ベストフレンズ

 八月の終わり、前期の課題も一段落し、悠真と紗奈はようやく、まとまった時間を作れる週末を迎えた。

「河川敷、行こう」

 悠真からそう誘われたのは、蒸し暑い夕方のことだった。三月、悠真がひとりでこの場所を訪れ、「また今度、一緒に来よう」と約束していたあの写真を、紗奈は覚えていた。

「うん。行く」


 夕暮れの河川敷は、記憶の中とほとんど同じ姿をしていた。土手の草は伸び、水面は橙色に染まり、遠くで子どもたちの声が響いている。

 二人は、いつものベンチに並んで座った。去年、紗奈が涙を流しながら「誰かに取られるの、嫌なんだけど」と言った場所。その一年後、二人が初めて想いを通わせた場所。そして今また、同じ場所に戻ってきていた。

 しばらく、二人は何も言わずに川を眺めていた。

 やがて、紗奈がぽつりと口を開いた。

「ねえ、悠真」

「うん」

「今だから言えることが、ある」

 悠真は紗奈の方を見た。紗奈は川面を見つめたまま、静かに続けた。

「あの夏……消えたら楽になると思ってた」

 風が二人の間を通り抜けた。悠真は何も言わず、ただ紗奈の言葉を受け止めていた。

「苦しいとか、辛いとか、そういうのを通り越して。ただ、静かに消えてしまえたら、誰にも迷惑かけないんじゃないかって、本気でそう思ってた」

 紗奈は一度、言葉を止めた。

「でも……」

 その先を続けるのに、少し時間がかかった。

「本当は、見つけてほしかった」

紗奈の声が、かすかに震えていた。

「誰かに、『気づいて』って、心のどこかで叫んでた。でも、それを言葉にすることが、どうしてもできなかった」


 悠真は、しばらく何も言えなかった。胸の奥から込み上げてくるものを、どう言葉にすればいいのか分からなかった。

 やがて、絞り出すように言った。

「ごめん」

 その一言に、これまでの一年間、いや、それ以上の年月の後悔が詰まっていた。

「気づけなかった。……ずっと隣にいたのに」

 涙が、悠真の頬を伝った。

「幼なじみとか、親友とか、恋人とか、そういう名前を並べても、俺は結局、紗奈の一番苦しいところに、気づいてやれなかった」

 紗奈は、静かに首を横に振った。

「違う」

 その声は、思いのほかはっきりしていた。

「悠真のせいじゃない。……私が、言えなかったの」

 紗奈は悠真の方を向いた。夕日に照らされたその顔は、涙で濡れていたが、まっすぐだった。

「弱いところを見せたら、嫌われる。重いと思われる。ずっと、そう思い込んでた。だから、大丈夫って言い続けた。悠真が気づけなかったんじゃなくて、私が、気づかせないようにしてたの」

「……」

「気づいてほしかったのに、気づかれないように、必死に隠してた。矛盾してるよね。でも、それが、あの頃の私だった」


 悠真は、紗奈の手をそっと握った。

「これから先も、俺は多分、紗奈の全部には気づけないと思う」

 紗奈は悠真を見つめた。

「でも、気づけなかったとしても、隣にいることは、やめない」

 悠真は涙を拭いながら、続けた。

「分かり合えなくても、いい。分からないままでも、いい。ただ、紗奈が『助けて』って言った時に、俺がそこにいること。それだけは、絶対に守る」

 紗奈の目から、また涙がこぼれた。今度は、悲しみだけの涙ではなかった。

「うん」

 紗奈は小さく頷いた。

「私も、もう隠さない。……隠さない、努力をする」

「それでいい」


 二人は、しばらく黙ったまま、並んで座っていた。夕日は少しずつ沈み、空が藍色に変わっていく。

「ねえ」

 紗奈が口を開いた。

「私たち、完璧な恋人には、なれなかったね」

 悠真は小さく笑った。

「うん。なれなかった」

「でも」

 紗奈も、涙の跡が残る顔で、微かに笑った。

「完璧じゃなくても、隣にいられる。それでいいんだって、今、思える」

「うん」

 悠真は紗奈の肩に、そっと自分の肩を寄せた。

「それで、十分だと思う」


 川面に映る夕焼けが、ゆっくりと色を変えていく。二人はその光景を、言葉もなく見つめ続けた。

 分かり合えなかった過去も、まだ分からない未来も、その瞬間だけは、二人の間にある確かな「今」に溶けていくようだった。

 風が吹き、草がさざめく。遠くで、誰かの笑い声が響いた。

 紗奈は、悠真の手を握り返した。

「帰ろう」

「うん。帰ろう」

 二人は立ち上がり、並んで河川敷を後にした。夕暮れの中、二つの影が、同じ速さで歩いていった。