七月になった。
夕暮れの空が茜色に染まっている。
昼間の熱気は未だ庭石や廊下に残っているものの、日が傾いたことで風にはわずかな涼しさが混じり始めていた。
蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
こんな日は冷房の効いたアトリエで絵を描くに限る。
私はキャンバスへ筆を走らせながら、窓の外を眺めた。
「今日から龍神祭が始まるらしいな」
「ええ。昼間から露店が出ており、今も賑わっていることでしょう」
窓際に立つ奥村が答える。
龍神祭。
龍棲市最大の祭りであり、龍神への感謝を示す夏の祭典だ。
……その当の本人は行ったことがないけれど。だが写真や映像でなら何度も見ている。
今描いている絵はそれらの資料を参考にした。
淡く光る提灯。
夜空を彩る花火。
たくさんの露店。
角の飾りと鱗のシールをつけて行き交う人々。
「お前も仕事が終わったら行くのか?」
「いえ。真っ直ぐ帰宅する予定です」
奥村は首を横に振り、いつもの調子で答える。
私は筆を動かしながら肩を竦めた。
「なんだ。行くんならこっそり連れていってもらおうと思ったんだがな」
「……護衛隊長である人間が首を縦に振るとお思いですか?」
「冗談だ」
こちらの返答に対し、奥村は小さく息を吐いた。
真偽を判別しかねているらしい。
「祭りの日は多くの者が龍神に扮するから、紛れ込んでも案外バレないんじゃないかとは考えていない」
そもそも屋敷の周りは護衛部隊が巡回しているので、容易に抜け出すことは不可能だろう。
「——左様ですか」
彼の声音にはどこか憂いのようなものが含まれていた。
同情か、哀れみか。ただの気のせいかもしれない。
自分の立場は理解している。龍神である以上、勝手な行動は許されない。
それでも、一度くらいは外の世界を歩いてみたい。
夢想したものでなく、自分の足で赴き、自分の目で見た外の景色を描いてみたい。
そんな願いを抱くことくらいは許されるだろう。
ふと奥村が腕の端末へ視線を落とした。
「退勤時間になりましたので、本日はここで失礼させていただきます」
「ああ。今日もご苦労だったな」
一礼し、出入り口へ向かう彼の背中を見送って、私は再び筆を動かした。
「——ああ、そうだ」
ドアへ手をかけたところで、奥村が何かを思い出したように振り返る。
「先程、書庫の窓際の瓦が落ちたと連絡がありました」
「瓦?」
「はい。現在修繕の手配をしています」
事務的な口調で彼は続ける。
「龍神様があの辺りへ行かれることはないと思いますが、危険ですので修繕が終わるまでは近付かないようお願いいたします。隊員達にもそう通達してありますので」
それだけ言うと、彼は再び頭を下げた。
「それでは、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
アトリエに静寂が戻り、私はしばらく絵を描き続けていた。
だが。
「……書庫の窓際」
ふとある発想が脳裏を過り、筆が止まる。
書庫は龍棲宮の外壁に面している。
そして修繕が終わるまで窓と外壁の間は人払いがされている。
今なら——あそこからなら、抜け出せるかもしれない。
◇
夜。
私は周囲の目を掻い潜りながら書庫の前までやってきた。
心臓が少しうるさい。こんなことをするのは初めてだから、緊張しているのだろうか。
胸を押さえながら扉をそっと開ける。
中は薄暗かった。
月明かりが窓から差し込み、無数の本棚と、棚と棚の間にある机の輪郭を浮かび上がらせている。
昼間はただ知識の匂いが満ちる場所だが、夜になるとまるで別世界だ。
静かで不気味。少しだけ進むのを躊躇ってしまう。
それでも私は己を奮い立せた。ここまで来て引き返せるものか。
目的地の窓はすぐそこ。
息を潜めながら奥へ進む。
しかしその途中、不意にガチャリとドアノブが回る音が鼓膜を震わせた。
私は反射的に近くの机の下へ潜り込む。
入ってきたのは一人の隊員、手には鍵束が握られている。施錠をしにきたのだろう。
隊員は周囲を見回しながら書庫の中を歩き始めた。
足音が静かな室内に響く。
その音が近付くたび、私の鼓動も速くなっていく。
——大丈夫だ、下を覗かれない限り見つかることはない。
だから大丈夫。そう自分に何度も言い聞かせた。
机の下で身体を縮こませながら、長い尻尾が外へ出ないよう両手で掴んで。
ところが。
少し身じろいだ拍子に角がゴツンと机の裏へ当たった。
小さな音だったが、静寂の中では十分すぎるほど大きい。
「そこに誰かいるのか?」
隊員が声を上げこちらへ向かってくる。
一歩、また一歩。
やがて視界に隊員の脚が現れた。
——まずい。
ここまでか。
これはもう駄目だと諦めかけていたそのとき。
「私だ」
聞き慣れた声が後方から響いた。
思わず目を見開く。
ここからでは顔を確認することは出来ないが、そんなことせずとも誰なのかは確信を持って言える。
だが何故彼がここにいるのかが分からない。
——奥村……? 帰ったのではなかったのか。
頭の中に疑問符が浮かぶ。
「こ、これは隊長」
隊員も驚いている様子だった。
視界の中にもう一人分の脚が登場する。
「今日の施錠当番はお前か」
「はい——あっ」
隊員が落とした鍵がカチャンと音を立てた。
再び鼓動が加速する。
今屈まれたら確実に見つかる。
私が息を呑むなか、隊員が鍵へ手を伸ばそうとするも——それより早く、奥村が鍵に触れた。
身を屈めた彼の顔、眼鏡越しの視線が一瞬だけこちらを向く。
心臓が凍りつく。
だが私の懸念とは裏腹に、奥村は何事もなかったかのように立ち上がった。
「調べたいことがあってな、もう少しここを利用したい。鍵は私がかけておく」
「わ、分かりました」
彼の言葉に、隊員は疑う様子もなく来た道を戻っていく。
足音が遠ざかり、扉の開閉音の後、静寂が訪れる。
動けずにいる私に対し、奥村は片膝をついて覗き込んできた。
「こんな時間にかくれんぼですか?」
声音はどこかからかうようで、表情も普段より僅かに柔らかい。
「……何故匿った?」
私は差し出された手を取り、机の下から這い出ながら問いかける。
「事を荒立てたくなかっただけです。それに——」
いつもの事務的な口調を一旦区切り、私から手を離すと、奥村は窓へ向かい躊躇いなく開けた。
ひゅう、と夜風が吹き込む。夏の匂いを含んだ風だった。
彼が窓枠へ腰掛ける。
月明かりが白い制服を照らしている。
彼はしばらく目の前の高い塀を見つめていたが、やがてこちらへ視線を向けた。
「奥村仁は、出来るだけ貴女の望みを叶えて差し上げたいと思っているので」
その言葉に私は目を瞬かせる。
奥村は窓の外へ降り立つと、眼鏡の奥の瞳を優しく細めてこちらへ両手を差し伸べてきた。
「お前、そんなことをして……」
言葉が続かない。
こんなこと、本来なら許されることではない。事が露見すれば彼はただでは済まされないだろう。
しかし奥村は私の不安を払拭するように、穏やかに首を横に振った。
「心配には及びません。今日ここで私と貴女が会ったことは誰も知らない」
夜風が彼の髪を揺らす。
「私はプライベートで祭りへ来た際に、偶然屋敷から抜け出した貴女と出くわし、保護した」
まるで既に決定事項であるかのように淡々と語る。声音に不思議なほどの安心感をもたらしながら。
「監督不行届で多少上層部から小言を言われるかもしれませんが、それ以上のことは起こりませんよ」
私は呆気に取られていた。
誰よりも職務に忠実で、真面目の塊のような男だと思っていた彼が。
今、自ら規則を犯そうとしている。
しかも私のために。
「——驚いた。まさかお前がここまで悪知恵の働く奴だったとはな」
挑発的な笑みを浮かべる私に対し、奥村はフッと小さく声を漏らす。
「そうですね。私は皆が思うほど真面目な男ではありません」
私は窓辺へ歩み寄り、彼の大きな手を取った。
「失礼します」と断りを入れてから、彼は私を抱え上げる。
夜風が頬を撫でる。
後はこの塀を越えるだけ。
胸が自然と高鳴る。
笛や太鼓の音色が、風に運ばれて微かに聴こえてきた。
夕暮れの空が茜色に染まっている。
昼間の熱気は未だ庭石や廊下に残っているものの、日が傾いたことで風にはわずかな涼しさが混じり始めていた。
蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
こんな日は冷房の効いたアトリエで絵を描くに限る。
私はキャンバスへ筆を走らせながら、窓の外を眺めた。
「今日から龍神祭が始まるらしいな」
「ええ。昼間から露店が出ており、今も賑わっていることでしょう」
窓際に立つ奥村が答える。
龍神祭。
龍棲市最大の祭りであり、龍神への感謝を示す夏の祭典だ。
……その当の本人は行ったことがないけれど。だが写真や映像でなら何度も見ている。
今描いている絵はそれらの資料を参考にした。
淡く光る提灯。
夜空を彩る花火。
たくさんの露店。
角の飾りと鱗のシールをつけて行き交う人々。
「お前も仕事が終わったら行くのか?」
「いえ。真っ直ぐ帰宅する予定です」
奥村は首を横に振り、いつもの調子で答える。
私は筆を動かしながら肩を竦めた。
「なんだ。行くんならこっそり連れていってもらおうと思ったんだがな」
「……護衛隊長である人間が首を縦に振るとお思いですか?」
「冗談だ」
こちらの返答に対し、奥村は小さく息を吐いた。
真偽を判別しかねているらしい。
「祭りの日は多くの者が龍神に扮するから、紛れ込んでも案外バレないんじゃないかとは考えていない」
そもそも屋敷の周りは護衛部隊が巡回しているので、容易に抜け出すことは不可能だろう。
「——左様ですか」
彼の声音にはどこか憂いのようなものが含まれていた。
同情か、哀れみか。ただの気のせいかもしれない。
自分の立場は理解している。龍神である以上、勝手な行動は許されない。
それでも、一度くらいは外の世界を歩いてみたい。
夢想したものでなく、自分の足で赴き、自分の目で見た外の景色を描いてみたい。
そんな願いを抱くことくらいは許されるだろう。
ふと奥村が腕の端末へ視線を落とした。
「退勤時間になりましたので、本日はここで失礼させていただきます」
「ああ。今日もご苦労だったな」
一礼し、出入り口へ向かう彼の背中を見送って、私は再び筆を動かした。
「——ああ、そうだ」
ドアへ手をかけたところで、奥村が何かを思い出したように振り返る。
「先程、書庫の窓際の瓦が落ちたと連絡がありました」
「瓦?」
「はい。現在修繕の手配をしています」
事務的な口調で彼は続ける。
「龍神様があの辺りへ行かれることはないと思いますが、危険ですので修繕が終わるまでは近付かないようお願いいたします。隊員達にもそう通達してありますので」
それだけ言うと、彼は再び頭を下げた。
「それでは、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
アトリエに静寂が戻り、私はしばらく絵を描き続けていた。
だが。
「……書庫の窓際」
ふとある発想が脳裏を過り、筆が止まる。
書庫は龍棲宮の外壁に面している。
そして修繕が終わるまで窓と外壁の間は人払いがされている。
今なら——あそこからなら、抜け出せるかもしれない。
◇
夜。
私は周囲の目を掻い潜りながら書庫の前までやってきた。
心臓が少しうるさい。こんなことをするのは初めてだから、緊張しているのだろうか。
胸を押さえながら扉をそっと開ける。
中は薄暗かった。
月明かりが窓から差し込み、無数の本棚と、棚と棚の間にある机の輪郭を浮かび上がらせている。
昼間はただ知識の匂いが満ちる場所だが、夜になるとまるで別世界だ。
静かで不気味。少しだけ進むのを躊躇ってしまう。
それでも私は己を奮い立せた。ここまで来て引き返せるものか。
目的地の窓はすぐそこ。
息を潜めながら奥へ進む。
しかしその途中、不意にガチャリとドアノブが回る音が鼓膜を震わせた。
私は反射的に近くの机の下へ潜り込む。
入ってきたのは一人の隊員、手には鍵束が握られている。施錠をしにきたのだろう。
隊員は周囲を見回しながら書庫の中を歩き始めた。
足音が静かな室内に響く。
その音が近付くたび、私の鼓動も速くなっていく。
——大丈夫だ、下を覗かれない限り見つかることはない。
だから大丈夫。そう自分に何度も言い聞かせた。
机の下で身体を縮こませながら、長い尻尾が外へ出ないよう両手で掴んで。
ところが。
少し身じろいだ拍子に角がゴツンと机の裏へ当たった。
小さな音だったが、静寂の中では十分すぎるほど大きい。
「そこに誰かいるのか?」
隊員が声を上げこちらへ向かってくる。
一歩、また一歩。
やがて視界に隊員の脚が現れた。
——まずい。
ここまでか。
これはもう駄目だと諦めかけていたそのとき。
「私だ」
聞き慣れた声が後方から響いた。
思わず目を見開く。
ここからでは顔を確認することは出来ないが、そんなことせずとも誰なのかは確信を持って言える。
だが何故彼がここにいるのかが分からない。
——奥村……? 帰ったのではなかったのか。
頭の中に疑問符が浮かぶ。
「こ、これは隊長」
隊員も驚いている様子だった。
視界の中にもう一人分の脚が登場する。
「今日の施錠当番はお前か」
「はい——あっ」
隊員が落とした鍵がカチャンと音を立てた。
再び鼓動が加速する。
今屈まれたら確実に見つかる。
私が息を呑むなか、隊員が鍵へ手を伸ばそうとするも——それより早く、奥村が鍵に触れた。
身を屈めた彼の顔、眼鏡越しの視線が一瞬だけこちらを向く。
心臓が凍りつく。
だが私の懸念とは裏腹に、奥村は何事もなかったかのように立ち上がった。
「調べたいことがあってな、もう少しここを利用したい。鍵は私がかけておく」
「わ、分かりました」
彼の言葉に、隊員は疑う様子もなく来た道を戻っていく。
足音が遠ざかり、扉の開閉音の後、静寂が訪れる。
動けずにいる私に対し、奥村は片膝をついて覗き込んできた。
「こんな時間にかくれんぼですか?」
声音はどこかからかうようで、表情も普段より僅かに柔らかい。
「……何故匿った?」
私は差し出された手を取り、机の下から這い出ながら問いかける。
「事を荒立てたくなかっただけです。それに——」
いつもの事務的な口調を一旦区切り、私から手を離すと、奥村は窓へ向かい躊躇いなく開けた。
ひゅう、と夜風が吹き込む。夏の匂いを含んだ風だった。
彼が窓枠へ腰掛ける。
月明かりが白い制服を照らしている。
彼はしばらく目の前の高い塀を見つめていたが、やがてこちらへ視線を向けた。
「奥村仁は、出来るだけ貴女の望みを叶えて差し上げたいと思っているので」
その言葉に私は目を瞬かせる。
奥村は窓の外へ降り立つと、眼鏡の奥の瞳を優しく細めてこちらへ両手を差し伸べてきた。
「お前、そんなことをして……」
言葉が続かない。
こんなこと、本来なら許されることではない。事が露見すれば彼はただでは済まされないだろう。
しかし奥村は私の不安を払拭するように、穏やかに首を横に振った。
「心配には及びません。今日ここで私と貴女が会ったことは誰も知らない」
夜風が彼の髪を揺らす。
「私はプライベートで祭りへ来た際に、偶然屋敷から抜け出した貴女と出くわし、保護した」
まるで既に決定事項であるかのように淡々と語る。声音に不思議なほどの安心感をもたらしながら。
「監督不行届で多少上層部から小言を言われるかもしれませんが、それ以上のことは起こりませんよ」
私は呆気に取られていた。
誰よりも職務に忠実で、真面目の塊のような男だと思っていた彼が。
今、自ら規則を犯そうとしている。
しかも私のために。
「——驚いた。まさかお前がここまで悪知恵の働く奴だったとはな」
挑発的な笑みを浮かべる私に対し、奥村はフッと小さく声を漏らす。
「そうですね。私は皆が思うほど真面目な男ではありません」
私は窓辺へ歩み寄り、彼の大きな手を取った。
「失礼します」と断りを入れてから、彼は私を抱え上げる。
夜風が頬を撫でる。
後はこの塀を越えるだけ。
胸が自然と高鳴る。
笛や太鼓の音色が、風に運ばれて微かに聴こえてきた。



