龍棲宮の主

 二〇二六年、春。私は彼に出会った——。

 ◇

「龍神様、新任の護衛部隊隊長さんが挨拶に来られました」
 使用人の声に筆を止める。

 四月。龍棲宮の庭では桜が盛りを過ぎ、薄紅色の花びらが風に乗って舞っていた。
 開け放たれた窓からは柔らかな春風が吹き込み、絵の具の匂いが充満するこのアトリエに木々の匂いを運んできている。

「通せ」
「かしこまりました」
 使用人は一礼すると出入り口の脇へ退いた。

 ほどなくして足音が近付いてくる。
「失礼します」
 低く落ち着いた声だった。
 入ってきたのは二十代くらいの男。
 長身で、護衛部隊の白いジャケットとスラックスを隙なく着こなし、その上からでも鍛え上げられた体格が分かる。両手には白い手袋がはめられていた。

 男は出入り口付近で立ち止まった。
「本日付で護衛部隊隊長を拝命いたしました、奥村(おくむら)(じん)と申します」

 そう名乗ると彼は右手を胸に当て、恭しく頭を下げた。
 黒髪は短く整えられており、四角い眼鏡の奥の瞳は切れ長で整った顔立ちをしている。
 しかし愛想というものがほとんど見当たらない。人形のように無表情だった。

 私は再びキャンバスへ視線を戻す。
「わざわざご苦労。用が済んだのなら下がれ、私は忙しい」
「はい、お時間を取らせてしまい申し訳ありません。それでは失礼いたします」
 こちらの棘のある物言いに表情一つ変えることなく、彼は静かに部屋を出ていった。

 ——あの男……。
 これまで何人もの人間を見てきた。
 過度に恐れる者、必要以上に媚びる者、あるいは好奇の目を向ける者。
 そのどれでもない人間は珍しい。

「まあ、どうでもいいことだ」
 私は小さく呟いて雑念を振り払った。
 変な奴だとは思ったけれど。このときはまだ、さほど彼に興味はなかった。

 再び筆を走らせる。
 描いているのは写真でしか見たことのない街並みだ。
 白い絵の具を混ぜようとして、ふと視界の端に映った自分の手に目を向けた。

 着物の袖から覗く青白い鱗。ここだけでなく頬、脚、全身の至るところにある。
 頭頂から生える二本の角。
 そして袴の後ろに開けられた穴から伸びる長い尻尾。

 人とも妖ともつかない異形の姿。
 龍神の血を濃く受け継ぐ者の証であり、私をこの龍棲宮へ縛り付ける鎖でもあった。
 私は龍永の龍神。龍永の始祖の転生体。
 この国を妖怪の被害から守るため——妖怪発生抑制の力を持つ私はこうして大事に囲われている。

 絵を描き、その他の娯楽に興じ、時折来客と会い、ただ季節が巡るのを数える。
 それが私の日常。
 平和で退屈な毎日。
 死ぬまで——いや、きっと次の生でも覆ることはないのだろう。
 そう思っていた。
 このときは、まだ。

 ◇

 数日後。
 アトリエの中で、私は一人紙飛行機を飛ばしていた。
 描きかけの絵や画材を避けながら飛ばした紙飛行機は、ふわりと弧を描いて床へ落ちる。

 落ちた紙飛行機を拾い、そのまま開かれた窓へ歩み寄る。
 窓枠に手をかけると、袖口から覗く青白い鱗が陽光を受けて淡く輝いた。

 下の方で話し声が聞こえてくる。
 視線を向けると、庭園に白い影が二つ。
 奥村と、その部下だった。

 距離があるため会話の内容までは聞き取れない。
 だが部下の男が感情的に何かを訴え、それを奥村が静かに受け流している様子から、穏やかな話ではないことだけは分かった。

 あの若さで護衛部隊隊長になったのだ、面白く思わない者もいるのだろう。
「——くだらん」
 眉をひそめて、気付けば私は紙飛行機をひょいと庭へ放っていた。

 紙飛行機は春風に乗って滑空し――コツンと見事に奥村の頭へ命中した。
 部下の男が驚いた反応を見せる。
 一方の奥村は慌てることなく頭に触れ、それから足元へ落ちた紙飛行機を拾い上げた。

 そしてゆっくりとこちらを見上げる。
 眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ丸くなっていた。
「それをここまで持ってこい」
 私は短く告げると窓から離れ、部屋の奥へ引っ込んだ。

 数分後。
 控えめなノックの音が響く。
「入れ」
「失礼します」

 私は椅子に腰掛けたまま手を差し出した。
「ご苦労」
 奥村から紙飛行機を受け取る。

「下がって良いぞ。隊長ともなれば暇ではあるまい」
「はい。——あの」
 すぐに出て行くかと思いきや、珍しく彼が言葉を続けてきた。
 相手の想定外の行動に無意識に眉を上げる。

 彼は少しだけ視線を伏せた後、再度こちらを見て口を開いた。
「ありがとうございました。助けてくださったのですよね……?」
 一瞬何に対しての礼かと思ったが、どうやら先程のやり取りのことを言っているらしい。

 私は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「勘違いするな。目障りだっただけだ」
 こちらの棘のある言い草に対し、彼は気にした様子を見せず。

「申し訳ありません。——ですが嬉しかったです」
「何?」
 思わず顔を向けた。
 奥村は相変わらず無表情だ。だが今の声は不思議なほど穏やかだった。

「龍神様はお優しい方だと聞いていましたが、本当だったのですね」
「誰がそんなことを言った」
「先日ここまで案内してくださった使用人の方です。龍神様は不器用なだけで、とても情の深い方だと」

 驚き過ぎて言葉が出てこない。
 ——あいつ、余計なことを……。
 例の使用人の顔を思い浮かべながら顔をしかめる。
「そんなもの、ただの世辞だ」

「そうでしょうか」
 奥村は小さく首を傾げた。
「私にはそうは見えませんでしたが」
 一切の迷いない発言に、妙に胸がざわついた。
 言葉に詰まり、代わりに睨みつけてみるも、彼はまるで意に介さない。
「内面をきちんと見てくれる人は案外いるものですよ」

 眼鏡の下の視線は真っ直ぐだった。
 角、鱗、尻尾、それらの異形の姿に隠れた私という一人の人間を探しだしているように。
 そんな錯覚を覚えるほどに。

「では失礼いたします」
 彼は一礼して、アトリエから出ていった。
 部屋に再び静寂が戻る。

 私はしばらく扉を見つめたまま動けなかった。
 ――私が優しい?
 意味が分からない。
 今までそんなことを面と向かって言われたことなど一度もなかった。

 普通なら建前だと切り捨てるところだ。
 だが耳に残った彼の声音がそれは違うと否定してくる。
「……変な奴だ」
 呟きながら、手に持つ紙飛行機へ視線を落とした。
 紙には先ほど握られていたせいだろうか。ほんの僅かに彼の体温が残っている気がした。