龍棲宮の主

 翌朝。
 目を覚ますなり違和感に気付いた。
「あれ……?」
 二の腕の青白い鱗が消えている。

 慌てて他の場所も確認する。
 足も、脇腹にあったものも、同様になくなっていた。
 さぁっと顔を青くし、反射的に右腕へ爪を走らせる。いつものように刻印を浮かび上がらせようと。

 けれど何も起きない。
 能力が発動しない。引っ掻いた部分が少し赤くなっただけだ。
 嫌な汗が背中を伝う。
「なんで……」
 混乱しかけた頭の中、ふと昨夜の記憶が蘇った。

 あのとき最後に見たものは——瞳を妖しく光らせた陣の姿。
 もしあれが夢じゃなかったとしたら……?
「まさか……兄さんが……?」

 私はベッド脇の手鏡を勢いよく掴んだ。
 まず額を見る。
 何もない。
 顔、四肢、胴にも、見える範囲にはどこにもバツ印は存在しなかった。

 ——いや、仮に陣がやったのだとしたら、もっと見つかりにくい場所に……。
 そこまで考えて、ある可能性へ思い至る。
「そうだ、口の中」

 鏡を持ったまま、大きく口を開けた。
 頬の裏、上顎には何もない。
 しかし舌を動かしてみたところ。
「あ、あった!」
 舌の裏側。そこに黒いバツ印が施されていた。
 ——やっぱり陣の仕業だったんだ。

 ベッドから飛び降り、階段をダダダと駆け下りる。
 リビングへ入ると、陣がキッチンで朝食を作っている真っ最中だった。
 焼けるベーコンの音、コーヒーの香り。
 いつも通りの朝の光景。

「おはよう。朝食もうすぐ出来るから、座って待ってな」
 こちらに気付いた陣が、いつも通りの爽やかな笑顔を向ける。
 私はその態度に頭へ血を上らせた。
 ——こんなことしておいて、よく平然と……っ!

「兄さん! 今すぐ封印を解いて!!」
 私の大声に反応し、陣の動きがぴたりと止まる。
 数秒の沈黙の後、彼の口がゆっくりと開いた。

「——なんだ、もうバレたのか」
 その声音には焦った様子も、誤魔化そうとする気配も、罪悪感の感情すらなかった。
「いくらお前の頼みでも、それだけは聞けないな」
 陣は静かに言いながら、ゆっくりこちらへ歩み寄ってくる。
 不気味なほど落ち着いた彼の態度に、思わず数歩後ずさった。

「どうして——」
「龍神の力は、お前を苦しめるものでしかない」
「っ……なんで兄さんが、それを知ってるの……?」
 ありえないことだ。彼には一切話していないのに。

 私の疑問に答えることなく、陣の眼光が少し鋭くなった。
「分かってるのか? 一度龍棲宮へ入れば、お前は一生あそこで過ごすことになるんだぞ」
 そんなのとっくに分かっている。
 理解した上で私は——。

「そんなの承知の上だよ。これは私がやらなきゃいけないことなの。だって私は——」
「お前は中條辰巳だ」
 私の強い主張が、鋭い声に遮られる。
 気付けば陣に肩を掴まれていた。逃がさないと言わんばかりに、強く。

「お前はもう龍永の龍神じゃない。だからもう、国のために生きる必要なんてないんだ」
 彼の口元は穏やかに笑っていたけれど、瞳はぞっとするほど暗かった。
 怖い。
 目の前にいるのは私の兄のはずなのに、まるで知らない誰かと話しているみたいだ。

「でも……! そんなんじゃ、いつまで経っても妖怪の被害は減らせない!」
 恐怖を抑え込み、精一杯声を張り上げる。
「私は昔みたいな平和な世界を取り戻したいの。そこで兄さんが幸せに生きてくれるなら、私はそれで——」
「お前の犠牲で成り立つ平和に価値なんてない」
「——え……」

 私は目を見開いた。
 妖怪に家族を奪われた、同じ痛みを知っている。
 だからこそ、人を守るために一緒に戦ってきた。
 そんな彼から、こんな言葉が出るなんて……。

「……兄さん、なんか変だよ。どうしちゃったの? なんだか知らない人みたい」
「俺はもとからこういう人間だ」
 陣の片手がそっと私の頬へ触れる。
 その手つきは優しいのに、肩が震えるほどにどうしようもなく怖かった。
 指先がゆっくり肌を撫でる。
「お前の自由を奪う力も、お前を利用しようとする人間も——全部消えるべきだ」

 無意識に息を呑む。
 困惑する頭の中で唯一、彼は本気なのだと理解した。
 冗談でも比喩でもない、愛おしげに細められた瞳がそう語っている。

「大丈夫。俺のそばにいれば、お前は何にも縛られない」
 陣の囁きに、引っ込んでいた怒りが再び浮上する。
「そんな与えられた自由なんていらない! 兄さんがいなくたって――!」

 拒絶するように彼の胸を押した途端。
 仄暗い瞳が大きく揺れた。
 唇が震え、何かを言いかけて、飲み込んで——。
 それらの動作は溢れそうになった感情を、必死に押し殺しているように見えた。
 きっと今、私は。
 彼の心の一番柔らかい部分を抉ってしまったのだ。

「……俺なんかいなくてもいいって?」
 その声は震えていた。
 胸を押し返していた腕を強い力で掴まれる。

「じゃあ何が欲しい? 言ってくれ。お前が望むものなら、俺はなんだって――」
 陣が縋るように問いかけてくる。
 彼から離れようと後ろに下がるが、すぐに壁へ当たった。
 掴まれた腕を振り解こうとするも当然びくともしない。

 陣はそんな私を見つめながら、泣きそうな顔で笑った。
「どんなに希少な花も鉱石も、お前が望むなら必ず手に入れてみせる。どんなに道のりが険しい場所でも、お前が行きたいと願うなら連れていってやる。だから……」
 大きな手が、そっと私の両頬を包み込む。

「陣……」
 胸の苦しさを吐き出すように、震える声で彼の名を呼ぶ。
「貴方はこんなこと言う人じゃない……。貴方は私の兄さんで——私にとって、たった一人の大切な家族……」

「……兄さん?」
 ぽつりと陣が呟いた後。
 今度は両腕を掴まれ、壁へ縫い付けるように上に持ち上げられた。
「ああそうだ、俺はお前の兄さんだ。今までそう接してきた」

 至近距離から私を見下ろす顔には怒りの感情が滲み出ていた。
 でもそれは何に対して……?
 一体それは誰に対して……?
「でもな、もう限界なんだよ」
 暗い瞳が真っ直ぐ私を射抜く。
「これ以上、家族ごっこには耐えられない」

「————」
 その言葉の意味を理解するよりも前に、頭の中に映像が流れ込んだ。
 それは前世の記憶ではなく今世(いま)の——。

 幼い私は今みたいに陣に腕を押さえつけられていて。
 陣は今みたいに泣きそうな顔で——。
 ……いや、泣きそうになっているのは私の方だ。

 ある日突然身体に鱗が、角が、尻尾が生えてきて。
 養父(とう)さんと養母(かあ)さんに見られたらどうしようって狼狽える私を、陣は落ち着かせて。

『大丈夫。兄さんに任せろ』
 そう言って、両目を赤く光らせたのだ。

「ああ、そうか。兄さんが……」
「辰巳……?」
 彼の声が遠い。
 急激に視界が揺れる。
 頭が上手く回らない。
 身体から力が抜けていく。

「辰巳!」
 視界が暗転する。
 最後に感じたのは、慌てて私を抱き留める陣の腕の温度だった。