龍棲宮の主

 特に理由はないけれど、あれ以来私はことあるごとに彼に話しかけるようになった。

「龍神様、お荷物が届いております」
 使用人の声に顔を上げる。
 この日も私はアトリエで絵を描いていた。
 椅子に腰掛け、キャンバスへ筆を走らせながら、傍らに立つ奥村とたわいもない話をしていたところだ。

「そこに置いておいてくれ」
 私は壁際の机を指差す。
 使用人は「かしこまりました」と一礼すると、抱えていた小箱を机の上へ置いて部屋を出ていった。

 扉が閉まるのを見届けると、私は椅子から飛び降りた。
「届いたか」
 箱の前へ歩み寄り、蓋を開ける。
 中に入っていたのは拳ほどの大きさの赤黒い鉱石だ。

「これは……ガーネットですか?」
 背後から奥村の声が聞こえた。
「よく分かったな」
 鉱石を手に取り、彼が見えやすい位置に掲げる。

「普段は市販の絵の具を使っているが、たまにこうして花や鉱石を取り寄せて顔料にしているんだ」
「顔料に、ですか」
「ああ。市販品にはない色が出る」
「そうなのですね」

 奥村は感心したように頷いて、ふと視線を横へ向けた。
 その先にある棚には画材道具が並んでいる。
 筆、ナイフ、パレット。その隙間には、色とりどりの鉱石がいくつも置いてある。
 青く透き通る石、淡い緑色の石、乳白色に輝く石。どれも顔料の材料として集めたものだ。

 私は棚から乳鉢を取り出し、机の上へ置いた。
 そしてガーネットをある程度の大きさに砕き、中へ放り込む。
 乳棒で擦ると、ゴリと鈍い音が響いた。

「手伝いましょうか?」
 奥村がこう言ってきたので、私は素直に厚意に甘えることにした。
「では任せる」
「承知しました」
 彼は私から乳棒を受け取り、早速作業を始める。

 ゴリ、ゴリ、と規則正しい音がアトリエに響く。
 私はその様子を眺めながら腕を組んだ。
 驚くほどの速さで石が砕かれていく。
 最初は小石ほどだった欠片が、みるみるうちに砂粒のような細かさへ変わっていった。

「さすがだな」
 思わず感心して声を漏らす。
 すると奥村は手を止めることなく「ありがとうございます」と答え、無表情のままぺこりと頭を下げた。

 彼と出会って一ヶ月。
 出会ったばかりと比べて随分と言葉を交わすようになったので、ある程度親しくなった自信はある。
 だがそれでも彼が表情を崩すことは一度もなかった。



 奥村がいなくなった後、私は引き出しからスケッチブックを取り出した。
 ぱらり、とページをめくる。
 風景画、花の写生、庭園の桜の木。今まで描いてきた鉛筆画達が通り過ぎていく。

 半ばほどのページで手を止めた。
 そこに描かれているのは奥村だ。
 部下と話しているときの横顔。
 使用人に呼び止められ、振り返った瞬間の姿。
 一人で廊下を歩いているときの伏し目。
 それらを切り取ったものだ。
 そのどれもが見慣れた真顔だった。

 鉛筆の先で紙を軽く叩く。
 彼が笑っている姿を想像して描いてみようとしても、手が動かない。
 彼はどんなふうに笑うのだろう。
 彼はどんなふうに怒るのだろう。
 彼はどんなふうに泣くのだろう。
 なんとかして彼の表情を崩す手立てはないものか。最近ではそんなことばかり考えている。

 ——我ながら妙なことに興味を持ったものだ。
 ふっと自嘲気味に笑いながら、私はスケッチブックを閉じた。

 ◇

 翌日。
 私は池の鯉を描くため、スケッチブックを抱えて庭へ出ていた。
 五月の空はどこまでも青かった。
 雲ひとつない快晴。陽光は柔らかく、吹き抜ける風には初夏の気配が混じり始めている。

『○○県に出現した大蜘蛛により建物三十七棟が損壊、負傷者は百名を超えています。退魔師協会は現在も捜索を——』
 池の近くに置いたラジオからニュースが流れてきた。
 巨大な蜘蛛型の妖怪がもたらした被害は甚大なようだ。

「——たまに自分の存在意義が分からなくなってくるな」
 ぽつりと呟き、空を見上げる。
 私の力はあくまで発生抑制。消滅の力もあるが、それは狭い範囲に限られる。妖怪被害を完全になくすことは出来ない。

「……龍棲市(ここ)から離れた地では、抑制の効果はどうしても薄まってしまいます。それは致し方ないことです」
 奥村がこちらを見上げる。
 慰めようとしているのだろうか。相変わらず表情はほとんど動かないが、声色は穏やかだった。

 そして彼の足元には、一匹の茶白の猫がいた。
 猫はすっかり彼を気に入ったらしく、脚に身体を擦り付けながら甘えた声を上げている。

「もし龍神様がおられなければ、この街も他の地域と同じような被害を受けていたでしょう」
「……それは慰めか?」
「事実を述べたまでです」
 言いながら彼はしゃがんで猫の頭を撫でた。
 随分とぶっきらぼうな物言いだけれど。それでも、少しだけ気分が軽くなったような気がした。

 風が吹く。
 若葉がざわりと揺れる。
 陽光に透けた緑が目に心地よかった。

 しゃがんだまま、奥村が再び口を開く。
「——ところで龍神様」
「なんだ」
「何故そのような場所におられるのですか……?」
 表情は相変わらず変わらない。だが声には若干の困惑が混じっていた。

 無理もない。何故なら私は今、池のそばに立つ桜の木の上にいるのだから。
 すっかり葉だけとなった枝に腰掛けている。
「そいつを助けようとしたんだ。余計なお世話だったようだがな」
 私は奥村の足元にいる猫を指差した。

 つい先程のことだ。あの猫が木の上で鳴いているのを見かけた私は、下りられなくなったのだと思い助けようと木へ登った。
 ところが私が近付いた途端、猫は何事もなかったかのように枝から地面へ飛び降りてしまったのである。
 結果として、私だけがこうして木の上に取り残されたのだ。

「なるほど、そうでしたか」
 奥村が猫に視線を向ける。猫は人の気も知らずに、彼に撫でられて気持ち良さそうに目を細めていた。
「事情は分かりました。ですがずっとそこにいるのは危険ですので下りてきてください」

「……」
「龍神様?」
 私が視線を逸らすと、奥村の声が少しだけ怪訝になる。
「もしかして——下りられなくなりましたか?」
 図星をつかれて思わず顔をしかめる。
 ちらりと彼を見れば、若葉の隙間越しに目が合った。
 気まずい。
 非常に気まずい。

「……笑いたければ笑うがいい」
 半ばやけになって言う。
 だが奥村は首を横に振った。
「今私の頭に占めているのは、貴女が先程までこの猫に抱いていた感情と同等のものですよ」
「そうか、残念だな。ようやくお前の能面を剥がせると思ったんだが」
 こちらが恥をさらしているというのに、本当に表情筋が仕事をしない男だ。

 私がため息をついた後、奥村はすっと立ち上がり両腕をこちらへ向けて広げてきた。
 相手の意図は察した。が、眉をひそめる。
「もっと他の方法はないのか」
「脚立を使うという手もありますが、持ってくるまでの間、他の隊員や使用人に見られて騒がれるのは嫌かと思いまして」
 たしかにそれは嫌だ。
 ——だが……。

「大丈夫です。体幹はいい方ですので、龍神様の——そして私自身の怪我を心配する必要はありませんよ」
 尻込む私に、彼は安心させるような声色ではっきりと口にした。
 何も言っていないのに、何故私の懸念が分かったのだろう。

「……分かった」
 私は覚悟を決め、枝の上で姿勢を整え、一度深呼吸した。
 そして意を決して飛び降りる。
 直後、身体が力強い腕に受け止められた。
 奥村は微動だにすることなく、私が地面に落ちることも、彼がどこかを痛めた様子もない。

「……」
 思ったより近い位置に彼の顔がある。
 瞳が眼鏡越しに真っ直ぐこちらを見ている。
 私は慌てて視線を逸らした。
「迷惑をかけたな」
「いえ……」
 奥村は短く答え、私を腕から下ろす。

 足を地面につけた途端、ブワリと強い風が吹き抜け、私は咄嗟に腕で顔を庇った。
 近くで紙のめくれる音がする。
 池のそばに置いていたスケッチブックだ。ページがバラバラと勢いよくめくられている。

 やがて風が止み、私は腕を下ろした。
 すると奥村が私から離れ、スケッチブックを手に取る。
「あ——」
 私は反射的に駆け出した。
 彼が見ていたページは、彼自身を描いた場所だったから。

 奥村の手からスケッチブックをひったくる。
「こ、これは、その……!」
 言葉が続かない。
 顔が熱い。本人に見られてしまった。
 引かれただろうか。
 気味悪がられただろうか。
 必死に言い訳を探していると。

「——ふっ」
 小さな吐息のような音が聞こえた。
 顔を上げると——奥村が笑っていた。
「随分と美化して描いてくださったのですね」
 眼鏡の奥の瞳は柔らかく細められ、口元も穏やかに緩んでいる。
 自然な笑顔だった。

 私は呆然とその顔を見つめた。
 ずっと見たかった表情。
 どんな顔で笑うのだろうと考え続けていた相手の笑顔。
 それは想像していたよりずっと優しくて——。
 心臓が妙にうるさくなった。

 そんな私をよそに、奥村の左腕の端末が電子音を鳴らす。
 彼は画面を確認すると「ああ」と短く呟き、顔を上げた。
「もうすぐ会議が始まりますので、私はここで失礼します」

 奥村は微笑んだまま一礼し、庭園の向こうへ歩いていった。
 私は何も言えず、その背中を見送る。
 やがて姿が見えなくなった頃、ようやく息を吐いた。

 一人取り残された私は——いや、厳密には一人ではない。
 足元を見る。
 茶白の猫がこちらを見上げていた。
 私はしゃがみ込み、その頭を撫でる。

「普通に笑えたんだな、あいつ」
 今まで見せなかったのが不思議なくらいだ。
 猫は私の言葉に答えるように「にゃあ」と鳴いた。