げんかんのアレ

【第一章:げんかんのアレ】
「裕太、この後カラオケ来るっしょ?」
教室の後ろで高橋が叫んだ。今日が雨の日じゃなくても、こいつはそう言っていただろう。今日は大雨。部活は中止。代わりに勉強会。この教室で、顧問が出した課題をやることになっていた。外は大きな雨粒がぼたぼたと降っている。完全に見えはしないが、音で分かる。重たくてはっきりした音。
「行く行く!」
田中は何に誘われても着いていく。典型的なイエスマンなので、周りからは可愛がられている。まあ、そういう感じだ。教室に部員が集まってからそれなりに時間が過ぎ、机を立つ者が増えた。課題が課題の名にふさわしくないほどしょぼいからだ。勉強会というより、かなりゆるい自習って感じ。顧問と部員、両方熱量がないから成立している気がする。空は少しずつ暗くなり、雨音は小さくなった。雨粒も小さくなったのだろう。耳だけで雨を確認する。高橋はもう一人巻き込んだ。まあ、好きにやっていても怒る人はいない。
「純也は?」
「これ書いてから行くよ」
小林は割と真面目なところがある。それでも平均的な高校生と比べればだいぶ不真面目なのだが、この青沢高校テニス部は平均以下の態度を取っても許されてしまう。が故に、素で平均以下の素行しかしないやつが集まってきてしまうのだ。まるで俺の隣の席の机みたいだ。一度誰か机に変な文字を掘ると、そのうち落書きだらけになる。
「そんなん川村にやらせて早く行こうぜ」
高橋が提案する。
「そうだな。じゃ川村、よろしく」
小林はそう言った。そう、そういうやつだよな。相対評価のせいで美化されていた。前言撤回する。やっぱり小林は真面目ではない。連中のこういう、平気で人をパシリに使うようなノリには俺は乗れない。乗っかるわけにはいかない。そんなキャラじゃない。
「芝崎は誘ったら来るかな?」
高橋のその言葉から一抹の悪意を読み取れなかったのは、一瞬「鹿咲」の聞き間違えかと思ったからだ。だがそもそも鹿咲は今日、実質的な家族旅行で学校を休んでいる。いいなあ。今ここは曇り空だが、やつの亡くなったおじさんとやらのいる北海道は、今どんな景色だろうか。
実はカラオケ自体はそんなに嫌いじゃない。どちらかといえば好きだ。でも、みんなと行くと疲れるし、高校生の男子が一人カラオケするだなんて、普通じゃない。普通じゃないことは、たとえ好きでもやらない。今ちょうど高橋たちの会話に俺が登場しているが、行かない。
「あいつは真面目だから来ねえだろ」
田中がこっちに聞こえるように言った。俺は真面目じゃない。誰かと行くカラオケが嫌いなのは、気の遣いあいになるからだ。あい、じゃないか。一方的に俺が気を遣うだけ。
「まあな、芝崎だからな」
誰だったか忘れてしまったが、誰かがそう言った。そう。それでいい。べらべらと喋っている間に、雨もぱらぱらとした様子に落ち着いた。カッパなしでも自転車を漕げそうだ。うちの顧問と同じで、天気まであいつら部員に甘い。顧問の甘さといったらそれはもう、相当なものだ。溶け残りがすごい。部員が集まってくるのも分かる。ごくたまに切れたりもするが、誰も気にしていない。共感が及ばない変なポイントで切れるからだ。
「まだお前らいんの? 暇なやつらだな。あ、川村さん、いつもありがと」
高橋はそう言って教室を後にした。気づいたら、教室はすっかり寂しくなっていた。残っていたのは、ニ年の俺と三年の川村さんと、あと一年の尾上、三人だけ。いつもは俺と川村さんの二人だけだが、なぜか今日は尾上がいた。こいつ、頭はそんな悪くなかったはずなのに。親と喧嘩でもしたのだろうか。
雨はまたさらさらとした連続的な雨に変わった。雨は好きだ。子どもの頃に習い事でサッカーをやらされていた。俺はサッカーが嫌いだった。毎週末、177に電話して天気を確認していたほどに。土のグラウンドは雨でダメになる。雨の日は戦わなくていいから、雨が好きになった。だが、好きな雨が今日は仇となってしまった。降りすぎもよくないものだ。
そろそろ、やるか。
俺は原稿用紙の隅にとりあえず文字を書いた。言葉遊びは昔から好きだった。「サラダバーでさらばだー」とか「カラマリの絡まり」とか。ポンと頭に浮かぶ。でも、作文は苦手だ。何を書けばいいかが分からない。
原稿用紙は小中のころの給食のようで嫌いだ。決められた量をクリアしないと離してもらえない。その「掴まれてる感覚」が、俺のペンが止まる理由なのである。あーあ。もう嫌になる。シャーペンの芯をひたすらカチカチさせてギリギリまで芯を出した後、元に戻してまたカチカチする。カチカチカチカチ、スーッ、カチカチカチカチ。途中で芯が折れたのでシャーペンを置くと、代わりに左足の膝に寝かせた右足の先が、ブラブラと震える。側から見たら、多分ちょっと変な人だ。川村さんはもう十人分は済ませている。尾上は口を尖らせて唇をふにふにいじっていた。
「芝崎先輩、どうすか。できましたか」
尾上は一年のくせに他人との距離が近く、誰にでもすぐ懐く。すっと輪の中に入っていけるやつだ。でも、たまにコートのベンチに一人でぽつんと座って寂しげな顔をしていることがあり、正直正体がよく分からない。普段おちゃらけているくせに練習中は妙に真面目で、乱打中は必死にボールの先へ食らいついていく。ペア練習の時は、ペアを組んでるやつより自分のミスに怒っていたりもする。身体はあんなに小さいのに、全力で目の前の球に向き合っている。全力で悔しがるし、全力で嬉しがる。
「ちょ、まっ」
後ろに座っていた尾上が、背後から手を伸ばして俺の作文用紙をひょいと上へあげた。当然書きかけで、あまりにも他の部員を待つのが退屈なので用紙の端っこに落書きをしてしまっていた。
「なーんだ。白紙じゃないですか。あれ、なんか書いてある」
「いいから返せ」
発見するな。それ以上はダメだぞ、尾上。目線は尾上の手元に固定されるが、その周辺はぼやけている。
「『玄関のあなたの前で袖口を濡らす男はやっぱりやだよね』って」
やりやがった。もういいだろ、尾上。もう十分お腹いっぱいになっただろ。
「ほら早く、返せ」
手で俺を掴まれているようで、俺は急に小さく弱くなった。でも、それは見せないようにして、犯人を説得する時みたいにゆっくり近づいた。
「何これ、もしかして短歌っすか?」
頼む。分かるだろ、尾上。お前、そんなやつじゃないだろ。教室の隅っこから川村さんが鼻で笑う声も聞こえてきた。勘弁してくれ。
「やめろよ、なあ」
自分が書いたのだと認めたくなかった。それはテレビで見たんだとか妹がそう言ってたとか言い逃れしたが、尾上は止まらなかった。両側のもみあげがぞわぞわする。
「『げんかんのお~』」
尾上が茶化して音読した。あれ。ちょっとこいついじってないか。いじめじゃなくて。あの小さくて無邪気で、でもどこか遠くにいたはずの尾上。その尾上が俺をいじるなんて、なぜだろう。
「やめろって言ってんだろ」
俺の口元も少し緩んでいる。俺もおふざけノリになってきた。
「いいじゃないっすか」
やっぱりこれはただのおふざけだ。世間一般的に見ても、これはよくある学生同士のおふざけだ。こんな恥ずかしい思いをすることはきっと誰だってある。頭では理解できた。頭では。血液が耳の辺りに集まり、沸いたように熱くなった。
すると、尾上は頬杖をつきながら、こう言って笑った。
「かわいい」
まだ、嬉しくは、なかった。
俺は尾上を確かめるように見た。顔にぐっと血液が集まってくる感じがする。恥ずかしくて周りの世界が白くぼやけた。荷物を急いで全部両手に抱え、俺は教室を飛び出した。
「あっ、先輩!」
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい
裸を見られたくらい恥ずかしかった。何が起きたのか、起こるのか、分からなかった。

その日の夜は、頭がぼうっとして眠れなかった。そわそわして肩を右にしたり、左にしたり、うつ伏せになってみたりした後、結局仰向けになって目をつぶった。尾上の笑いは、痛くなかった。恥ずかしさは痛い。でも、尾上は痛くなかった。あいつの笑った顔、俺は好きだ。悪意、やっぱりあったんだろうか。いや、もしかしてあいつ、もしかして、逆に俺のこと好きになったんじゃないだろうか。いや、そんなわけない。馬鹿なことを思うな。それより心配すべきは今後のことだ。誰かに喋るんじゃないだろうか。尾上か、川村さんか。
俺だってふざけることはよくある。でもそれは全て一人の時だけ。頭の中だけ。誰かと共有なんてしない。いつも俺なんか、って思ってたけど、怖かったんだ。誰かに俺を見られるのが、誰よりも怖かった。だから、何度もあの時の見られた感覚だけが再生された。
そのざわざわは、翌朝になっても完全には消えていなかった。俺の家なのに昨晩からずっとあいつがいる。顔をいくら洗っても、尾上が目の裏に貼り付いていなくならない。トーストを食べている時も、歯を磨いている時も、次第に目の前の景色がぼやけて尾上のあの笑顔がフェードインしてくる。もちろんこうして玄関で袖口のボタンを止めている時も。ん、玄関?
「『げんかんのお~』」
もう駄目だ。
尾上を振り払おうとドアを乱暴に開けて外に飛び出すと、色褪せた原付に乗ったおっさんに怒鳴られた。
「ちゃんと見ろ、ボケ!」
頭の中が乱雑だ。よくない。自転車を手に取る。そういえばあいつも自転車登校だったよな。途中でばったり会ったらどうしよう。どんな顔をすればいいんだろうか。あいつはどんな顔をするんだろうか。見れないよ。
つばのないヘルメットを、気持ち目深に被った。
いつもより登校時間は長く感じたが、結局尾上には会わなかった。ほっとした。けど、ちょっと残念でもあった。このままずっと、会えないなんてことはないよな。目で尾上を確認しないと尾上が存在しないように感じて、今はなんか落ち着かない。そんなことはないはずなのに。
駐輪場の奥に誰か人がいたので、入り口付近に自転車を置いた。教室へと向かう途中、やたら周りの目が気になった。みんなが俺のことを全部知っている。そんなわけないのにそれがなぜか前提になってしまっているから、周りを見られない。廊下や階段の途中も緊張はしたが、意図的に目の範囲をいつもより広めにぼやかした。仮に尾上がいたとしても、こちらからは見えなくなるからだ。あいつから声をかけてくれる分にはいい。俺が先に気づいてしまったら間違いなく挙動不審になるから、少なくとも俺は気づいてはいけない。ただ前を見て、視界をぼやかして廊下をすたすた歩く。やっと教室についた。これで昼休みまで停戦だ。よくやった。
午前中の授業は、ほぼうたた寝で過ごした。昨日あれだけ眠りが浅ければ当然のことだろう。よくない。
「芝崎、誰か来てるぞ」
クラスメイトがそう俺を呼んだので、うつ伏せで寝ていた顔をばっと上げた。
尾上が俺の知らない友達を連れて、教室の入り口にいる。友達と喋りながら、片手にはヨーグルッペを持っている。軽すぎんだろ。あ、まずい、凝視しすぎた。尾上がこっちを見そうだ。目をぱっと逸らして、そーっと視線を戻す。よかった。気づかれていない。昨日の尾上の笑顔が浮かぶ。友達と話している今もあいつは笑っているが、昨日の笑顔とはやっぱり違う。それに少しだけ安心した。いかん。そろそろ行ってあげなければ。扉の方へ向かう。
「先輩、すごい顔っすよ」
尾上はそう言ってヨーグルッペをチューチュー吸った。何も無かったかのようだ。昨日あんなことしたくせに。確かにあの話には触れないでほしい。だが、こうも呑気に来られると、こっちだけ意識しているのも逆に変だ。とりあえず軽いノリに乗っかってみる。
「悪かったな、すごい顔で」
こいつは何しに来たのだろう。また昨日の話をしに来たわけではなさそうだ。からかいに来た様子でもない。だとしたら何の用だろう。そもそも尾上は、前からやたら俺に話しかけてくるやつではあった。だが、部活の連絡ならつい先日あったばかりだ。まさか、恐喝?いや、違う。こいつはそんなことをするやつじゃない。
「何しに来たんだよ。どうせ、昨日の話だろ」
「いや。誰にも言ってないですよ」
「本当に?」
「ほんとに。誰にも」
俺はじっと尾上の顔を見つめたが、きょとんとした顔をしている。目もまっすぐだ。これは嘘をついていない。こいつは良くも悪くも分かりやすいやつだから。
なんて考えていたら、目の前に尾上の顔はなく、代わりにあの小さい体が俺の股の下に入り込んでいた。
「は」
どきっとした。顔の横の温度が上がる。耳から蒸気が出そうだ。なんでこいつは俺の気を乱すことばかりするのだろう。単純に距離が近い。
「何やってんだよお前」
「これ」
尾上は股の下から頭を抜いて、嬉しそうに笑った。まただ。またこの笑顔だ。それより、尾上は何か言われるのを待っている。尾上は何か小さくて光るものを、ぐいっと俺の目の前に差し出した。
「100円」
羨ましいでしょー、と言わんばかりに自慢げな様子だ。やっぱりこいつは何考えてるか分からん。どきどきして損した。まあでも、ずれてる感じはなんかいい。
「ほしい?」
「いらねぇよ」
「そんなこと言っちゃって。このこのー」
俺の目の前で100円を揺らして見せびらかす。うざい。かと思ったら、急に脇腹を触ってきた。
「何すんだ!」
「先輩、意外と肉あるんすね」
「余計なお世話だっ」
本当に意味が分からない。だがそれより、尾上の顔が俺の腹に近づいている。まずい。心臓の音なんかしていたら大変まずい。今のうちに流してこの場を離れよう。
「今日二人で一緒に帰りましょうね。放課後駐輪場にいるんで。じゃっ」
口を先に開いたのは尾上で、文字通り、嵐のように去っていった。嵐のように来といて嵐のように去った。それよりさりげなく100円パクりやがったよ、あいつ。
廊下へ出て水道で顔を洗った。どうやら顔が赤くなるのが癖になってしまったらしい。恐ろしいことだ。何かの病気かもしれない。

【第二章:自主練習】
そもそも、何で俺なのか。別に前から親しかったわけでもないし、何か用があるならさっき言っていただろう。男二人で帰って何話すんだよ。周りの目も怖いし、部活のやつに茶化されたらそれこそ恥ずかしい。昨日の教室でのことがあってから、時間が荒ぶっている。今どこにいるかもよく分からない。でも、今の気持ちは、嬉しい。それはよく分かった。
午後の授業も、いつも通り過ぎていった。

帰りのホームルームが終わった。グラウンドに向かう人、体育館に向かう人、家に帰る人、バイトに行く人。それぞれの放課後があって、みんなそれに向かって走っていく。カラオケに行った高橋たちにも高橋たちの放課後があって、作文を終わらせた川村さんにも川村さんの放課後があっただろう。俺の今日の放課後は、どうなるだろうか。そう考えていると、少し小走りになった。もし、尾上がいなかったら、ちょっと落ち込むかもしれない。でも、もしいたら?爽やかに、やあ、と言って登場しようか。いや、人を待たせておいてそれはないだろう。待たされて怒っているかもしれない。いや、むしろ、また友達と喋ってるうちに、待ち合わせのことなんて忘れてたりして。なんて、弱気に考えてしまう。
駐輪場に着くと、尾上は地面を軽く蹴りながら一人で駐輪場の隅で待っていた。本当に、待っていた。それに、寂しそうな顔をしていた。いつもの浮ついた感じがない。それはまだ俺が知らない、見たことのない尾上だった。俺がもう帰ったと思ったのだろうか。尾上はうつむいていたが、俺を見つけるとぱっと顔が明るくなった。
「先輩、チコクっすよ、チコク」
さっきの寂しそうな顔を見た後だと、いつもの笑顔とは少し違って見えた。あの明るさで、いつも尾上は大きく見えていたのかもしれないと思った。初めて周りに誰もいない尾上を見た。いつもと印象がちょっと違った。でも、なんか照れ臭かったので、あえて雑に会話を乗せた。変に意識する方がおかしい。男同士なんだから。クールにしないと。俺らは男だ。男同士だ。
「チコクも何もサボリだろ、俺らは」
「じゃあ今から恋の自主練習、しちゃいますうー?」
尾上は、腰をくねらせながら昔のハワイアンみたいなお色気ポーズを取った。あの尾上さえ見なかったら、こづいて終わりにしてやれた。でも、今までみたいに俺は尾上を見れなかった。
「なんすか、真面目な顔しちゃって」
「あ、いや。行こうぜ。な」
軽く笑い飛ばしてごまかした。自転車に乗ろうとすると、尾上がいきなり俺の自転車のサドルを押さえた。
「あー、だめっすよお」
「何すんだよ」
「今日は自転車押して帰りましょ。ねっ」
「何でお前なんかと……」
「嫌なんですか?」
不思議そうに首をかしげ、顔を近づけて覗き込んできた。
「いや、別に。てかお前そんなおちゃらけたキャラだっけ」
「先輩だってこんなキャラじゃないくせに」
尾上は自分のバッグに手を突っ込むと、中から昨日書いた俺の作文用紙を引っ張り出した。
「げんかんのお~」
「やめろ!返せ!」
「やだよーん」
何でこいつが持ってんだ? 顧問が回収したはずだろ。セキュリティががばがばすぎる。また読み上げるつもりだろうか。いや、この後誰かに見せるつもりかもしれない。陰で笑いものにするとか。そうでなければ、俺の恥ずかしがる顔を見たい、とか。そんなに人の黒歴史をほじくるのが好きか。それとも、何か別の理由があるとか。
「何でお前そんなの持ってんだよ」
「だってこんなの先生に見せたら、それこそ先輩のガラスのハートが粉々になっちゃうじゃないですか。思春期男子は繊細なんですから」
「お前も思春期男子だろ」
思わず笑ってしまった。あれ、でも何か空気が違う。何だ、これ。尾上は笑っていない。
というより、怒っているようにも見える。もしかして、逆だったのか。からかうためじゃなくて、からかわれないようにするためだったのだろうか。あの顧問に見せたら笑い物にしかねないと思ったから、あえて抜き取った。いや、守った。でも、どうして。俺が傷つくと思ったから、とか。
「だから、これは僕が預かっておきます」
そう言って、尾上は作文用紙を半分に折って、さりげなく鞄の中に戻した。まるで自分のもののように。
「そんなの顧問が困るだろうが」
「いや、それはないっすよ。ろくに見ずにシュレッダーにかける用の箱に入れてたんで」
「はあ?」
笑い物にする云々の前に、そもそも読んでいるかという問題があった。甘かった。それがあったか。本当にうちの顧問は顧問としてどうかしている。顧問もおかしいし、部員も変なやつばっかりだ。
でも、なんでそんなノリの中にいるのに、あんなにも真面目な顔して俺を待っていてくれたんだろう。俺に。俺だけに。
尾上は、スタンドを蹴ってハンドルを持った。そして神妙な顔をして下に目線をやり、ゆっくりと自転車を前に動かした。俺も慌ててスタンドを蹴った。
自転車がキチキチと鳴る。ベルは夕方の光を反射して光っていた。グラウンドから、走者を励ます声が聞こえる。そんな中、変な沈黙が続く。何話したらいいだろうか。沈黙を破ったのは、尾上だった。
「何止まってるんですか。行きますよ」
「ああ、おう」
尾上は前を向いたまま、自転車を押して歩き出した。俺も少し遅れて隣に並んだ。いつもなら何か言ってきそうなのに、尾上は珍しく黙ったままだった。時々、小さく鼻をすすっている。俺も何を話せばいいか分からない。なんとなく、お互いに顔を見れなかった。
「それで、げんかんのアレってどういう意味なんすか」
「『げんかんのアレ』って言うなよ」
勝手に落書きの呼称が決まってしまった。それよりも、尾上はさっきからちょくちょくこっちを見ては、ぐらっとバランスを崩したふりをしてくる。チャリ酔拳、らしい。またおかしなことを始めた。さっきなんか、後ろからくすくす女子の笑い声が聞こえた。やめてほしい。
「こないだ、現代文で短歌作らされたんだよ。それが割と面白かったからちょっと書いてみただけ」
「先輩、だめっすよ。質問に答えなきゃ。」
尾上は急に目をきりっとさせて、教師みたいなことを言った。さっきまでふざけてたくせに。でもそういやこいつ、別に頭悪いわけでもなかったような。
「何の話だよ」
「『どういう意味ですか』って聞かれたんだから『こういう意味です』って答えないと。だから夏休みの補習なんかに呼ばれるんじゃないですか?」
思わずむせそうになった。どこでこいつはそういう情報を拾ってくるんだ。周りに人いるし。俺は火を消すように尾上側に顔を寄せて、ひそひそ声で牽制した。
「何でそんなことお前が知ってんだよ」
「そんなんじゃ0点ですよ。0点」
尾上はこういう他人の細かいところを、変によく見ている。
「お前こそ俺の質問に答えろよ。はい、『あなたはどうして私が補習に行ったことを知ってるんですかあ』?」
「内緒の話はあのねのねー♪っと」
「なんだそれ」
「昔のネタですよ。うち、じいちゃんとばあちゃんしかいないんでよくいろいろ吹き込まれるんすよねー」
尾上は遠くを見てへらっと笑った。夕日の中を歩いていると、俺らはちょうど小さな家の影に差しかかった。夕日が途切れて、急に周りが見えにくくなった。足元を見ながら歩くと、少しずつ目が慣れてきた。
そういや、なんかそんな話あったな。尾上んちはちょっと複雑だとか、大変だとか。待てよ。なんか悪いこと聞いてしまったかもしれない。でも、謝るのはそれはそれで違う気がする。気づくと、少し早足になっていた。
革靴のコツコツした音がさっきより響く。尾上は前を向いて自転車を押している。横断歩道の信号で俺らは立ち止まった。車がサーっと通り過ぎる音が、やけにはっきり聞こえた。
「先輩、僕の話聞いてます?」
尾上は下から俺の顔を見上げてきた。こんなに身長差あったっけ。目線が揃うには、尾上の頭があと3個はほしい。そう言えばこいつ、小顔だよな。ちょっとどきっとした。こんな生意気な性格なのに、目元だけ見ると女の子っぽいから、時々変な感覚になる。
「そんな先輩にはー、お仕置きです」
「なんだよそれ」
唐突に変な言葉を言うので声が裏返ってしまった。
「僕の話ちゃんと聞いてなかった罰として、今月末までに恋の短歌書いてきてください。もちろん、モデルは僕で」
「はあ?」
なんか、今まで見てきた尾上とは、みんなの中にいる時の尾上とはずいぶん違う。それに、自分に向けて恋の歌を書けだなんて。
「何でお前なんかへ恋の歌書かないといけないんだよ」
「だってこのくらい恥ずかしくないと、罰にならないじゃないですか。ほら、お仕置きとか言った瞬間からずっと顔赤くしてるし」
頬に手を当てなくても分かる。熱い。顔に血が集まっているのが分かる。小さい頃、顔が赤くなりやすいことには自分では気づかなかった。高校に入ったくらいから、急に周りに指摘されるようになった。別に赤くなるのはいいけど、指摘されるとどきっとする。
「先輩、ヘンタイなんじゃないですか?」
「うるさい」
「ふふっ」
死ぬほど恥ずかしい。でも、笑ってる尾上はいい。
「……あの短歌さ」
「はい」
「実際に起きたことじゃないんだけど、なんとなく浮かんだんだよね。会社から帰って、奥さんの前で泣き出しちゃう旦那さんっていうか」
「自分を投影してんじゃないですか」
ハンドルに湿り気を感じ、慌てて握り直す。思わず視線を逸らした。
「うるさい」
「乙女なんだからあ。ヒューヒュー」
口笛を鳴らしながら自転車のベルを鳴らして尾上が茶化す。ちょっとだけ刺さった。尾上にそんな意図はないだろうけど。
「まあ、そういう女々しいとこあんのかもな。男なのに、かっこ悪いよな」
「別にいいんじゃないっすか」
意外な答えが返ってきて、俺は尾上の方に視線をやった。尾上は上の方を向いて続けた。
「芸術家って大体繊細な人が多いし、男とか女とか、今はもうそんな時代じゃないっていうか」
「そうかな……」
「そうっすよ。それに、家に帰って好きな人を見た瞬間泣いちゃうなんて、すごくかわいいじゃないですか。『袖口を濡らす』っていうのも『泣く』とかじゃないでしょ。余白がある。『やだよね』って話し言葉になってるのも、家庭的な感じがしていいし」
軽い気持ちで書いたものを詳しく評されると、逆に恥ずかしい。
「……尾上って、短歌好きなの?」
「別に。万年補習の先輩より頭がいいだけです」
「お前な」
「へへ」
「でも、そう思ってもらえるのは素直に嬉しい」
「うん。僕はそう思いましたよ」
「ありがと」
「はい」
二人で小さく笑った。
軽い気持ちで話をしていたら、気づけば駅を通り過ぎるくらいまで来ていた。
行く先を気にせず歩いたのは久しぶりだ。時間を気にせず人と話すことも、そういえばあまりない。
「あ、先輩家遠くないすか。大丈夫ですか」
「ああ、俺はいいけど……。おまえんちって、あっちの方じゃなかったっけ。だいぶ遠いぞ、辺りも暗いし」
「ああ、全然。いい筋トレっすよ。これを自主練って言い張ってもいいくらい」
「お前な」
呆れていると、下を向いて照れくさそうに尾上は笑った。つられて俺も笑ってしまった。
「じゃあ、また明日」
「おう、気をつけてな」
尾上は小さく手を振った。そして暗闇の中に消えていった。急におちゃらけたり急に真面目になったり、ヘンなやつ。一人になりふと我に戻ると、なぜか口元が上がっていた。なんとなくそんな気分になって、一回だけベルを鳴らして揺れながら帰った。

そして、尾上はその日から学校に来ることはなくなった。


【第三章:また一緒に、帰ろうね】
部室でサボってるんじゃないかと頻繁に見に行ったが、いなかった。尾上がいない部室は、しんとしていた。また前みたいに待ってくれているんじゃないかと、駐輪場にいる時はつい隅に目が行ってしまったが、そこにもいなかった。
それから二週間経って俺が向かったのは、市内の総合病院だった。

入り口で面会申請の紙を書き、中に入った。「続柄」で少しだけもやもやした。エレベーターの遅さにいらいらして閉めるボタンを連打したり、病院の広さに気が焦ってちょっと走ってしまったりして、ようやく尾上の病室に着いた。品性より先に動きが出てしまう。あ、しまった。ノックするの忘れた。
「尾上! 大丈夫か?」
病室の引き戸を開けるなりそう言った。聞いたことのある声で誰かが軽く吹き出した。
「ふふっ。先輩、ここ、ここ」
仕切りのカーテン越しに、ささやく声が聞こえる。尾上だ。頬の筋肉が緩んで、ほっと息をついた。尾上はカーテンを開けて顔を出すと、恥ずかしそうに微笑んだ。顔は丸みを帯びていて、しゅっとしていたはずの腕はむくんで見えた。
「尾上!」
マスクを外して尾上を呼んだ。
よかった。無事だったんだ。目元の緊張が緩んだ。病衣で再会することになったのは、まあちょっと残念だけど。
「すみませんけど」
ジャッと手前のカーテンを開けて、看護師が出てきた。名札には「師長」と書いてある。
「病院内はお静かにお願いします。あと、マスク」
「あ、すみません」
慌ててマスクを上に上げた。
「こんなご時世なので、マスクは絶対に外さないでください。後、ここは体育館じゃないのでお静かに。ここは病院なんです。じゃないとこっちも許可が出せませんのでね」
「すみませーん」
愛想笑いをしながら片手で「ちょっと失礼」のポーズを取りゆっくりと師長の前を通り過ぎる。下手に刺激してはまずそうな雰囲気なので、馬鹿っぽく振る舞ってみる。
「ふふっ」
尾上がくすくす笑っていた。いつもの尾上だった。病室に篭りっぱなしで落ち込んでいないかと心配していたが、大丈夫そうだ。
「そこ、カーテン閉めて」
「おう」
尾上は元気そうだった。いやむしろ、ちょっと太ったんじゃないだろうか。
「そんな大事故じゃなかったんだけど、『大事を取って』ってお医者さんに言われて……」
「いや、俺も全然来れなくてごめんな。感染症対策で家族以外は面会禁止とかなんとかって病院の人がうるさくてさ」
勧められていないが、近くにあったパイプ椅子を引いて座る。立ち話もなんだし。
「ううん、全然」
そう言って尾上は笑った。治療中だからかいつものような元気はなく控えめで、なんだかいつもよりかわいく見えた。いつもの意地悪さというか生意気さがなくなっている。こいつ、そう言われれば肌は白いし目も丸い。女の子に間違われても、おかしくはない。病室でナンパされてたりして。ないか。
「これ、持ってきたから。そこの売店で買ったやつだけど。雑誌と、あと、こんなん好きか?甘いのとか。好み分かんなくてさ」
つい話を継ぎ足した。不自然だっただろうか。まあ、もう細かいこと気にするような仲でもないか。
「ううん、ありがと」
冷蔵庫を勝手に開けてどかどかとお見舞い品を入れる。冷蔵庫には、果物やゼリーが既に入っていた。
「おばあちゃん来たばっかだったかな。ごめんな」
「ううん、父さんがさっき来てくれて」
「父さん?」
「何かあった時だけ、ふらっと来てくれるの。優しいでしょ」
「ああ、そうだな……」
家のことについては詳しくは触れない。まだこいつのことで知らないことは、いっぱいあるから。
「体調は、どう? もう痛くないか?」
「うん、ギブスも取れたし、お医者さんも来週には退院できるって」
ほっとした。
「そっか。よかった」
「部活の人たちはどう?」
そう。こんな感じだった。
「おう、みんな心配してたよ。今回、部代表として俺が病院に電話したら『お一人なら構いません』ってことで病院の許可出たんだけど、みんな行きたがってた」
「そっか。早く学校行きたいな」
「また一緒に帰ろうな」
「うん」
尾上は微笑んでうなづいた。
「それで……、僕も作ってみたんだよね」
照れくさそうに尾上は言った。
「その……、短歌……」
「へえ、すごいじゃん。見せてよ」
「これ……」
尾上は恥ずかしそうにキャラクターのノートを手渡した。
「なんだ、案外かわいい趣味してんのな」
しかも、意外と合ってる。
「意地悪言わないでください」
「今は俺の方が権力あるからな。はっは」
「もう」
こういうじゃれ合う時間は、割と好きだったりする。
「『雪が乗る草を上から踏んでみたい最近のかき氷ふわふわ』」
「そう」
「何このかわいいの」
「絶対いじってくると思った」
「お前の方が全然乙女じゃん」
「だるっ」
尾上は唇を出してよそを向いた。俺はけらけら笑った。
まだ尾上を知らなかった時の学校は、温度がなかった。でも、尾上に作文用紙を見られたあの日から、俺の頬に血が流れた。一度そのぬくもりを知ってしまったからか、最近の廊下は寒かった。
「今日、何日か分かる?」
「分かんない。病院にいると、日にちの感覚がなくなっちゃって」
「今日は30日。今月の、最後の日」
正直、かなり真剣に練った。
「ああ、もうそんな経ってたんだ」
「だから、宿題、出しに来た」
「どれどれ、見てしんぜよう」
尾上は腕を組みながら、目を細めて顔を作った。
「これ」
俺は、没にしたのがいくつも並んでいるルーズリーフを手渡した。改めて見ると、消し跡が目立つ。
「何これ」
そう言って尾上は笑った。まあ確かに、きたない。
「人に見せようと思って書いてないでしょ」
「まあ、そうかもな」
「はは。ふふっ、ふふっ」

しばらく尾上は、何も喋らず一人で笑っていた。ひとしきり笑った後、呼吸を整えた。
「大丈夫か。ていうか、笑いすぎだろ」
「いや、そんなんじゃないんだけどね」
尾上は笑いながら、急に静かになった。消し跡に指を添えて何かを確かめるようにじっと見つめていた。そして、それをゆっくりとなぞった。鉛筆の字がぼやけるくらい、何度も、何度も。
「ほんと、先輩ってかっこ悪いですよね」
すると、なぜか涙を流し始めて、目元を病院のパジャマの袖口で拭っていた。
「おい、大丈夫か! ナースコール押すか? それとも腹減った――」
ほんの一瞬の出来事だった。尾上の唇が、俺の頬に触れた。急なことすぎて、言葉が出なかった。
「ありがと。また一緒に、帰ろうね」
そう言って、尾上は今までで一番かわいく笑った。
「お、おう……」

その後のことはあんまり良く覚えていないけど、高校生だから許してほしい。

おわり。