放課後の花畑。ここは僕にとって、数少ない友人と過ごす教室よりもずっと居心地がいい。
高校二年の僕には、わざわざ群れる理由が見当たらなかった。一、二人の気の合うやつとたまに話せればそれでいい。そんな僕にとって、声のしない植物たちは最良の隣人だった。
だから、そこに「異物」が混じっていることにすぐ気づいた。
僕と同じくらいの制服を着た少女が、しゃがみ込んで花を凝視している。
驚いたのはその距離だ。鼻先が触れるほど顔を近づけ、まるで見えない敵を睨みつけるような、あるいは宝物を鑑定するような、異様な執着心で一輪の花を見つめていた。
(……何してるんだ、あの子)
声をかける勇気なんてない。けれど、あまりの光景に足が止まる。
彼女はふっと顔を上げると、僕の存在に気づいて弾けるような笑顔を見せた。その明るさは、静かな花畑の中でそこだけ照明が灯ったみたいに場違いで、眩しかった。
「あ、ごめんなさい! 変な風に見えちゃいましたよねっ」
彼女は照れくさそうに笑いながら、でもその瞳はどこか遠くを映しているようで。
「ちょっとだけ、確認したかったんです。……ねえ、君。もしよければ教えてくれませんか?」
彼女は僕の方を真っ直ぐに、少しだけ視線がズレている気もしたけれど目を見て、歌うようなトーンでこう言った。
「この花、何色をしてますか? 私、どうしてもこれが知りたくて!」
結局僕は答えられず、昨日の問いに悩まされながら、僕は一晩を過ごした。
「何色か」なんて、見ればわかることだ。それなのに彼女の声は、まるで世界の存亡を懸けて問いかけているような、切実な響きを持っていた。
翌日。放課後の花畑には、当然のように彼女がいた。
また、あの日と同じ花に、零れ落ちそうなほど顔を近づけて。
「……あのさ」
気づけば、自分から声をかけていた。一人でいたい僕にしては、珍しいことだった。
「昨日も聞いたけど……どうして、そんなに顔を近づけて見てるの?」
彼女は弾かれたように顔を上げると、昨日と同じ、ひまわりみたいな笑顔を咲かせた。
「あ、昨日の君! また会ったね」
けれど、その笑顔のまま、彼女は事も無げにこう告げた。
「これね、こうしないと輪郭すらボヤけちゃうからなの。私、色が全然わからなくて。世界が全部、銀色の霧の中に沈んでるみたいに見えるの」
――。
空気が凍りついた気がした。
色のない世界。彼女が必死に花を覗き込んでいたのは、形だけでも、その存在を掴み取ろうとしていたからだった。
「……あ、ごめん。そんなこと、知らなくて」
色のない世界。想像も絶する事実に僕が縮み上がっていると、彼女は「あはは!」と、この世で一番面白い冗談を聞いたかのように喉を鳴らした。
「なーにその顔! お通夜? もしかして同情してくれてる? 無駄だよ、私、自分の世界のこと結構気に入ってるし!」
彼女は僕の気まずさを一瞬で踏み潰し、距離を詰めてきた。近い。パーソナルスペースなんて概念、彼女の辞書にはないらしい。
「私、一ノ瀬 陽葵(いちのせ ひまり)! 見ての通り、色に関してはポンコツだけど、他は人一倍元気だから! で、君はの名前は?」
「……望月、凪砂(もちづき なぎさ)」
「なぎさ! へぇ、いい名前じゃん! 砂浜みたいで強そう!」
「……強そう、か?」
適当な感想だな、と僕は内心で溜息をつく。彼女は僕の戸惑いなんてお構いなしに、顔を数センチの距離まで近づけてきた。
「ねえ、それで、この花! 何色? 教えてよ、なぎさ!」
陽葵が指差しているのは、淡い紫色のアガパンサスだ。
僕は少し視線を泳がせ、語彙の引き出しをひっくり返す。友達の少ない僕にとって、誰かに何かを説明するのは、慣れない異国の言葉を操るような感覚だった。
「……紫。薄い、紫だよ」
「むらさき……」
陽葵はポカンとした顔でその言葉を反唱し、それからケラケラと笑い出した。
「わかんない! 紫って何!? ぶどうの色? 叩かれた時のアザの色?」
「……もっと、綺麗な色だよ。夕暮れが夜に溶け出す直前の、少し寂しいけど、落ち着くような……そんな色だ」
自分でも驚くほど、ポエティックな言葉が口を突いて出た。気恥ずかしさで俯くと、陽葵は目を丸くして、それから僕の肩をバシバシと叩いた。
「わっ、なぎさ、今のいい! 詩人じゃん! 夕暮れが夜に溶ける色……うん、覚えた! 最高の紫だね!」
彼女は満足げに胸を張ると、カバンを掴んで立ち上がった。
「よしっ、決めた! 私、明日から学校でもなぎさを探すから。毎日一個ずつ、色を教えてよ。断る権利はないからね!」
「えっ、ちょっ……」
「じゃあね、なぎさ! また明日!」
嵐が去った後のように、彼女は勢いよく駆け出していった。
静かになった花畑で、僕は一人、紫のアガパンサスを見つめる。
明日から、僕の「独りの時間」が音を立てて崩れていく予感がして、僕は小さく、でもそれほど嫌ではない溜息を吐いた。
翌日の昼休み。
僕はいつものように、中庭の隅にあるベンチで一人、購買のパンを齧っていた。賑やかな食堂や教室より、ここなら誰の顔色も窺わずに済む。
ふと、噴水の近くで女子グループの笑い声が上がった。
その中心に、昨日僕の平穏をかき乱した「嵐」がいた。
「えーっ、陽葵のそのポーチ、めっちゃ可愛くない? この絶妙なニュアンスピンク、超流行ってるやつじゃん!」
「でしょー! 私もこれ、一目惚れして買っちゃったんだよね。この色、最高にアガるでしょ?」
――嘘だ。
陽葵は、僕に見せたあのひまわりみたいな笑顔で、友達にポーチを突き出している。
彼女には、そのポーチが何色なのかなんて、本当はわかっていないはずだ。周りの反応から「正解」を察し、あたかも自分も同じ景色を見ているかのように振る舞っている。
その光景は、どこか薄氷の上で踊っているように危うく見えた。
「……バカみたいだ」
独り言をこぼして、僕は視線を落とした。
色のない世界で、色があるふりをして笑う。それがどれほど疲れることか。
昨日の「自分の世界を気に入ってる」という言葉さえ、本当は強がりだったんじゃないか。
そう思った瞬間。
「……あ! みーつけたっ!」
背後から聞き慣れた声がして、僕の心臓が跳ねた。
振り返ると、さっきまで輪の中心にいたはずの陽葵が、僕のベンチの背もたれに身を乗り出していた。
「なぎさ! 何一人で寂しくパン食べてんの? もしかして私を待ってた?」
「……待ってない。それに、あっちの友達はいいのかよ」
僕が視線を向けると、陽葵は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、困ったような、それでいてひどく冷めたような目でグループを振り返った。けれど、僕に向き直ったときには、もう元の「嵐」に戻っている。
「いいのいいの! あの子たちと話してても、色の答え合わせばっかりで疲れちゃうし。……ねえ、それより」
彼女は僕のすぐ隣に座ると、さっきのポーチを僕の目の前に差し出した。
「これ、なぎさには何色に見える? 嘘じゃない言葉で、教えてよ」
差し出されたポーチは、確かにクラスの女子が好きそうな、明るくて可愛らしい桃色をしていた。けれど、陽葵がそれを僕に見せる手は、どこか強張っているように見えた。
「……桜の色だよ」
僕は一呼吸置いて、言葉を選んだ。
「それも、満開の時じゃなくて。春の強い風が吹いて、一斉に散り始めた時の、少しだけ白が混じったような……淡いピンクだ」
陽葵は目を見開いたまま、動かなくなった。
さっきまで噴水のそばで「アガる色でしょ!」と騒いでいた彼女とは別人みたいに、その瞳からスッと熱が引いていく。
「……そう。散る時の、色なんだ」
彼女はポーチを胸元に抱え込むと、ふう、と深く、重い溜息を吐いた。その拍子に、張り付いていたひまわりのような笑顔が、ハラハラと剥がれ落ちていく。
「……ねえ、なぎさ。これ、絶対内緒だからね?」
彼女は僕の方を見ずに、小さく笑った。今度の笑い方は、どこか自嘲気味で、ひどく大人びていた。
「私が色がわかんないこと。適当に話を合わせて、嘘ついて笑ってること。……バレたら、あの子たちなんて顔するかな。『可哀想』って言われるか、『騙してたの?』って引かれるか。どっちにしても、もうあの中にはいられなくなっちゃう」
陽葵の視線が、遠くの友達グループに向けられる。
彼女は、色が欠落した世界で独りになるのを恐れて、必死に「普通」の色を演じているのだ。
「……言わないよ。そんな面倒なこと」
僕がぶっきらぼうに答えると、陽葵は驚いたように僕を見た。
「君との約束なんて、僕にとっては花に水をやるのと同じくらい、誰にも言う必要のないことだから」
陽葵はしばらく僕の顔を凝視していたけれど、やがて「……ぷっ、あはは!」と、今度は心の底から吹き出した。
「なぎさ、やっぱり変なやつ! 花に水をやるのと同じって何? 独特すぎ!」
彼女はまたいつもの距離感で僕の肩を叩く。でも、その瞳に宿った光は、昨日よりも少しだけ僕に近い場所にある気がした。
「よしっ! 決めた。なぎさは今日から、私の『共犯者』ね」
文化祭まであと数日。放課後の校舎は、どこか浮き足立った熱気に包まれていた。
二年生のフロアを歩いていた僕は、三組の教室から漏れ聞こえてくる不穏な空気に足を止めた。
「……意味わかんない。これ、わざとなの?」
「昼間の空を描くポスターでしょ? なんでこんなドロドロの赤で塗るわけ?」
心臓がドクンと跳ねた。
三組。陽葵のクラスだ。
人垣の間から見えた彼女は、真っ白な顔をして立ち尽くしていた。
足元には、ラベルの位置が入れ替わったペンキの缶。そして目の前には、彼女が「青」だと信じて塗り広げたであろう、毒々しいまでに鮮やかな赤。
陽葵は必死に笑おうとしていた。でも、震える唇は上手く形を作れない。
「あ、えっと……ごめん、私……」
「謝ればいいって問題じゃないでしょ。これ、描き直しだよ? 陽葵って、意外と無責任なんだね」
取り囲むクラスメイトたちの言葉が、彼女の心を削っていく。
色のない世界で、ひとりぼっちで戦っていた彼女の防波堤が、いまにも決壊しそうだった。
――見ていられなかった。
僕は人垣を割り込み、迷うことなく陽葵の細い手首を掴んだ。
「え……なぎさ?」
驚きで顔を上げた陽葵に、僕は何も言わなかった。
周りのクラスメイトたちが「え、何、誰?」「一組の望月じゃん……」とざわめき始める。
「ちょっと望月くん、何してんの? まだ一ノ瀬さんにポスターの……」
「……うるさい」
低く、地這うような声で僕は遮った。
その場の全員が気圧されたように黙り込む。僕は陽葵の手を強く、でも痛くないように握り直すと、そのまま彼女を引きずるようにして教室の外へ連れ出した。
「ちょ、なぎさ! 待って、まだ仕事が……!」
「あんなの、もういい」
僕は振り返らずに、階段を駆け下りる。
文化祭の喧騒、他人の評価、正解の色――そんなものが届かない場所へ。
たどり着いたのは、いつもの放課後の花畑だった。
夕暮れが近づき、辺りは黄金色に染まり始めている。
「……ふう、ふう……っ」
陽葵は息を切らしながら、僕の手を離した。
静かな花畑。そこには、彼女を責める人間も、ラベルの入れ替わったペンキも存在しない。
「……なぎさのバカ。あんなことしたら、なぎさまで変な目で見られちゃうじゃん」
陽葵は怒ったような口調で言った。でも、その声は微かに震えていて。
ふと見ると、彼女の手首には、赤色のペンキが痛々しくこびりついていた。
「……ごめん。でも、見てられなかったんだ」
僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女の手についた赤い汚れを乱暴に、でも丁寧に拭い始めた。
「色がわかんないなら、わかんないって言えばいいだろ。……嘘ついて、笑って。そんなの、いつか壊れるに決まってる」
「……言えるわけないじゃん」
陽葵の声から、いつもの「嵐」のような勢いが消える。
彼女は、銀色の霧が立ち込めるような瞳で、足元に咲く一輪の花を見つめた。
「色がわかんない私は、みんなと同じ世界にいないの。……みんなが見てる綺麗な景色を、私だけが見てないって認めるのが、怖かったんだよ」
「……言えるわけないじゃん。色がわかんない私は、みんなと同じ世界にいないんだよ」
陽葵の絞り出したような声が、夕暮れの花畑に溶けていく。
僕は彼女の手首に残った赤い汚れを拭い終えると、その手を離さずに、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「色が見えることが、この世界のすべてじゃない」
僕の言葉に、陽葵が弾かれたように顔を上げる。
「色が見えないなら、僕が教えてやる。何度でも、何百回でも。……お前が望むなら、世界中の色を全部、言葉にしてお前に届けるよ。だから、もう一人で笑うな」
陽葵は目を見開いたまま、動かなくなった。
やがて、彼女の瞳から大きな涙がこぼれ落ちる。それは夕陽を反射して、どんな宝石よりも鮮やかな――僕にしか形容できない輝きを放っていた。
その日、僕たちは教室に戻ることはなかった。
日が沈み、花たちが夜の闇に沈んでいくまで、ずっと二人で話をしていた。
あのアガパンサスの色のこと。陽葵がこれまでついてきた嘘のこと。そして、これから二人で探していく「新しい世界」のこと。
――翌日から、陽葵の「居場所」は変わった。
案の定、あのポスターの一件で陽葵はクラスで浮いてしまった。でも、彼女はもう無理に笑って誰かに合わせることはしなかった。
休み時間も、放課後も、彼女はいつもあの花畑に居座るようになった。
そして僕の周りも、静かではなくなった。
「なぎさ、お前あの一ノ瀬と付き合ってんの?」
「他クラスの女子を連れ去るとか、やるじゃん。マジであいつとデキてんの?」
クラスの連中がニヤニヤしながら冷やかしてくる。
数日前までの僕なら、嫌悪感で顔を背けていただろう。でも今は、そんな言葉すらどうでもよかった。
「……さあな。好きに言えばいい」
僕は窓の外、彼女が待つあの場所を見下ろす。
世界は相変わらず、僕たちが何をしていようとお構いなしに回っている。
でも、僕と陽葵の間には、他の誰にも見えない、僕たちだけの鮮やかな「いろ」が咲き誇っていた。
高校二年の僕には、わざわざ群れる理由が見当たらなかった。一、二人の気の合うやつとたまに話せればそれでいい。そんな僕にとって、声のしない植物たちは最良の隣人だった。
だから、そこに「異物」が混じっていることにすぐ気づいた。
僕と同じくらいの制服を着た少女が、しゃがみ込んで花を凝視している。
驚いたのはその距離だ。鼻先が触れるほど顔を近づけ、まるで見えない敵を睨みつけるような、あるいは宝物を鑑定するような、異様な執着心で一輪の花を見つめていた。
(……何してるんだ、あの子)
声をかける勇気なんてない。けれど、あまりの光景に足が止まる。
彼女はふっと顔を上げると、僕の存在に気づいて弾けるような笑顔を見せた。その明るさは、静かな花畑の中でそこだけ照明が灯ったみたいに場違いで、眩しかった。
「あ、ごめんなさい! 変な風に見えちゃいましたよねっ」
彼女は照れくさそうに笑いながら、でもその瞳はどこか遠くを映しているようで。
「ちょっとだけ、確認したかったんです。……ねえ、君。もしよければ教えてくれませんか?」
彼女は僕の方を真っ直ぐに、少しだけ視線がズレている気もしたけれど目を見て、歌うようなトーンでこう言った。
「この花、何色をしてますか? 私、どうしてもこれが知りたくて!」
結局僕は答えられず、昨日の問いに悩まされながら、僕は一晩を過ごした。
「何色か」なんて、見ればわかることだ。それなのに彼女の声は、まるで世界の存亡を懸けて問いかけているような、切実な響きを持っていた。
翌日。放課後の花畑には、当然のように彼女がいた。
また、あの日と同じ花に、零れ落ちそうなほど顔を近づけて。
「……あのさ」
気づけば、自分から声をかけていた。一人でいたい僕にしては、珍しいことだった。
「昨日も聞いたけど……どうして、そんなに顔を近づけて見てるの?」
彼女は弾かれたように顔を上げると、昨日と同じ、ひまわりみたいな笑顔を咲かせた。
「あ、昨日の君! また会ったね」
けれど、その笑顔のまま、彼女は事も無げにこう告げた。
「これね、こうしないと輪郭すらボヤけちゃうからなの。私、色が全然わからなくて。世界が全部、銀色の霧の中に沈んでるみたいに見えるの」
――。
空気が凍りついた気がした。
色のない世界。彼女が必死に花を覗き込んでいたのは、形だけでも、その存在を掴み取ろうとしていたからだった。
「……あ、ごめん。そんなこと、知らなくて」
色のない世界。想像も絶する事実に僕が縮み上がっていると、彼女は「あはは!」と、この世で一番面白い冗談を聞いたかのように喉を鳴らした。
「なーにその顔! お通夜? もしかして同情してくれてる? 無駄だよ、私、自分の世界のこと結構気に入ってるし!」
彼女は僕の気まずさを一瞬で踏み潰し、距離を詰めてきた。近い。パーソナルスペースなんて概念、彼女の辞書にはないらしい。
「私、一ノ瀬 陽葵(いちのせ ひまり)! 見ての通り、色に関してはポンコツだけど、他は人一倍元気だから! で、君はの名前は?」
「……望月、凪砂(もちづき なぎさ)」
「なぎさ! へぇ、いい名前じゃん! 砂浜みたいで強そう!」
「……強そう、か?」
適当な感想だな、と僕は内心で溜息をつく。彼女は僕の戸惑いなんてお構いなしに、顔を数センチの距離まで近づけてきた。
「ねえ、それで、この花! 何色? 教えてよ、なぎさ!」
陽葵が指差しているのは、淡い紫色のアガパンサスだ。
僕は少し視線を泳がせ、語彙の引き出しをひっくり返す。友達の少ない僕にとって、誰かに何かを説明するのは、慣れない異国の言葉を操るような感覚だった。
「……紫。薄い、紫だよ」
「むらさき……」
陽葵はポカンとした顔でその言葉を反唱し、それからケラケラと笑い出した。
「わかんない! 紫って何!? ぶどうの色? 叩かれた時のアザの色?」
「……もっと、綺麗な色だよ。夕暮れが夜に溶け出す直前の、少し寂しいけど、落ち着くような……そんな色だ」
自分でも驚くほど、ポエティックな言葉が口を突いて出た。気恥ずかしさで俯くと、陽葵は目を丸くして、それから僕の肩をバシバシと叩いた。
「わっ、なぎさ、今のいい! 詩人じゃん! 夕暮れが夜に溶ける色……うん、覚えた! 最高の紫だね!」
彼女は満足げに胸を張ると、カバンを掴んで立ち上がった。
「よしっ、決めた! 私、明日から学校でもなぎさを探すから。毎日一個ずつ、色を教えてよ。断る権利はないからね!」
「えっ、ちょっ……」
「じゃあね、なぎさ! また明日!」
嵐が去った後のように、彼女は勢いよく駆け出していった。
静かになった花畑で、僕は一人、紫のアガパンサスを見つめる。
明日から、僕の「独りの時間」が音を立てて崩れていく予感がして、僕は小さく、でもそれほど嫌ではない溜息を吐いた。
翌日の昼休み。
僕はいつものように、中庭の隅にあるベンチで一人、購買のパンを齧っていた。賑やかな食堂や教室より、ここなら誰の顔色も窺わずに済む。
ふと、噴水の近くで女子グループの笑い声が上がった。
その中心に、昨日僕の平穏をかき乱した「嵐」がいた。
「えーっ、陽葵のそのポーチ、めっちゃ可愛くない? この絶妙なニュアンスピンク、超流行ってるやつじゃん!」
「でしょー! 私もこれ、一目惚れして買っちゃったんだよね。この色、最高にアガるでしょ?」
――嘘だ。
陽葵は、僕に見せたあのひまわりみたいな笑顔で、友達にポーチを突き出している。
彼女には、そのポーチが何色なのかなんて、本当はわかっていないはずだ。周りの反応から「正解」を察し、あたかも自分も同じ景色を見ているかのように振る舞っている。
その光景は、どこか薄氷の上で踊っているように危うく見えた。
「……バカみたいだ」
独り言をこぼして、僕は視線を落とした。
色のない世界で、色があるふりをして笑う。それがどれほど疲れることか。
昨日の「自分の世界を気に入ってる」という言葉さえ、本当は強がりだったんじゃないか。
そう思った瞬間。
「……あ! みーつけたっ!」
背後から聞き慣れた声がして、僕の心臓が跳ねた。
振り返ると、さっきまで輪の中心にいたはずの陽葵が、僕のベンチの背もたれに身を乗り出していた。
「なぎさ! 何一人で寂しくパン食べてんの? もしかして私を待ってた?」
「……待ってない。それに、あっちの友達はいいのかよ」
僕が視線を向けると、陽葵は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、困ったような、それでいてひどく冷めたような目でグループを振り返った。けれど、僕に向き直ったときには、もう元の「嵐」に戻っている。
「いいのいいの! あの子たちと話してても、色の答え合わせばっかりで疲れちゃうし。……ねえ、それより」
彼女は僕のすぐ隣に座ると、さっきのポーチを僕の目の前に差し出した。
「これ、なぎさには何色に見える? 嘘じゃない言葉で、教えてよ」
差し出されたポーチは、確かにクラスの女子が好きそうな、明るくて可愛らしい桃色をしていた。けれど、陽葵がそれを僕に見せる手は、どこか強張っているように見えた。
「……桜の色だよ」
僕は一呼吸置いて、言葉を選んだ。
「それも、満開の時じゃなくて。春の強い風が吹いて、一斉に散り始めた時の、少しだけ白が混じったような……淡いピンクだ」
陽葵は目を見開いたまま、動かなくなった。
さっきまで噴水のそばで「アガる色でしょ!」と騒いでいた彼女とは別人みたいに、その瞳からスッと熱が引いていく。
「……そう。散る時の、色なんだ」
彼女はポーチを胸元に抱え込むと、ふう、と深く、重い溜息を吐いた。その拍子に、張り付いていたひまわりのような笑顔が、ハラハラと剥がれ落ちていく。
「……ねえ、なぎさ。これ、絶対内緒だからね?」
彼女は僕の方を見ずに、小さく笑った。今度の笑い方は、どこか自嘲気味で、ひどく大人びていた。
「私が色がわかんないこと。適当に話を合わせて、嘘ついて笑ってること。……バレたら、あの子たちなんて顔するかな。『可哀想』って言われるか、『騙してたの?』って引かれるか。どっちにしても、もうあの中にはいられなくなっちゃう」
陽葵の視線が、遠くの友達グループに向けられる。
彼女は、色が欠落した世界で独りになるのを恐れて、必死に「普通」の色を演じているのだ。
「……言わないよ。そんな面倒なこと」
僕がぶっきらぼうに答えると、陽葵は驚いたように僕を見た。
「君との約束なんて、僕にとっては花に水をやるのと同じくらい、誰にも言う必要のないことだから」
陽葵はしばらく僕の顔を凝視していたけれど、やがて「……ぷっ、あはは!」と、今度は心の底から吹き出した。
「なぎさ、やっぱり変なやつ! 花に水をやるのと同じって何? 独特すぎ!」
彼女はまたいつもの距離感で僕の肩を叩く。でも、その瞳に宿った光は、昨日よりも少しだけ僕に近い場所にある気がした。
「よしっ! 決めた。なぎさは今日から、私の『共犯者』ね」
文化祭まであと数日。放課後の校舎は、どこか浮き足立った熱気に包まれていた。
二年生のフロアを歩いていた僕は、三組の教室から漏れ聞こえてくる不穏な空気に足を止めた。
「……意味わかんない。これ、わざとなの?」
「昼間の空を描くポスターでしょ? なんでこんなドロドロの赤で塗るわけ?」
心臓がドクンと跳ねた。
三組。陽葵のクラスだ。
人垣の間から見えた彼女は、真っ白な顔をして立ち尽くしていた。
足元には、ラベルの位置が入れ替わったペンキの缶。そして目の前には、彼女が「青」だと信じて塗り広げたであろう、毒々しいまでに鮮やかな赤。
陽葵は必死に笑おうとしていた。でも、震える唇は上手く形を作れない。
「あ、えっと……ごめん、私……」
「謝ればいいって問題じゃないでしょ。これ、描き直しだよ? 陽葵って、意外と無責任なんだね」
取り囲むクラスメイトたちの言葉が、彼女の心を削っていく。
色のない世界で、ひとりぼっちで戦っていた彼女の防波堤が、いまにも決壊しそうだった。
――見ていられなかった。
僕は人垣を割り込み、迷うことなく陽葵の細い手首を掴んだ。
「え……なぎさ?」
驚きで顔を上げた陽葵に、僕は何も言わなかった。
周りのクラスメイトたちが「え、何、誰?」「一組の望月じゃん……」とざわめき始める。
「ちょっと望月くん、何してんの? まだ一ノ瀬さんにポスターの……」
「……うるさい」
低く、地這うような声で僕は遮った。
その場の全員が気圧されたように黙り込む。僕は陽葵の手を強く、でも痛くないように握り直すと、そのまま彼女を引きずるようにして教室の外へ連れ出した。
「ちょ、なぎさ! 待って、まだ仕事が……!」
「あんなの、もういい」
僕は振り返らずに、階段を駆け下りる。
文化祭の喧騒、他人の評価、正解の色――そんなものが届かない場所へ。
たどり着いたのは、いつもの放課後の花畑だった。
夕暮れが近づき、辺りは黄金色に染まり始めている。
「……ふう、ふう……っ」
陽葵は息を切らしながら、僕の手を離した。
静かな花畑。そこには、彼女を責める人間も、ラベルの入れ替わったペンキも存在しない。
「……なぎさのバカ。あんなことしたら、なぎさまで変な目で見られちゃうじゃん」
陽葵は怒ったような口調で言った。でも、その声は微かに震えていて。
ふと見ると、彼女の手首には、赤色のペンキが痛々しくこびりついていた。
「……ごめん。でも、見てられなかったんだ」
僕はポケットからハンカチを取り出し、彼女の手についた赤い汚れを乱暴に、でも丁寧に拭い始めた。
「色がわかんないなら、わかんないって言えばいいだろ。……嘘ついて、笑って。そんなの、いつか壊れるに決まってる」
「……言えるわけないじゃん」
陽葵の声から、いつもの「嵐」のような勢いが消える。
彼女は、銀色の霧が立ち込めるような瞳で、足元に咲く一輪の花を見つめた。
「色がわかんない私は、みんなと同じ世界にいないの。……みんなが見てる綺麗な景色を、私だけが見てないって認めるのが、怖かったんだよ」
「……言えるわけないじゃん。色がわかんない私は、みんなと同じ世界にいないんだよ」
陽葵の絞り出したような声が、夕暮れの花畑に溶けていく。
僕は彼女の手首に残った赤い汚れを拭い終えると、その手を離さずに、真っ直ぐ彼女を見つめた。
「色が見えることが、この世界のすべてじゃない」
僕の言葉に、陽葵が弾かれたように顔を上げる。
「色が見えないなら、僕が教えてやる。何度でも、何百回でも。……お前が望むなら、世界中の色を全部、言葉にしてお前に届けるよ。だから、もう一人で笑うな」
陽葵は目を見開いたまま、動かなくなった。
やがて、彼女の瞳から大きな涙がこぼれ落ちる。それは夕陽を反射して、どんな宝石よりも鮮やかな――僕にしか形容できない輝きを放っていた。
その日、僕たちは教室に戻ることはなかった。
日が沈み、花たちが夜の闇に沈んでいくまで、ずっと二人で話をしていた。
あのアガパンサスの色のこと。陽葵がこれまでついてきた嘘のこと。そして、これから二人で探していく「新しい世界」のこと。
――翌日から、陽葵の「居場所」は変わった。
案の定、あのポスターの一件で陽葵はクラスで浮いてしまった。でも、彼女はもう無理に笑って誰かに合わせることはしなかった。
休み時間も、放課後も、彼女はいつもあの花畑に居座るようになった。
そして僕の周りも、静かではなくなった。
「なぎさ、お前あの一ノ瀬と付き合ってんの?」
「他クラスの女子を連れ去るとか、やるじゃん。マジであいつとデキてんの?」
クラスの連中がニヤニヤしながら冷やかしてくる。
数日前までの僕なら、嫌悪感で顔を背けていただろう。でも今は、そんな言葉すらどうでもよかった。
「……さあな。好きに言えばいい」
僕は窓の外、彼女が待つあの場所を見下ろす。
世界は相変わらず、僕たちが何をしていようとお構いなしに回っている。
でも、僕と陽葵の間には、他の誰にも見えない、僕たちだけの鮮やかな「いろ」が咲き誇っていた。

