七月中旬。
窓の外では、じっとりとした夜風が木々を揺らしていた。
昼間の熱気がまだ街へ残っていて、エアコンの効いた室内との温度差に少しくらくらする。
私はキッチンへ立ち、夕飯の準備をしていた。
フライパンの上で甘辛いタレの香りが広がる。
今日は陣が長期任務から帰ってくる日だ。
なのでせっかくだから、彼の好きな肉料理を作って迎えようと思ったのだ。
「こんな感じかな」
味見をして、小さく頷く。
あとは盛り付けるだけ。
エアコンが稼働している空間とはいえ、やはり火を扱うときは熱い。腕に鱗が生えたことで、Tシャツの上にカーディガンを着ているから余計に。
これで暑さから開放されると内心喜んでいると、ダイニングテーブルに置いていたスマホが震えた。
駆け寄り、画面に表示された名前を見て、私はぱっと表情を明るくして通話に出る。
「お疲れ様兄さん。後どのくらいで家に着きそう?」
『——悪い、辰巳』
聞こえてきた陣の声は、どこか疲れていた。
『ちょっとトラブルがあって、今日中には帰れそうにない』
「え……?」
ドクンと心臓の鼓動が大きくなる。
「大丈夫なの?」
『ああ、そんな深刻なもんじゃない』
陣はすぐにそう返してきた。
『任務対象外の妖怪が出ただけだ。明日には必ず戻る』
「ならいいけど……」
私は無意識に眉を寄せる。
気のせいだろうか、いつもより声に覇気がないように感じた。
「無理してない?」
『してないしてない』
スピーカー越しに陣が軽く笑う。
『それじゃあな、夜更かしするなよ』
「子供じゃないんだから」
『はいはい』
少しだけ肩の力が抜けたところで通話が切れた。
私はしばらく暗くなったスマホ画面を見つめる。
「——大丈夫だよね、きっと」
ぽつりと呟きながらも、心の中には微かな引っ掛かりが残っていた。
◇
翌朝。
私は重たい瞼を擦りながらベッドから起き上がった。
昨夜は結局、陣のことが少し気になってしまい中々寝付けなかった。
時計を見る。まだ朝早い時間だ。
髪を軽く整えてから一階へ降りた。
すると浴室の方からシャワーの音が聞こえてくる。
「……あ」
——陣、帰ってきてたんだ。
胸が少しだけ軽くなる。
リビングのドアを開けた。室内にはまだ朝の静けさが残っている。
キッチンへ向かおうとして――その途中で、ローテーブルの上へ置かれた陣のスマホが目に入った。
私は特に気に留めず、そのまま冷蔵庫へ移動する。
扉を開け、ミネラルウォーターを取り出した。キャップを開き一口飲む。
冷たい水が喉を通り、ぼんやりしていた頭が少し冴えたところで、陣のスマホが震えた。
誰かから電話がかかってきたらしい。
でも勝手に出るわけにもいかないので、私は無視して水を飲み続けた。
やがて着信音が止まり、留守番電話へ切り替わる。
『よお陣、悪い。朝早くから』
聞こえてきたのは陣の同期の人の声だった。
ペットボトルを冷蔵庫へ戻しながら、無意識に耳をそちらへ向ける。
『聞いたよ。任務の途中でS級の妖怪と遭遇したんだって?』
「――え……?」
冷蔵庫の扉を閉めようとしていた手が、ぴたりと止まり、思わず振り返った。
『毒をもろに食らった奴は、今も高熱でうなされてるよ。幸い安静にしてれば一日で治るらしいけど』
毒という単語を聞いた途端に、胸がどくりと脈打つ。
『それで調べた結果、あの妖怪が生成する花の成分には高熱を引き起こすだけじゃなく、自白剤に近い作用もあることが分かったんだ。お前は毒を受けてないって聞いてるけど、もし何か異変があったら連絡してくれ。じゃあな』
そこで留守電が切れた。
室内に静寂が戻る。
指先はいつの間にか震えていた。
——大丈夫、兄さんはちゃんと帰ってきた。昨日の電話でも普通に話していたじゃないか。
だから心配する必要なんてない。そう自分へ言い聞かせる。
けれど、鼓動の速さは変わらなかった。
その場に動けずにいると、ドアが開き陣が入ってきた。
ラフな私服姿で、首にはタオルを掛けていて、髪は少し濡れている。
「ああ、おはよう。起きてたんだな」
いつも通りの声音だったけれど、私は反射的に駆け寄っていた。
「兄さん、S級と戦ったって――さっき同期の人から電話が……」
勢いよく言葉が飛び出す。
陣は一瞬目を瞬かせ、それからローテーブルのスマホへ視線を向け、少しだけばつが悪そうな顔をした。
「毒がどうのって言ってたけど、本当に大丈夫なの?」
問いかける声に自然と力が入る。
「大丈夫じゃなかったら、ここへ帰ってきてないだろ?」
陣は小さく息を吐いて苦笑する。
「ちゃんと医者にも診てもらった。問題ないって言われたし、心配すんな」
私を安心させるように優しい声音で、くしゃりと髪を撫で回すけれど。
それでも胸のざわつきは消えてくれなかった。
だって近くで見る陣の顔が、少し火照っているように見えたから。
「兄さん……顔赤いよ? 本当に大丈夫?」
眉を寄せ尋ねる。
「大丈夫……」
うわ言のような返答は全然大丈夫そうじゃない。
直後、彼の身体がガクリとその場へ崩れ落ちた。
「兄さんっ!」
私は慌ててしゃがみ込み、すぐ額へ手を当てる。
熱い。皮膚が火傷しそうなくらいの熱だ。
――これは安静にさせないと。
陣の両手を取る。
「兄さん、ベッド行こ」
ぐいっと腕を引っ張って立ち上がらせる。
「熱が下がるまで大人しくしてて」
「でも――」
「陣」
少し強めの声で彼の言葉を遮った。
私の態度に陣は微かに目を丸くした後、ふっと力なく笑う。
どうやら観念したらしい。その後は大人しく私に引っ張られた。
陣をベッドへ寝かせた後、私は一度彼の自室を出た。
アイス枕と冷却シートを持って、再び部屋へ戻る。
カーテンが半分開いた窓から、夏の朝日が細く差し込んでいる薄暗い室内で、陣はベッドに横になったまま浅い呼吸を繰り返していた。
頬は熱で赤く染まり、額にはじっとり汗が浮かんでいる。
普段しっかりしているぶん、こうして弱っている姿を見ると妙に不安になってくる。
「兄さん、一回頭上げてくれる?」
声を掛けると、陣は緩慢な動きで頭を持ち上げた。
私は手早く頭と枕の間へアイス枕を差し入れる。
「いいよ、下ろして」
「ん……」
ひんやりした感触に、陣が僅かに目を細める。続けて冷却シートを額へ貼ると、彼は小さく息を吐いた。
「少しは楽?」
「……ああ」
声にいつもの張りがない。
「何か食べれそう?」
陣は弱々しく首を横に振る。
「そっか……」
無理に食べさせるのもよくない。
「それじゃあ、何かあったら呼んでね」
一人の方が気が安まるだろうと部屋を出ようとしたときだった。
不意にぎゅっ、と腕を掴まれる。
「兄さん……?」
驚いて振り返ると、陣は苦しそうに眉を寄せながらこちらを見上げていた。
「――行くな」
声は掠れていて、熱に浮かされているせいか普段よりずっと弱々しい。
まるで子供みたいな声音だった。
けれどすぐさま陣ははっとした顔になって、慌てて手を離し自分の口元を覆った。
「……悪い」
気まずそうに目を逸らす彼。
その仕草に、思わずくすりと笑ってしまった。
私は近くの椅子を引き寄せ、ベッド脇へ腰掛ける。
「謝らなくていいよ。素直になってるのは兄さんのせいじゃないし。例の妖怪が出す花にはね、自白剤みたいな効果もあるんだってさ」
説明すると、陣の瞳がほんの僅かに揺れた気がした。
「そりゃあまた……随分と厄介な……」
彼が小さく苦笑する。
毒の影響を受けた本人からすれば、たまったものじゃないのかもしれない。
でも私としては少しだけ嬉しかった。
普段なら絶対に口にしないような弱みを、彼が零してくれたから。
「——ごめんな。出かける約束したのに……」
再び陣が申し訳なさそうに呟く。
私は首を横に振った。
「気にしないで。絵はいつでも見に行けるし」
それに、と続ける。
「龍神祭だって仮に今年行けなくても、来年また――」
ここまで言って、声が詰まった。
来年——。
来年も私は陣と一緒にいられるのだろうか。
身体の内側がひやりと冷える。
このまま龍神化が順調に進めば、もしかしたらそう遠くないうちに私は龍棲宮へ――。
「……辰巳?」
突然黙り込んだ私を心配してか、陣がこちらを窺うように名前を呼んだ。
慌てて笑みを作る。
「なんでもない。話は変わるけどさ兄さん、気になる人とかいないの?」
これ以上暗い気持ちになりたくなくて、無理やり話題を変えた。
「なんだよ薮から棒に」
「だって学生の頃から浮ついた話全然聞かないんだもん。妹としてはやっぱ気になってさ、この機会に聞いておこうかなーって」
ベッドに手をついて、少しだけ顔を近付ける。
「……お前、さては楽しんでるな? まったく人が苦しんでるときに……」
陣は半ば呆れたように目を細めて、私の額へ軽くデコピンした。
「いたっ」
少しだけいつもの調子が戻ってきたみたいで、おでこを押さえながらほっとする。
額を弾いた彼の手は、その後ゆっくりと下へ。私の片手に触れる。
「そうだな……俺の好きな人は――」
途端。
優しく触れていただけの手が、力強く手首を掴みぐいっと引っ張ってきた。
「わっ!?」
突然のことで反応出来ず、私はそのまま陣の胸へ倒れ込む。
近い。
普段より高い体温。
ボディソープの匂い。
心臓の鼓動。
全部が伝わってくる。
彼が私の耳元へ顔を寄せた。
息がかかってくすぐったい。
「――だよ」
囁くような声はあまりにも小さくて、全然聞き取れない。
「え? ごめん聞こえなかった、もう一回言って」
身体を起こしながらお願いするも、陣は数秒黙り込んだ後、ふいっと視線を逸らした。
「あー……喋ってたら腹減ってきたな」
「え!?」
どうやら答える気はないらしい。
ものすごくモヤモヤする。
でも食欲が出てきたのは良いことだ。
立ち上がってドアに向かう。
「おかゆ作ってくるね」
「ああ、頼む」
部屋を出て、閉まりかけたドアの向こう。
ベッドへ横たわる陣の横顔が、一瞬だけひどく寂しそうに見えた。
窓の外では、じっとりとした夜風が木々を揺らしていた。
昼間の熱気がまだ街へ残っていて、エアコンの効いた室内との温度差に少しくらくらする。
私はキッチンへ立ち、夕飯の準備をしていた。
フライパンの上で甘辛いタレの香りが広がる。
今日は陣が長期任務から帰ってくる日だ。
なのでせっかくだから、彼の好きな肉料理を作って迎えようと思ったのだ。
「こんな感じかな」
味見をして、小さく頷く。
あとは盛り付けるだけ。
エアコンが稼働している空間とはいえ、やはり火を扱うときは熱い。腕に鱗が生えたことで、Tシャツの上にカーディガンを着ているから余計に。
これで暑さから開放されると内心喜んでいると、ダイニングテーブルに置いていたスマホが震えた。
駆け寄り、画面に表示された名前を見て、私はぱっと表情を明るくして通話に出る。
「お疲れ様兄さん。後どのくらいで家に着きそう?」
『——悪い、辰巳』
聞こえてきた陣の声は、どこか疲れていた。
『ちょっとトラブルがあって、今日中には帰れそうにない』
「え……?」
ドクンと心臓の鼓動が大きくなる。
「大丈夫なの?」
『ああ、そんな深刻なもんじゃない』
陣はすぐにそう返してきた。
『任務対象外の妖怪が出ただけだ。明日には必ず戻る』
「ならいいけど……」
私は無意識に眉を寄せる。
気のせいだろうか、いつもより声に覇気がないように感じた。
「無理してない?」
『してないしてない』
スピーカー越しに陣が軽く笑う。
『それじゃあな、夜更かしするなよ』
「子供じゃないんだから」
『はいはい』
少しだけ肩の力が抜けたところで通話が切れた。
私はしばらく暗くなったスマホ画面を見つめる。
「——大丈夫だよね、きっと」
ぽつりと呟きながらも、心の中には微かな引っ掛かりが残っていた。
◇
翌朝。
私は重たい瞼を擦りながらベッドから起き上がった。
昨夜は結局、陣のことが少し気になってしまい中々寝付けなかった。
時計を見る。まだ朝早い時間だ。
髪を軽く整えてから一階へ降りた。
すると浴室の方からシャワーの音が聞こえてくる。
「……あ」
——陣、帰ってきてたんだ。
胸が少しだけ軽くなる。
リビングのドアを開けた。室内にはまだ朝の静けさが残っている。
キッチンへ向かおうとして――その途中で、ローテーブルの上へ置かれた陣のスマホが目に入った。
私は特に気に留めず、そのまま冷蔵庫へ移動する。
扉を開け、ミネラルウォーターを取り出した。キャップを開き一口飲む。
冷たい水が喉を通り、ぼんやりしていた頭が少し冴えたところで、陣のスマホが震えた。
誰かから電話がかかってきたらしい。
でも勝手に出るわけにもいかないので、私は無視して水を飲み続けた。
やがて着信音が止まり、留守番電話へ切り替わる。
『よお陣、悪い。朝早くから』
聞こえてきたのは陣の同期の人の声だった。
ペットボトルを冷蔵庫へ戻しながら、無意識に耳をそちらへ向ける。
『聞いたよ。任務の途中でS級の妖怪と遭遇したんだって?』
「――え……?」
冷蔵庫の扉を閉めようとしていた手が、ぴたりと止まり、思わず振り返った。
『毒をもろに食らった奴は、今も高熱でうなされてるよ。幸い安静にしてれば一日で治るらしいけど』
毒という単語を聞いた途端に、胸がどくりと脈打つ。
『それで調べた結果、あの妖怪が生成する花の成分には高熱を引き起こすだけじゃなく、自白剤に近い作用もあることが分かったんだ。お前は毒を受けてないって聞いてるけど、もし何か異変があったら連絡してくれ。じゃあな』
そこで留守電が切れた。
室内に静寂が戻る。
指先はいつの間にか震えていた。
——大丈夫、兄さんはちゃんと帰ってきた。昨日の電話でも普通に話していたじゃないか。
だから心配する必要なんてない。そう自分へ言い聞かせる。
けれど、鼓動の速さは変わらなかった。
その場に動けずにいると、ドアが開き陣が入ってきた。
ラフな私服姿で、首にはタオルを掛けていて、髪は少し濡れている。
「ああ、おはよう。起きてたんだな」
いつも通りの声音だったけれど、私は反射的に駆け寄っていた。
「兄さん、S級と戦ったって――さっき同期の人から電話が……」
勢いよく言葉が飛び出す。
陣は一瞬目を瞬かせ、それからローテーブルのスマホへ視線を向け、少しだけばつが悪そうな顔をした。
「毒がどうのって言ってたけど、本当に大丈夫なの?」
問いかける声に自然と力が入る。
「大丈夫じゃなかったら、ここへ帰ってきてないだろ?」
陣は小さく息を吐いて苦笑する。
「ちゃんと医者にも診てもらった。問題ないって言われたし、心配すんな」
私を安心させるように優しい声音で、くしゃりと髪を撫で回すけれど。
それでも胸のざわつきは消えてくれなかった。
だって近くで見る陣の顔が、少し火照っているように見えたから。
「兄さん……顔赤いよ? 本当に大丈夫?」
眉を寄せ尋ねる。
「大丈夫……」
うわ言のような返答は全然大丈夫そうじゃない。
直後、彼の身体がガクリとその場へ崩れ落ちた。
「兄さんっ!」
私は慌ててしゃがみ込み、すぐ額へ手を当てる。
熱い。皮膚が火傷しそうなくらいの熱だ。
――これは安静にさせないと。
陣の両手を取る。
「兄さん、ベッド行こ」
ぐいっと腕を引っ張って立ち上がらせる。
「熱が下がるまで大人しくしてて」
「でも――」
「陣」
少し強めの声で彼の言葉を遮った。
私の態度に陣は微かに目を丸くした後、ふっと力なく笑う。
どうやら観念したらしい。その後は大人しく私に引っ張られた。
陣をベッドへ寝かせた後、私は一度彼の自室を出た。
アイス枕と冷却シートを持って、再び部屋へ戻る。
カーテンが半分開いた窓から、夏の朝日が細く差し込んでいる薄暗い室内で、陣はベッドに横になったまま浅い呼吸を繰り返していた。
頬は熱で赤く染まり、額にはじっとり汗が浮かんでいる。
普段しっかりしているぶん、こうして弱っている姿を見ると妙に不安になってくる。
「兄さん、一回頭上げてくれる?」
声を掛けると、陣は緩慢な動きで頭を持ち上げた。
私は手早く頭と枕の間へアイス枕を差し入れる。
「いいよ、下ろして」
「ん……」
ひんやりした感触に、陣が僅かに目を細める。続けて冷却シートを額へ貼ると、彼は小さく息を吐いた。
「少しは楽?」
「……ああ」
声にいつもの張りがない。
「何か食べれそう?」
陣は弱々しく首を横に振る。
「そっか……」
無理に食べさせるのもよくない。
「それじゃあ、何かあったら呼んでね」
一人の方が気が安まるだろうと部屋を出ようとしたときだった。
不意にぎゅっ、と腕を掴まれる。
「兄さん……?」
驚いて振り返ると、陣は苦しそうに眉を寄せながらこちらを見上げていた。
「――行くな」
声は掠れていて、熱に浮かされているせいか普段よりずっと弱々しい。
まるで子供みたいな声音だった。
けれどすぐさま陣ははっとした顔になって、慌てて手を離し自分の口元を覆った。
「……悪い」
気まずそうに目を逸らす彼。
その仕草に、思わずくすりと笑ってしまった。
私は近くの椅子を引き寄せ、ベッド脇へ腰掛ける。
「謝らなくていいよ。素直になってるのは兄さんのせいじゃないし。例の妖怪が出す花にはね、自白剤みたいな効果もあるんだってさ」
説明すると、陣の瞳がほんの僅かに揺れた気がした。
「そりゃあまた……随分と厄介な……」
彼が小さく苦笑する。
毒の影響を受けた本人からすれば、たまったものじゃないのかもしれない。
でも私としては少しだけ嬉しかった。
普段なら絶対に口にしないような弱みを、彼が零してくれたから。
「——ごめんな。出かける約束したのに……」
再び陣が申し訳なさそうに呟く。
私は首を横に振った。
「気にしないで。絵はいつでも見に行けるし」
それに、と続ける。
「龍神祭だって仮に今年行けなくても、来年また――」
ここまで言って、声が詰まった。
来年——。
来年も私は陣と一緒にいられるのだろうか。
身体の内側がひやりと冷える。
このまま龍神化が順調に進めば、もしかしたらそう遠くないうちに私は龍棲宮へ――。
「……辰巳?」
突然黙り込んだ私を心配してか、陣がこちらを窺うように名前を呼んだ。
慌てて笑みを作る。
「なんでもない。話は変わるけどさ兄さん、気になる人とかいないの?」
これ以上暗い気持ちになりたくなくて、無理やり話題を変えた。
「なんだよ薮から棒に」
「だって学生の頃から浮ついた話全然聞かないんだもん。妹としてはやっぱ気になってさ、この機会に聞いておこうかなーって」
ベッドに手をついて、少しだけ顔を近付ける。
「……お前、さては楽しんでるな? まったく人が苦しんでるときに……」
陣は半ば呆れたように目を細めて、私の額へ軽くデコピンした。
「いたっ」
少しだけいつもの調子が戻ってきたみたいで、おでこを押さえながらほっとする。
額を弾いた彼の手は、その後ゆっくりと下へ。私の片手に触れる。
「そうだな……俺の好きな人は――」
途端。
優しく触れていただけの手が、力強く手首を掴みぐいっと引っ張ってきた。
「わっ!?」
突然のことで反応出来ず、私はそのまま陣の胸へ倒れ込む。
近い。
普段より高い体温。
ボディソープの匂い。
心臓の鼓動。
全部が伝わってくる。
彼が私の耳元へ顔を寄せた。
息がかかってくすぐったい。
「――だよ」
囁くような声はあまりにも小さくて、全然聞き取れない。
「え? ごめん聞こえなかった、もう一回言って」
身体を起こしながらお願いするも、陣は数秒黙り込んだ後、ふいっと視線を逸らした。
「あー……喋ってたら腹減ってきたな」
「え!?」
どうやら答える気はないらしい。
ものすごくモヤモヤする。
でも食欲が出てきたのは良いことだ。
立ち上がってドアに向かう。
「おかゆ作ってくるね」
「ああ、頼む」
部屋を出て、閉まりかけたドアの向こう。
ベッドへ横たわる陣の横顔が、一瞬だけひどく寂しそうに見えた。



