全身を覆う氷に動きを封じられる。
身体にまとわりつく冷気は冷たいを通り越して針を刺すような痛みだった。
「籠目様!!」
視界の端で、仁と隊員達が警棒で氷を破壊しようとしているのが見えた。
——まずい、このままでは……。
全員やられてしまう。
私は冷たい痛みに耐えながら、消滅の力を使おうと歯を食いしばった。
身体の内側に意識を向け、溜めた力を解き放とうとしたそのとき。
「退魔能力を使うな」
背後で地を這うような低い声がしたかと思えば、ドッと胸に今までとは違う痛みが走る。
目線だけを下に向けると、赤く濡れた刃が私の身体を貫通していた。
状況を理解するよりも先に口から血が溢れ出て、周囲の氷に滴り落ちる。
「貴様——!?」
仁が怒りとも、困惑とも、殺意ともとれる声を上げたのち、視界の端から消える。
背後では激しい金属音と誰かの呻き声、そしてバタバタと人が倒れる音が続いた。
——何が……起きて……。
意識が朦朧とするなか、すぐ近くで起きている事態に全身の震えが止まらない。
「な、何故退魔能力が使えない——!?」
地獄めいた雑音に混じった隊員の言葉でようやく気付いた。
消滅の力が発動出来なくなっている。何かに堰き止められているように外に出せない。
不意に一人の男が眼前に現れる。
白い制服に付着した血は、その全てが他人のものだった。
「お前……何者だ」
にい、と口を歪めた男の姿が変わっていく。
脚は鋭い鉤爪を持つ鳥の足へ。皮膚は黒く染まり、口元は黒い嘴へ変形していく。
白い制服は黒を基調とした装束——山伏めいた服装に変わった。
そして背には大きな漆黒の翼。
目の前の化け物に、私は顔を引きつらずにはいられなかった。
「驚いた……気配まで消して人に化けていたとは……」
化け物は獲物を追い詰めた捕食者のような余裕を浮かべて私を見つめている。
「鴉天狗、嘴霊。貴様の命、今ここで頂戴する」
嘴から耳障りな低声を響かせると、手にしていた刀を頭上に構えた。
奴が刀を振り下ろすよりも前に。
バンッ! と銃声が響いた。
鴉天狗が弾丸をよけたそのすぐ後、発砲した人物が視界に現れる。
仁だ。
彼もひどい有様だった。戦闘中に吹き飛んだのか眼鏡はなくなっており、制服はあちこち破れ、そこから血が滲んでいる。
そんな状態で彼は化け物に刃を向けて接近した。
「止まれ!」
化け物が叫んだ途端、仁の身体がぴたりと止まる。
それが本人の意思でないのは言わずもがな。まるで見えない糸で全身を縛られているようだった。
彼は苦々しい表情を浮かべ、化け物を睨みつける。
「この力——言霊か」
喉を鳴らし、黒翼を広げて鴉天狗が得意げに笑う。
「ああ。素晴らしい能力だろう? 俺の命令には何人たりとも逆らうことは——」
だがその言葉は最後まで続かなかった。
仁の身体が動いたからだ。
ゆっくりと少しずつ。拘束を力任せに引きちぎるかのように。
化け物の顔から余裕が消え、慌てて後退する。
だが遅い。
銀閃が走り、奴の喉から鮮血が噴き出た。
「が——っ!?」
潰れた蛙のような声を上げてうずくまる化け物に仁がさらに追撃をかけるも、今度は防がれる。
そうして二度三度攻防を繰り広げた末に、鴉天狗は空へ飛び立った。
「待て!」
逃がすまいと仁が穴の真下へ立ったそのとき。
ぐしゃり、と嫌な音が響いた。
何が起きたのか理解するよりも先に、赤い飛沫が視界を染める。
大蜘蛛の脚、それが仁の胸を貫いていたのだ。
白い制服が瞬く間に赤く染まる。
彼の身体がゆっくり崩れ落ちていく。
大きく揺れていた目が次第に動かなくなってゆく。
「ぁ……」
私の口からはか細い声しか出なかった。
目の前の光景が受け入れられなくて。
唇が震える。
私の中で何かが壊れる音がした。
同時に、今まで堰き止められていた力が爆発する。
辺りは青白い光に包まれて、彼を貫いていた大蜘蛛の脚は崩れかけながら上空の穴へ逃げていった。
光が収まり、二つの邪悪な気配は完全に消え、雨音だけが私の耳を刺激する。
氷が溶ける。拘束が解けた私は重たい身体を引きずりながら仁のもとへ駆け寄った。
「仁!」
浅い呼吸を繰り返しながら、彼が薄く目を開ける。
「籠目様……。申し訳……貴女をお護り出来ず……」
「いい、もう喋るな! いま人を——」
今ならまだ彼を助けられるかもしれない。彼の胸に空いた致命傷に目を逸らしながら立ち上がろうとするが、身体に力が入らずその場で膝をついてしまう。
「どうしよう……私、どうすれば……っ」
視界が滲み、ぽたりと彼の頬に涙を落とす。
自分の不甲斐なさにただ泣くことしか出来ない。
仁はそんな私を安心させるように微笑んだ。
震える手がそっと頬へ伸びてくる。
「——もし生まれ変われたら……今度こそ……最期まで、貴女のおそばに……」
その言葉を最後に。
彼の腕から力が抜け、だらりと床へ落ちた。
「仁——? 仁……!」
何度も何度も名前を呼んだ。だがもう言葉は返ってこない。
私は冷たくなった彼の身体に縋り付いて泣き続けた。
雨音が響くなか、己の意識が途切れるまで。



