龍棲宮の主

 退魔師協会本部の敷地内には、一際異彩を放つ建物がある。
 ……いや、その建物の敷地内に本部があると言った方が歴史的には正しいだろう。
 高層ビル群に囲まれながらも、そこだけ時代が切り取られたような空気を纏う巨大な和風屋敷、龍棲宮(りゅうせいぐう)——。

 私と陣は車から降りた後、その屋敷へ向かって走った。
 道中、左腕の端末から春野隊長(実動部隊隊長)の指示が飛んでくる。

『各員、単独行動は禁止。必ず二人一組で動くこと。遭遇時は即座に位置共有。いいわね?』
「了解」
「了解」
 短く返答し、私達は龍棲宮の正門をくぐり抜けた。

 屋敷の中へ足を踏み入れた途端、空気が変わる。
 外とは違う、静謐で重たい気配。

(くだん)の妖怪は危険度A級。熟練の退魔師でも苦戦する相手だ。くれぐれも気を抜くなよ」
「はい」
 陣の言葉に頷きながら、私は端末へ送信された妖怪情報を確認した。

 バーチャルスクリーンには虎のような見た目の妖怪が映し出されている。
 任務欄には短くこう記されていた。

『能力:不明』
『生死問わず』

 研究対象であるが、必要なら討伐も許可されている。
 つまり、それほど危険視されているということなのだろう。

 周囲へ視線を巡らせる。
 龍棲宮の内部は、まるで別世界だった。

 磨き抜かれた黒檀の床。
 朱塗りの柱には繊細な金細工が施され、天井には龍と雲海の絵が広がっている。
 障子越しに差し込む淡い光が、静かな廊下を幻想的に照らしていた。
 まるで美術館か、あるいは神社の奥宮に迷い込んだみたいだ。

 ただその静謐な景観の中に、明らかな異物が混ざっている。
 壁や床のあちこちに刻まれた鋭い引っ掻き傷。黒く焦げついた痕跡。一部の破られた障子の向こうには、荒れた室内が見えている。
 妖怪が暴れた跡だ。
 それでもなお、この屋敷からは歴史と格式が滲み出ていた。

「初めて入ったけど、やっぱり立派なお屋敷だね」
 何気なく漏らした感嘆に、陣は前を向いたまま答える。
「——この国を守っていた、〝龍永(たつなが)の龍神様〟の住処だからな」
 何故か声音が妙に冷えていた。

 かつて、この街には龍神の血を引く一族――龍永家が存在した。
 一族の中でも特に濃く龍神の力を受け継いだ者は、始祖の生まれ変わりとして祀られた。
 それが龍永の龍神。

 龍神には、妖怪の発生そのものを抑制する力がある。
 だから国はその存在を守り、崇めてきた。
 龍棲宮は、そんな龍神様のために築かれた屋敷だ。

 だけど--今から二十九年前の二〇二六年。
 強大な妖怪の襲撃によって龍神は命を落とした。龍永一族もまた、一人残らず惨殺されたという。
 それ以来、新たな龍神は現れていない。
 結果としてこの巨大な屋敷だけが、主を失ったまま残されている。

「こんな屋敷、龍神がいない今となっちゃ不要なんだから、さっさと壊しちまえばいいのに」
「そんなの、もったいないよ」
 吐き捨てるような陣の物言いに、私は咄嗟に反論する。
「ここには歴史的価値のある物がいっぱいあるって聞くし、それに——」
 そこまで言って、私は言葉を止めた。

 ――ここは、なんだかとっても懐かしい匂いがする。

 何故かそう口にしかけた。
 ——なんで……。
 ここへ来るのは初めてのはずなのに。それなのに、妙に落ち着く。

 胸がじんわり温かくなるような、不思議な感覚。
 理由なんて分からない。だから私はそれ以上口にしなかった。
 何故、と問われても答えられないから。



 私達は端末の反応を追いながら、さらに奥へ進んでいく。
 数分後。辿り着いたのは一枚の巨大な肖像画が飾られた長い廊下だった。
 無意識に足が止まる。
 描かれていたのは一人の女性。
 白衣(びゃくえ)に青い袴。そして籠目(かごめ)模様の羽織を身につけている。
 黒髪は私と同じように、腰のあたりまで伸びていた。

 ……ここまでなら、どこにでもいる女性の肖像画だ。
 しかし絵の中の彼女は、あまりにも人間とかけ離れていた。
 背後から伸びる、爬虫類めいた青白い尻尾。
 着物の隙間から覗く腕と頬には、青白い鱗が淡く発光している。
 さらに頭部には、鉱石のように透き通った青白い角。
 瞳すら人間離れした青白を宿していた。

「これが……」
「ああ。最後の龍神様だ」
 陣の低い声が静かに響く。
 私はしばらく、その肖像画から目を離せなかった。
 綺麗だとか恐ろしいだとか、そんな感想より先に込み上げてきたのは奇妙な既視感。

 ――いや、ありえない。
 そんなはずない。
 私は龍神に会ったことなんてない。
 この肖像画だって今日初めて見た。
 なのにどうしてだろう。
 まるで昔から、この人を知っているような気がしたのだ。

 不可解な現象に内心で戸惑っていると、端末の反応が大きくなった。
 妖怪が近くにいる。
「来たな……」
 陣が自身の端末を確認しながら呟いた。

 私は右脚のホルスターから拳銃を引き抜き、そのまま右袖を捲り上げる。
 露わになった右腕へ、自分の爪を走らせた。
 引っ掻いた部分が青白い光を放つ。まるで蛍光塗料を塗ったかのように。

「辰巳、俺にも」
 陣が屈んで顔を寄せてくる。
「——たまには顔以外にしてみない? どこにやっても効果は変わらないんだしさ」
「どこでもいいならここでも問題ないだろ? ほら」
 彼は笑いながら、自分の左頬をこちらへ向けた。
 私は小さくため息をつく。

「……もう」
 観念して、彼の頬へ爪を走らせた。
 皮膚の上から私と同じ青白い光が浮かび上がる。
 発光する線が、陣の頬を刻んでいった。

 退魔師には、〝退魔能力〟と呼ばれる固有の力が存在する。
 炎を操る力。
 結界を張る力。
 妖怪を探知する力。
 能力の形は人によって様々だ。

 私の能力はいわゆる支援型で、対象の身体能力と退魔能力を底上げする。
 単純だけれどその分扱いやすく、前線との相性も良い能力だ。

 陣はこの能力を受けるとき、必ず左頬への刻印を要求する。
 幼い頃から、ずっと。
 効力がなくなれば傷は消えるとはいえ、私としては大事な兄のご尊顔に傷を付けることに結構な抵抗がある。

 なので毎回目立たない場所にと説得しているのだが、成功した試しがない。
 何がそこまで彼を拘らせるのか、未だに解明には至っていない。
 顔を傷つけられるのが性癖なのではないか。これがここ最近推している仮説だ。
 だとしたらやめさせるべきか、多様性として受け入れるべきか——非常に悩ましいところである。

 そんなくだらないことを考えていると、バチッ! と激しい放電音が廊下に響いた。
 曲がり角の向こうから巨大な影が姿を現す。

 虎型の妖怪。
 全身の毛並みの間を電流が絶え間なく走っている。火花が散り、床を焦がしながら獣は低く唸った。まるで奴の周りの空気そのものが痺れているみたいだ。

「これはまた、厄介な能力を持ってるな」
 陣はそう口にしながらも、表情に焦りはない。
「これくらい、貴方ならどうってことないでしょ。実動部隊のエースさん?」
 わざと軽口混じりに言うと、彼は小さく笑った。

 妖怪が低く身を沈める。
 飛びかかる前兆。
 それを見据えながら、陣が口を開く。
「いつも通り行くぞ」
「はい!」

 返事と同時に、妖怪が雷光を撒き散らしながら、こちらへ襲いかかってきた。