龍棲宮の主

 大蜘蛛が消滅してから数日が経った。
 その間の私は、協会の病室と研究室を行き来する日々を送っていた。

 理由は単純だ。
 龍神の姿から戻れなくなったから。

 鱗に角に尻尾。これだけでも十分目立つのに、あのときは気付かなかったが、瞳までもが青白に変色していた。
 こんな姿で街へ出れば、大騒ぎになるのは間違いない。
 そのため私は、協会の管理下で経過観察を受けていた。
 そして――。

「妖怪発生抑制能力については、長期間の観測が必要だ。現段階ではなんとも言えない」
 三原隊長が検査結果の並ぶバーチャルスクリーンを眺めながら話す。
「だが、消滅の力は安定している。——完全覚醒したと言って差し支えないだろう」
 彼は眼鏡を押し上げ、こちらを見た。

「……じゃあ」
「ああ。おめでとう――って言っていいのか分からないけど……」
 最後の方は少しだけ声が小さかった。

 部屋に沈黙が落ちる。
 目標だった。任務を遂行出来たのはとても喜ばしいことだ。
 妖怪被害を減らしたい。そのために龍神の力が必要なら、どんな代償だって受け入れるつもりでやってきた。

 だから、力が使えるようになったことは嬉しい。
 本当に。
 心から。
 だけど――。

 胸の内側には、別の感情もあった。
 重く沈むような寂しさ。
 これで決まってしまったのだ。
 私が龍棲宮へ移ることも、今までの日常が終わることも。

 そして、大切な人との別れも。

 脳裏に浮かぶのは、陣との生活だった。
 彼の作るごはん。
 何気ない会話。
 一緒に出掛けた休日。
 くだらないことで笑い合った時間。

 私はぎゅっと拳を握る。
 いざ現実になると、こんなにも苦しいなんて。

「龍棲宮の修繕はもう済んでるわ」
 春野隊長が静かに告げる。
「完全覚醒が確認され次第、貴女を移すようにって上層部から通達が来ているの」
「……そうですか」

 私は小さく頷いた。
 覚悟はとっくに出来ている。
 龍神になると決めたときから。

 それでも――。
「あの……最後に兄に会わせていただけませんか……?」

 その言葉に、鈴木さんがちらりと春野隊長を見た。
 春野隊長は少しだけ眉を寄せる。苦いものを飲み込むような表情だった。

「……中條はまだ目を覚ましていないの。それでもいいなら」
「はい。構いません」
 私は迷わず答えた。
 話が出来ないのは残念だけど、せめて最後に顔だけでも見たい。

 ――それに。
 私はベッド脇の棚へ視線を向ける。そこには一つの紙袋が置かれていた。
 中に入っているのは、私が描いた絵だ。

 龍神祭の前に約束した。新しい絵を描いたら、一番最初に見せてあげると。
 あの約束だけは、ちゃんと守りたかった。

 ◇

 陣がいる病室まで私は春野隊長に案内され、医療棟の廊下を歩いた。
 その途中で何人もの職員や患者とすれ違った。
 そして、そのほとんどが私を見ていた。

 皆、露骨に指を差したりはしない。けれど驚きや畏怖を隠し切れていなかった。
 視線を少し落とす。
 仕方ない、自分でも鏡を見るたび驚くのだから。
 それでも少しだけ胸が痛んだ。

「着いたわ」
 春野隊長が足を止めた。
 目の前には一つの病室。扉のプレートには陣の名前が記されている。
 胸がどくりと鳴った。

「私は廊下で待ってるから」
「ありがとうございます」
 私は頭を下げて、病室の扉を開いた。

 静かな部屋だった。機械の電子音だけが微かに響いている。
 視線の先には、ベッドの上で陣が眠っていた。
「……兄さん」
 痛々しい姿だった。あちこちに包帯が巻かれている。普段の元気な姿からは想像も出来ないほど弱々しい。

 何より目を引いたのは――やはり左目だ。
 そこも厚い包帯で覆われている。
 もうその下を見ることは出来ない。
 大蜘蛛との戦いで失われたもの。その事実が、改めて私の胸を締め付けた。

「兄さん、久しぶり」
 声をかけたが、もちろん返事はない。陣は静かに眠り続けている。

 私はベッドの近くに置かれた椅子へ腰を下ろした。
「……元気、じゃないか」
 苦笑を漏らし、自分の腕に浮かぶ鱗へ視線を落とした。

「私、龍神になったよ。兄さんがあんなに止めたのにね」
 自嘲気味に笑う。
 陣は何も答えない。静かな寝息だけが聞こえてくる。

「……そうだ、貴方に渡したい物があるの」
 私は紙袋へ手を伸ばし、中から一枚の絵画を取り出した。

 額縁に収められたその絵には、夜空いっぱいに咲く花火が描かれている。
 紺色の空。金や紅、色とりどりの光の大輪。
 手前には、祭りの提灯が柔らかく揺れている。

 本当ならあの日、一緒に見るはずだった景色だ。
「今年は花火見れなかったから、代わりに描いてみたんだ」
 絵を見つめながら微笑む。

 返事はない。
 陣は相変わらず人形みたいに眠ったままだ。

「――陣のバカ、起きてよ……」
 声はあまりにも掠れていた。
「貴方に話したいこと、聞きたいこと、たくさんあるのに……」

 ベッドへ額を預け、目を閉じる。
 静かな病室。聞こえてくるのは機械音だけ。
 ――でも。
 こう言ったものの、本当は少しだけ怖かった。

 もしあの日、陣が口にした言葉の意味が、私が思っている通りのものだったとしたら。
 もし彼の想いが、私の想像を遥かに超えるものだったとしたら。

 そのとき私はどうすればいいのだろう。
 兄として慕ってきた人を、家族として大切に思ってきた人を、これからどんな目で見ればいいのだろう。

 答えの出ない問いだけが、胸の中でさざ波のように揺れる。
「――陣」
 私はゆっくり顔を上げた。

 眠る彼を見つめる。
 包帯に覆われた左目、微かに痩せた頬。
 少し変わってしまったけれど、その横顔はやっぱり私の知っている兄さんのままだった。

 そっと身を乗り出し、彼の耳元へ顔を近付ける。
「貴方が望む好きとは違うかもしれないけど、それでも——私は貴方のこと大好きだよ」
 家族として。
 誰よりも大切な人として。
 その気持ちだけは嘘じゃない。

 手を伸ばし、彼の頬を撫でた。
 温かい。生きている。
 それだけで少しだけ安心する。

「……」
 返事はない、当然だ。
 それでも私は小さく微笑んだ。
「それじゃあ、私そろそろ行くね」
 立ち上がって病室の出口へ向かう。

 一歩、また一歩。
 歩くたびに、今までの思い出が脳裏を過った。
 施設で一緒に遊んだ時間。
 兄妹として一つ屋根の下で過ごした日々。
 共に協会で働いた日常。
 全部、かけがえのない宝物だ。

 ドアを開ける前に、最後に一度だけ振り返った。
 ベッドの上で眠る陣を見て、視界が少し滲む。
 それでも私は笑い続けた。

「――さよなら」
 小さく呟いて、そして私は静かに病室から去った。

 ◇

 数ヶ月後。
 二〇五六年、五月初旬。龍棲市は新緑の季節を迎えていた。

 龍棲宮の庭園では若葉が風に揺れ、木漏れ日が石畳へまだらな影を落としている。
 窓を開ければ、どこからか小鳥のさえずりが聞こえてきた。
 暖かくも涼しい。
 過ごしやすい春の終わりだった。

 大きな窓から差し込む陽光。
 壁一面に並ぶキャンバス。
 油絵具の匂い。
 やっぱりここが一番落ち着く。

 本日も私は龍棲宮のアトリエで、描きかけの絵が置かれたイーゼルの前で筆を動かしている。
 キャンバスに描かれているのは、青空の下に広がる龍棲市の街並みだ。

 龍棲宮で暮らし始めて数ヶ月。
 やることと言えば絵を描くか、ゲームをするかくらい。

 部屋の隅で流していたラジオからニュースが流れてくる。
『続いてのニュースです。今年に入ってからの妖怪被害件数は、前年同期と比較して約四十七パーセント減少したことが発表されました。専門家の間では、龍神復活が大いに関連すると――』

 私は小さく目を伏せた。
 成果は出ている。あの日、私が選んだ道は間違っていなかったのだ。
 それでも胸にぽっかり空いた穴は、今も埋まらないままだけど。

 不意に扉がノックされた。
「失礼いたします。龍神様、協会の方々が来られました」
 使用人さんが入室してくる。
「はーい、どうぞ」
 私が答えると、彼女は一礼して脇へ退いた。
 その後ろから三人の人物が顔を覗かせて、一人、また一人と部屋へ入ってくる。

「相変わらず広いわね、この屋敷は」
 春野隊長が苦笑する。
「ほんと、来るたび迷子になりそうだ」
 三原隊長がボリボリと頭を掻いた。
「辰巳ちゃん、久しぶり!」
 真っ先に駆け寄ってきたのは鈴木さん――いや。
「真里ちゃん!」
 今ではそう呼んでいる。

 彼女は私の手を取ると、嬉しそうに笑った。
「元気そうで安心したよ!」
「真里ちゃんも。髪少し伸びた?」
「あっ、分かる?」
 真里ちゃんの表情がぱっと明るくなる。
 そんな様子を見て、私も自然と笑みが零れた。

 気付けば、彼女とははすっかり友達になっていた。
 最初は研究員と被験者のような関係だったのに、今では会うたびに一緒にゲームをしたり、お互いの好きな漫画について語り合ったりする仲だ。
 春野隊長、三原隊長、そして真里ちゃん。
 この三人とは龍棲宮へ移った後も交流は続いている。

 三原隊長と真里ちゃんは龍神の力の研究と、私の経過観察のため。
 そして春野隊長は――護衛のためだ。

 二〇二六年。最後の龍神が亡くなった際、護衛部隊は解体された。
 だから現在、龍神を護衛する専門部隊は存在しない。なので代わりに実動部隊から人員が派遣されている状態だ。

 けれどそれも今日で終わる。
 私が来たことで、護衛部隊が正式に再編されたのだ。
 つまり春野隊長も本来の業務へ戻ることになる。

「護衛部隊の隊長さんが、貴女に挨拶したいそうなんだけど。会ってもらえるかしら?」
「ええ、ぜひ」
 私は素直に頷いた。
 新しい護衛部隊の隊長、一体どんな人なのだろう。

 春野隊長が廊下の方へ視線を向ける。
「入っていいわよ」
 その言葉と共に、アトリエの扉がゆっくりと開いた。

「失礼します」

 その声を聞いた瞬間。
 心臓が大きく跳ねた。
 忘れるはずがない。
 ひどく聞き覚えのある声。

 入ってきたのは一人の男性。
 白い制服姿に、肩章には護衛部隊隊長を示す意匠。左目には黒い眼帯が掛けられている。
 けれどそんなことはどうでも良い。
 その顔を見た途端、私の目は大きく見開かれていた。

 見間違えるはずがない。
 何度も夢に見た。
 何度も会いたいと思った。
 そして何度も諦めようとした人。

「本日付で護衛部隊隊長を拝命いたしました、中條陣と申します」

 彼は静かに名乗り、胸に手を当て薄く微笑んだ。
 そしてまるで初対面の相手へ向けるように、恭しく一礼する。
 その姿を見つめながら、私は言葉を失っていた。

 だってあの日、病室で交わした「さよなら」は永遠の別れになると思っていたのだから。

 第1部 完