龍棲宮の主

「奥村!」
 彼を追跡して、書庫の前までやってきた。
 息を切らしながら扉を開く。
 中は静かだった。いるのは私と奥村だけ。
 昼下がりの陽光が窓から差し込み、本棚の影を長く床へ落としている。

 奥村はこちらに背を向けた状態で窓際に立っていた。
 陽の光が輪郭を白く縁取っている。逆光を受けた姿は触れれば崩れてしまいそうな脆さがあって、私は無意識に不安に駆られた。

「奥村……どうしたんだ一体」
 駆け寄って隣に並ぶ。
 彼の呼吸は先程よりも落ち着いていた。だが、どこか張り詰めた空気は残っている。

 奥村は私の声に反応せず、ただ窓の外を見つめていた。
 何かあるのかと私も視線を向ける。
 高い塀の上に一羽のカラスが留まっていた。黒い瞳がこちらを見ている。

「昔——」
 カラスに気を取られていると、唐突に奥村が口を開いた。
「昔、実家で猫を飼っていたんですよ。首輪を付けて、外と家を自由に行き来できるようにしていました」

 そう言う彼の目は、もうカラスを見ていなかった。
 ここではない、遠い昔の記憶に思いを馳せている。
「ですがある日、外で猫がカラスに襲われているところを見かけて」
 声が少しだけ低くなる。
「怒りに任せて、私は近くにあった石でカラスを——」

 彼が言い終える前に。
 バササと音がして、私は再び外を見た。
 塀にいたカラスが飛び立っていく。まるで身の危険を察知したかのように。

「……カラスが動かなくなった後、猫は私が近付くなり逃げていきました。探しても見つからず」
 短い沈黙の後、彼はゆっくりとこちらを向いた。

「どうすれば良かったのでしょうね、私は」
 その瞳は暗く、薄く笑んだ口元には自嘲が滲んでいる。

 何か言うべきだと思うのに声が出なかった。
 何と言えば彼を救えるのか分からない。
 私が答えに迷っていると、奥村の目が寂しげに細められた。
「いつもこうだ。普段どんなに理性を纏っても、大切なものを傷つけられた途端、抑えがきかなくなる」

 その言葉で理解した。
 彼が感情を表に出さない理由。
 誰かを大切に思う気持ちが、深過ぎる愛情が、暴走しないようにするための行為だったのだ。
「奥村、私は逃げたりはしないぞ?」

 私の言葉に真っ直ぐ見据えた双眸は僅かに揺めき、口からは皮肉めいた乾いた笑いが漏れる。
「……そうですね。わざわざ追いかけてきて、あの猫の方がよっぽど利口だ」
 視線を伏せ、吐き捨てるように言ったかと思えば彼はそのまま踵を返そうとした。
 私は反射的に腕を掴む。

「龍神様」
 咎めるような声音とともに奥村が振り返る。
 それでも私は離さない。
 逃がすものか。
「愚かでもいい」
 掴む手に力を込める。

「私はお前と一緒にいたい」
 書庫が静まり返る。
 奥村は何も言わす、ただ私を見ていた。
 その表情は驚いているようにも、怒っているようにも、戸惑っているようにも見えた。

 やがて長い沈黙の後、奥村は掴んでいない方の手を伸ばしてきた。
 しかし私の頬に触れる寸前、躊躇うようにぴたりと止める。
 なので私は自分から彼の手に頬を擦り付けた。

 あまりにも想定外だったのか、ビクリと大きな手が跳ねる。
 けれど引っ込めることはせず、私の頬——その上にある鱗を撫でてきた。
 丁寧に、愛おしむように。
 目を閉じたくなるほどに心地良い。

「……本当によろしいのですか、私で」
「お前がいい」
「私は重い男ですよ?」
「そんなの分かってる」
「龍神様にはもっと相応しい方が——」
「奥村」
 私は彼の言葉を遮り、そして真っ直ぐに告げた。

「私はお前と家族になりたい」

 大きく見開かれた眼鏡の奥の瞳。
 数秒後、彼は少し困ったように、けれどもとても嬉しそうに笑った。
「本当に貴女は……ずるい人だ」
 それは今まで見たどの笑顔よりも弱々しく、そして優しかった。

 頬に触れていた手が後頭部へ移る。
 そっと髪を撫でるように。
 大切なものを確かめるように。

 奥村の顔が徐々に近付くにつれ、心臓の鼓動が速くなっていく。
 全身が熱い。

「一生おそばにおいてください。貴女を愛しています、籠目様」
 とろけるような甘い声で囁いた後。
 そっと私に口付けた。