龍棲宮の主

 八月の終わり。窓の外では蝉の声が少しずつ減り始めていた。
 夏の暑さはまだ居座っているものの、朝夕の風には微かな涼しさが混じり始めている。季節がゆっくりと秋へ向かい始める頃だった。

 そんな時期の朝。目を覚ました瞬間、違和感を覚えた。
 頭が軽い。
 上体を起こし寝ぼけ眼のまま頭部に触れて、そこで納得した。
「ああ、もうそんな時期か」

 枕元を見れば二本の角が落ちている。
 青白く透き通るような色合いの、鉱石のような輝きを放つそれは、紛れもなく私の角だ。
 私の角は鹿のものと同じように毎年自然に抜け落ちる。そしてしばらくすると新しいものが生えてくるのだ。

 角を拾い上げる。朝日に照らされたそれは宝石のように煌めいていた。
「そうだ、これを——」
 ふと一つ思いついて、にいと口元を緩めた。

 ◇

 身支度や用事を片付けているうちに午後になった。
 アトリエの窓から差し込む日差しが床を強く照らしている。
 私は机で砕いて粉末状にした角を顔料へ加工し、それを筆に含ませた。
 そしてキャンバスの中の彼の頬へそっと色を重ねる。

「よし、いい感じだ」
 満足げに頷く。
 目の前の絵は龍神祭の夜を描いたものだ。
 提灯の灯り、花火に照らされた夜空、そして浴衣姿の奥村。
 付け角とシールに似たような色が中々出せず長らく放置していたが、これでようやく完成出来そうだ。
 ほんの僅かな青白い光沢が頬へ宿り、絵全体に幻想的な雰囲気を与えている。

「お前もそう思うだろ?」
 私は少しだけ視線を上へ向けた。先程から私の頭へ鼻先を擦り付けている男に向かって。
「ええ、とても綺麗です。祭りの空気まで伝わってくるようですね」
 仁は私の背後からキャンバスを覗き込み、少しだけ目を細めた。

「私のことも、こんなに素敵に描いてくださって……。ですが——」
 柔らかかった声音が途中から僅かに固くなる。
 髪に触れていた手が、さらりと撫でるように耳まで下りてくる。

「ん……こら」
 ささやかな刺激に思わず甘い声が漏れて、私は彼の手から逃れるように振り返った。
 仁は悪びれた様子もなく微笑んでいる。
「絵の中の私にばかり構われると妬いてしてしまいます」
「——まったく、自分に嫉妬するなんてな」
 私は可笑しげに笑いながら手にしていた筆をパレットに置き、彼の鼻をつまんだ。

「もう少しだから良い子で待ってろ」
 そうしてキャンバスに向き直り作業を再開すると、彼はまた大人しく私の頭部に顔を近付けた。
 新しく生え始めた角の根元へ鼻先を寄せ、満足そうに吐息を漏らす。

「——よし、出来た」
 最後に角を描き、私は満足げに頷いた。
 これでようやく完成だ。
 キャンバスの中では、浴衣姿の仁が花火の光を浴びながら穏やかに微笑んでいる。

 私は筆とパレットを置き、軽く伸びをしたあと顔を上げる。
 眼鏡越しの瞳と目が合った。
 その視線はどこか主人の許可を待つ犬のようで、とても健気で自然と笑みが零れる。

 私は椅子ごと彼の方へ身体を向け、両手を広げた。
 すると仁は膝をつき、そっと私の膝にキスを落とす。そしてそのまま脚の上に顔を預けた。

 私達は恋人になって一ヶ月ほど経つ。
 手を繋ぐことも増えたし、ある程度の触れ合いにも慣れてきた。
 しかし彼がここまで甘えてくるのは珍しい。

「どうした? 今日は随分と甘えただな」
 黒髪を撫でながら尋ねると、仁はゆっくりと視線を上げた。その表情には微かな不安が滲んでいる。
「——緊張をほぐそうとしているのかもしれません」
「緊張?」
「はい。いよいよ明日なので」

 そこでようやく理解した。
 明日は私の両親が龍棲宮へ来る日だ。
 そこで私達は交際を報告し、正式に婚約を認めてもらうよう頼む予定だ。
 彼からしてみれば、不安になることも致し方ないだろう。

「そう心配するな」
 私は撫でていた手を彼の顎へ移す。
 指先でくすぐるように触れると、仁は少しだけ目を細めた。
「父も母も、きっとお前を受け入れてくれる」
「そうでしょうか」
「当然だ、何せ私が選んだ相手だからな」
 胸を張った私の言葉に、仁は僅かばかり照れるように笑った。

 彼の表情に柔らかさが戻ったところで、私はふと思い出したように口を開く。
「そうだ。少し早いが、伴侶の刻印をどこへ入れるか決めようか」
「伴侶の刻印?」
 首を傾げる仁に、私は「ああ」と頷く。
「龍永の龍神は伴侶となる人間へ加護を与える。その証として刻印を施すんだ」
「なるほど。——では」

 少し考え込んだ後、仁は私の手を取り自分の頬へ添えた。
「ここに。私が貴女のものだと、誰が見ても分かる場所へ」
 穏やかな声で、頬を手に擦り寄せながら。
 その仕草に胸がじんわりと熱くなる。

「強欲だな」
「……ふふ、そうですね」
 仁は苦笑すると、私の手にそっと口付けた。
 一度だけでなく二度三度。小さなリップ音が室内に響く。
 その音を聞くごとに、胸の中の熱が段々と広がっていった。

「じ——」
 彼の名を呼ぼうとした途中、腰抱き寄せられ尻尾がビクリと反応する。
 距離が近い。彼の体温がいつもより高いと感じるほどに。
 よく見ると、いつの間にやら仁の顔と耳は真っ赤に染まり、相貌も艶めかしい熱を帯びていた。
 肩はゆっくりと呼吸に合わせて上下している。まるで底から湧き上がる欲を鎮めるように。

「籠目様……」
 彼の顔が近付く。
 このままではキスだけでは済まないと本能的に察した私は、咄嗟に彼の胸板を押した。
 実際にはまったくびくともしなかったけれど、私の意図を悟ったのか仁は止まってくれた。

「——すみません、がっつき過ぎましたね」
 私から少し離れて、申し訳なさそうに彼は笑う。
 その姿に心臓がチクリと痛む。
「べ、別に嫌だったわけじゃ……。ただ、その……」
 心の準備が出来ていないだけ。それだけの言葉が中々口に出来ない。

「大丈夫です、分かっておりますよ」
 そんなまごついている私の両手を、仁は包み込むように握ってきた。
「焦る必要はありません、時間はたっぷりありますから」
 優しい声で囁きながら額を寄せてくる。
 額から伝わる温もりが心地良い。
 不思議と先程までの動揺と羞恥が和らいでいく。

 私はゆっくりと目を閉じた。
 この温もりを、より深く感じられるように。