九月になった。
二学期が始まった最初の朝、悠真は登校しながら空を見上げた。
高かった。
夏の空とは違う高さだった。雲の形も変わっていた。丸くて重そうな入道雲ではなく、薄く引き伸ばされたような雲が、遠くの方に流れていた。
同じ空なのに、季節によってこんなに違う。
カメラを持ってくればよかった、と思いながら、持ってこなかったことを後悔した。毎回そうだった。
教室に入ると、すでに文化祭の空気があった。
黒板に「文化祭まであと28日」と誰かが書いていた。
恒一が悠真の席に来た。
「夏休み、どうだった」
「まあまあ」
「合宿行ったんだろ、写真部の」
「行った」
「橘さんも一緒だったんだって?」と恒一は言った。何気ない口調で、でも少しだけ探るような感じがあった。
「部員だから」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「ふうん」
恒一は自分の席に戻りながら、「ふうん」と繰り返した。
その「ふうん」が、紗奈のものとどこか似ていた。
悠真は気づかないふりをした。
朝のホームルームで、城島先生が文化祭の準備について話した。
今月中に準備を終わらせて、本番に臨むこと。授業に支障が出ないように、放課後の時間を有効に使うこと。
形式的な話だったが、クラスの空気は明らかに浮いていた。
文化祭、という言葉が持つ力は、高校生にとって特別だと悠真は思う。日常の延長線上にあるのに、少しだけ非日常になれる時間。そういうものへの期待が、教室の中に充満していた。
悠真は窓の外を見た。
九月の空が、高かった。
放課後、広報班のミーティングがあった。
図書室の隅のテーブル。メンバーは悠真、玲奈、それから女子が二人。
夏休みの間に悠真が撮った写真の素材と、玲奈がまとめたデザイン案を合わせて、ポスターの形を決めていった。
玲奈のデザインは、夏休みの間にさらに洗練されていた。
「いつ作ったんですか、これ」と悠真が聞いた。
「夏休みの間に、少しずつ」
「帰省とかしなかったんですか」
「東京には帰りました。でも向こうでも作業してたので」
「東京でも?」
「友達に会いながら、空き時間に」
女子の一人が「器用ですね」と言った。玲奈は「暇だったので」と短く答えた。
ミーティングは一時間ほどで終わった。
方向性が決まった。後は各自で作業を進めて、来週末に合わせる形になった。
ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。
悠真と玲奈が残った。
いつものパターンになってきた。
「夏休み、どうでしたか」と玲奈が言った。
「まあまあでした。橘さんは?」
「東京に帰れたので、よかったです」
「友達に会えた?」
「会えました」と玲奈は言った。少しだけ表情が柔らかくなった。「久しぶりで、話したいことがたくさんあって」
「それはよかった」
「でも」と玲奈は続けた。「会ってみたら、少し変わってた気がして」
「友達が?」
「お互いに」と玲奈は言った。「向こうも新しい生活があって、私もここでの生活があって。同じ時間を過ごせないと、少しずつ違う人間になっていく」
「それは悲しくないですか」
「悲しくないとは言えないですけど」と玲奈は言った。「でも変わっていくこと自体は、悪いことじゃないとも思って」
「変化を怖がらない人ですね、橘さんは」
玲奈は少し考えてから言った。
「怖くないわけじゃないですよ。ただ、変化に慣れているというか」
「転校が多いから」
「そうですね」
悠真は机の上のデザイン案を片付けながら言った。
「それって、やっぱり寂しくないですか。変わっていくことに慣れるって」
玲奈は少しの間、答えなかった。
窓の外を見た。
「寂しいですよ」と玲奈は言った。静かな声で。「慣れることと、寂しくなくなることは、別のことだから」
悠真は玲奈を見た。
玲奈はまだ窓の外を見ていた。その横顔が、いつもより少しだけ遠い感じがした。
「ごめんなさい、変なことを言いました」と玲奈が言った。
「変じゃないですよ」と悠真は言った。「正直に言ってくれた方が、俺は好きです」
玲奈が悠真を見た。
一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。
それからすぐ、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「朝比奈くんって」と玲奈は言った。
「うん」
「自分が正直じゃないから、人の正直さを好むんじゃないですか」
悠真は少し黙った。
「……そうかもしれないです」
「自覚あるんですね」
「薄々は」
「柊さんに対しても?」
また紗奈の名前が出た。
今日は早かった、と悠真は思った。
「紗奈に対しても、正直じゃないと思ってます」と悠真は言った。「言えてないことが、いくつかある」
「言えない理由は分かってますよね」
「分かってます」
「でも言わない」
「言えない」
「言えない、と言わない、は違いますよ」と玲奈は言った。
悠真は返せなかった。
玲奈は立ち上がって、鞄を持った。
「言えない、は自分を守ってる言葉だと思います」と玲奈は言った。責めているのではなく、ただ言っているだけの口調で。「言わない、と認めた方が、正直かもしれない」
悠真はその言葉を、胸の中に落とした。
重かった。
重いけれど、逃げられない言葉だった。
翌日から、文化祭の準備が本格化した。
放課後のたびに教室で作業が続いた。
縁日の小道具を作る人、看板のデザインを考える人、調理の手順を確認する人。クラス全体が少しずつ同じ方向に動いていく感じがあった。
紗奈は調理班の取りまとめとして、動き回っていた。
誰かに何かを聞かれれば答えて、問題があれば考えて、足りないものがあれば補う。自然にそういう役割を担っていた。
悠真はそれを、離れたところから見ていた。
見ていた、というより──目が行った。
紗奈が誰かと話している時。笑っている時。困った顔をしている時。
そのたびに目が行く。
(また見てる)
自分でも分かっていた。
でも止められなかった。
三日目の放課後。
作業の区切りがついて、少し休憩になった。
悠真が廊下に出ると、窓際に玲奈がいた。
外を見ていた。
悠真が近づくと、玲奈は気づいた。
「お疲れ様です」
「橘さんも」
二人で窓の外を見た。
グラウンドで体育の授業をしていた。サッカーをしていた。遠くで声がした。
「紗奈のこと、ずっと見てましたね」と玲奈が言った。
悠真は少し間を置いた。
「見えてましたか」
「見えました」
「……隠せてないな」
「全然」と玲奈は言った。でも嫌な感じではなかった。むしろ少し、優しいような声だった。
「橘さんから見て、どう見えますか」と悠真は聞いた。
「何が?」
「俺と紗奈が」
玲奈はしばらく考えた。グラウンドのサッカーを見ながら。
「恋人みたいには見えないです」と玲奈は言った。「でも友達にも見えない」
「どう見える?」
「一番近くにいるのに、一番肝心なことを言えていない二人、に見えます」
悠真は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
「朝比奈くんが紗奈さんを見る時の目は」と玲奈は続けた。「心配してる目と、好きっていう目が、混ざってる感じがします」
「好きっていう目」
「そう見えます」
「俺自身は、まだ分からないんですけど」
「分からなくても、出るんですよ、目に」と玲奈は言った。少しだけ、何かを抑えているような間を置いて。「感情って、自分が認める前に外に出ることがあるから」
悠真は玲奈を見た。
玲奈はグラウンドを見ていた。
さっきの間が、悠真には少し気になった。
「橘さん」と悠真は言った。
「はい」
「合宿の夜に言ってたこと、覚えてますか」
「何を?」
「自分の感情の理由は、そのうち言えるかもしれないって」
玲奈は少し笑った。
「覚えてます」
「そのうち、はまだですか」
「まだです」と玲奈は言った。「でも、そのうちは来ると思います」
「待ちます」
「待たなくていいって言いましたよ」
「でも待ちます」
玲奈は悠真を見た。
少しの間、何かを考えるような目だった。
それから、静かに笑った。
「困った人ですね」
「よく言われます」
「誰に」
「紗奈に」
玲奈はまた笑った。今度は少しだけ、違う笑い方だった。
悠真には、その違いの意味が、少しだけ分かった気がした。
でも確かめることは、しなかった。
教室に戻ると、紗奈が悠真を見た。
目が合った。
「どこ行ってたの」と紗奈が言った。
「廊下で橘さんと話してた」
紗奈の表情が、一瞬だけ動いた。
ほんの少しだった。気づかない人は気づかない程度の変化だった。
でも悠真には見えた。
「そっか」と紗奈は言った。
いつもの「そっか」だった。
でも悠真には、それがいつもと少しだけ違う温度を持っていることが、分かった。
作業が終わって、片付けをした。
帰り際、悠真と紗奈が並んで廊下を歩いた。
しばらく無言だった。
「橘さんと、何を話してたの」と紗奈が言った。
「文化祭のこととか」
「他には?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「写真の話とか」
紗奈は少し間を置いた。
「橘さんって、悠真のことが好きなのかな」
唐突だった。
悠真は足を止めそうになって、止めなかった。
「なんで」
「なんとなく、そう見えるから」
「見えるって」
「見てる目が、違う気がして」と紗奈は言った。窓の外を見ながら。「うまく言えないんだけど」
悠真は答えなかった。
答えられなかった、というより──何と答えるべきか、分からなかった。
「どう思う?」と紗奈が聞いた。
「俺には分からない」と悠真は言った。
「本当に?」
「本当に」
紗奈は少し黙った。
「もし橘さんが好きだって言ったら、悠真はどうするの」
悠真は紗奈を見た。
紗奈はまだ窓の外を見ていた。
「それは、その時に考える」と悠真は言った。
「いまは考えない?」
「考えても、答えが出ないから」
紗奈は小さく頷いた。
それから少しして、静かに言った。
「……私ね」
「うん」
「悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる」
悠真は何も言えなかった。
紗奈は言ってから、少し困ったような顔をした。
「なんか変なこと言った、ごめん」
「変じゃない」
「でも」
「変じゃないよ」と悠真は繰り返した。
紗奈は少し下を向いた。
廊下の窓から、夕方の光が細く入っていた。
「友達として、そう思ってるんだけど」と紗奈は言った。
また、注釈だった。
友達として。
その注釈を、今日で何回聞いただろう。
悠真はその注釈の薄さを、今日初めてはっきりと感じた。
紗奈自身にとっても、その言葉は、もうあまり機能していないのかもしれない。
でも使い続けている。
使い続けることで、何かを守ろうとしている。
「分かった」と悠真は言った。
「うん」
「俺も、紗奈に誰かができたら嫌だ」
紗奈が悠真を見た。
「それも、友達として?」と紗奈は聞いた。
少しだけ、試すような口調だった。
悠真は一瞬だけ考えた。
「……まだ、分からない」と悠真は言った。
紗奈は少しの間、悠真を見た。
それから、小さく笑った。
「正直じゃないね」
「正直に答えられない」
「それも正直か」
「そう」
紗奈はまた前を向いた。
昇降口に向かって歩き始めた。
悠真もその隣に並んだ。
分かれ道で別れた。
「また明日」と言って、「また明日」と返った。
悠真は帰りながら、玲奈の言葉を思い出していた。
言えない、は自分を守ってる言葉だと思います。言わない、と認めた方が、正直かもしれない。
そうかもしれない、と思った。
言えないんじゃなくて、言わないんだ。
言ったら変わるから、言わない。
失いたくないから、言わない。
それが今の自分だった。
でも──紗奈も同じだった。
二人とも、言わないことで今の形を守っている。
それがいつまで続くのかは、分からなかった。
ただ──今日、紗奈が言った言葉は、今までより少しだけ内側から来ていた気がした。
悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる。
友達として、という注釈つきで。
でもその注釈は、もう薄くなっていた。
二人ともそれを、知っていた。
家に帰って、ベッドに横になった。
しばらくして、スマホが鳴った。
玲奈 20:03
今日はお疲れ様でした
ポスターの件、来週までに仕上げます
悠真 20:05
ありがとうございます
よろしくお願いします
玲奈 20:06
あと一つだけ
悠真 20:06
何ですか
玲奈 20:07
今日、廊下で話した後
紗奈さんの顔、見ましたか
悠真は少し考えた。
悠真 20:08
見ました
玲奈 20:08
どんな顔でしたか
悠真 20:10
……複雑な顔でした
玲奈 20:11
そうですね
私もそう見えました
玲奈 20:11
おやすみなさい
悠真 20:12
おやすみなさい
画面が暗くなった。
悠真は天井を見た。
紗奈の複雑な顔が、頭の中にあった。
玲奈の、少しだけ違った笑い方も。
二人の顔が、交互に浮かんだ。
文化祭まで、あと二十五日。
何かが、少しずつ動き始めていた。
二学期が始まった最初の朝、悠真は登校しながら空を見上げた。
高かった。
夏の空とは違う高さだった。雲の形も変わっていた。丸くて重そうな入道雲ではなく、薄く引き伸ばされたような雲が、遠くの方に流れていた。
同じ空なのに、季節によってこんなに違う。
カメラを持ってくればよかった、と思いながら、持ってこなかったことを後悔した。毎回そうだった。
教室に入ると、すでに文化祭の空気があった。
黒板に「文化祭まであと28日」と誰かが書いていた。
恒一が悠真の席に来た。
「夏休み、どうだった」
「まあまあ」
「合宿行ったんだろ、写真部の」
「行った」
「橘さんも一緒だったんだって?」と恒一は言った。何気ない口調で、でも少しだけ探るような感じがあった。
「部員だから」
「楽しかった?」
「楽しかった」
「ふうん」
恒一は自分の席に戻りながら、「ふうん」と繰り返した。
その「ふうん」が、紗奈のものとどこか似ていた。
悠真は気づかないふりをした。
朝のホームルームで、城島先生が文化祭の準備について話した。
今月中に準備を終わらせて、本番に臨むこと。授業に支障が出ないように、放課後の時間を有効に使うこと。
形式的な話だったが、クラスの空気は明らかに浮いていた。
文化祭、という言葉が持つ力は、高校生にとって特別だと悠真は思う。日常の延長線上にあるのに、少しだけ非日常になれる時間。そういうものへの期待が、教室の中に充満していた。
悠真は窓の外を見た。
九月の空が、高かった。
放課後、広報班のミーティングがあった。
図書室の隅のテーブル。メンバーは悠真、玲奈、それから女子が二人。
夏休みの間に悠真が撮った写真の素材と、玲奈がまとめたデザイン案を合わせて、ポスターの形を決めていった。
玲奈のデザインは、夏休みの間にさらに洗練されていた。
「いつ作ったんですか、これ」と悠真が聞いた。
「夏休みの間に、少しずつ」
「帰省とかしなかったんですか」
「東京には帰りました。でも向こうでも作業してたので」
「東京でも?」
「友達に会いながら、空き時間に」
女子の一人が「器用ですね」と言った。玲奈は「暇だったので」と短く答えた。
ミーティングは一時間ほどで終わった。
方向性が決まった。後は各自で作業を進めて、来週末に合わせる形になった。
ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。
悠真と玲奈が残った。
いつものパターンになってきた。
「夏休み、どうでしたか」と玲奈が言った。
「まあまあでした。橘さんは?」
「東京に帰れたので、よかったです」
「友達に会えた?」
「会えました」と玲奈は言った。少しだけ表情が柔らかくなった。「久しぶりで、話したいことがたくさんあって」
「それはよかった」
「でも」と玲奈は続けた。「会ってみたら、少し変わってた気がして」
「友達が?」
「お互いに」と玲奈は言った。「向こうも新しい生活があって、私もここでの生活があって。同じ時間を過ごせないと、少しずつ違う人間になっていく」
「それは悲しくないですか」
「悲しくないとは言えないですけど」と玲奈は言った。「でも変わっていくこと自体は、悪いことじゃないとも思って」
「変化を怖がらない人ですね、橘さんは」
玲奈は少し考えてから言った。
「怖くないわけじゃないですよ。ただ、変化に慣れているというか」
「転校が多いから」
「そうですね」
悠真は机の上のデザイン案を片付けながら言った。
「それって、やっぱり寂しくないですか。変わっていくことに慣れるって」
玲奈は少しの間、答えなかった。
窓の外を見た。
「寂しいですよ」と玲奈は言った。静かな声で。「慣れることと、寂しくなくなることは、別のことだから」
悠真は玲奈を見た。
玲奈はまだ窓の外を見ていた。その横顔が、いつもより少しだけ遠い感じがした。
「ごめんなさい、変なことを言いました」と玲奈が言った。
「変じゃないですよ」と悠真は言った。「正直に言ってくれた方が、俺は好きです」
玲奈が悠真を見た。
一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。
それからすぐ、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「朝比奈くんって」と玲奈は言った。
「うん」
「自分が正直じゃないから、人の正直さを好むんじゃないですか」
悠真は少し黙った。
「……そうかもしれないです」
「自覚あるんですね」
「薄々は」
「柊さんに対しても?」
また紗奈の名前が出た。
今日は早かった、と悠真は思った。
「紗奈に対しても、正直じゃないと思ってます」と悠真は言った。「言えてないことが、いくつかある」
「言えない理由は分かってますよね」
「分かってます」
「でも言わない」
「言えない」
「言えない、と言わない、は違いますよ」と玲奈は言った。
悠真は返せなかった。
玲奈は立ち上がって、鞄を持った。
「言えない、は自分を守ってる言葉だと思います」と玲奈は言った。責めているのではなく、ただ言っているだけの口調で。「言わない、と認めた方が、正直かもしれない」
悠真はその言葉を、胸の中に落とした。
重かった。
重いけれど、逃げられない言葉だった。
翌日から、文化祭の準備が本格化した。
放課後のたびに教室で作業が続いた。
縁日の小道具を作る人、看板のデザインを考える人、調理の手順を確認する人。クラス全体が少しずつ同じ方向に動いていく感じがあった。
紗奈は調理班の取りまとめとして、動き回っていた。
誰かに何かを聞かれれば答えて、問題があれば考えて、足りないものがあれば補う。自然にそういう役割を担っていた。
悠真はそれを、離れたところから見ていた。
見ていた、というより──目が行った。
紗奈が誰かと話している時。笑っている時。困った顔をしている時。
そのたびに目が行く。
(また見てる)
自分でも分かっていた。
でも止められなかった。
三日目の放課後。
作業の区切りがついて、少し休憩になった。
悠真が廊下に出ると、窓際に玲奈がいた。
外を見ていた。
悠真が近づくと、玲奈は気づいた。
「お疲れ様です」
「橘さんも」
二人で窓の外を見た。
グラウンドで体育の授業をしていた。サッカーをしていた。遠くで声がした。
「紗奈のこと、ずっと見てましたね」と玲奈が言った。
悠真は少し間を置いた。
「見えてましたか」
「見えました」
「……隠せてないな」
「全然」と玲奈は言った。でも嫌な感じではなかった。むしろ少し、優しいような声だった。
「橘さんから見て、どう見えますか」と悠真は聞いた。
「何が?」
「俺と紗奈が」
玲奈はしばらく考えた。グラウンドのサッカーを見ながら。
「恋人みたいには見えないです」と玲奈は言った。「でも友達にも見えない」
「どう見える?」
「一番近くにいるのに、一番肝心なことを言えていない二人、に見えます」
悠真は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
「朝比奈くんが紗奈さんを見る時の目は」と玲奈は続けた。「心配してる目と、好きっていう目が、混ざってる感じがします」
「好きっていう目」
「そう見えます」
「俺自身は、まだ分からないんですけど」
「分からなくても、出るんですよ、目に」と玲奈は言った。少しだけ、何かを抑えているような間を置いて。「感情って、自分が認める前に外に出ることがあるから」
悠真は玲奈を見た。
玲奈はグラウンドを見ていた。
さっきの間が、悠真には少し気になった。
「橘さん」と悠真は言った。
「はい」
「合宿の夜に言ってたこと、覚えてますか」
「何を?」
「自分の感情の理由は、そのうち言えるかもしれないって」
玲奈は少し笑った。
「覚えてます」
「そのうち、はまだですか」
「まだです」と玲奈は言った。「でも、そのうちは来ると思います」
「待ちます」
「待たなくていいって言いましたよ」
「でも待ちます」
玲奈は悠真を見た。
少しの間、何かを考えるような目だった。
それから、静かに笑った。
「困った人ですね」
「よく言われます」
「誰に」
「紗奈に」
玲奈はまた笑った。今度は少しだけ、違う笑い方だった。
悠真には、その違いの意味が、少しだけ分かった気がした。
でも確かめることは、しなかった。
教室に戻ると、紗奈が悠真を見た。
目が合った。
「どこ行ってたの」と紗奈が言った。
「廊下で橘さんと話してた」
紗奈の表情が、一瞬だけ動いた。
ほんの少しだった。気づかない人は気づかない程度の変化だった。
でも悠真には見えた。
「そっか」と紗奈は言った。
いつもの「そっか」だった。
でも悠真には、それがいつもと少しだけ違う温度を持っていることが、分かった。
作業が終わって、片付けをした。
帰り際、悠真と紗奈が並んで廊下を歩いた。
しばらく無言だった。
「橘さんと、何を話してたの」と紗奈が言った。
「文化祭のこととか」
「他には?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「写真の話とか」
紗奈は少し間を置いた。
「橘さんって、悠真のことが好きなのかな」
唐突だった。
悠真は足を止めそうになって、止めなかった。
「なんで」
「なんとなく、そう見えるから」
「見えるって」
「見てる目が、違う気がして」と紗奈は言った。窓の外を見ながら。「うまく言えないんだけど」
悠真は答えなかった。
答えられなかった、というより──何と答えるべきか、分からなかった。
「どう思う?」と紗奈が聞いた。
「俺には分からない」と悠真は言った。
「本当に?」
「本当に」
紗奈は少し黙った。
「もし橘さんが好きだって言ったら、悠真はどうするの」
悠真は紗奈を見た。
紗奈はまだ窓の外を見ていた。
「それは、その時に考える」と悠真は言った。
「いまは考えない?」
「考えても、答えが出ないから」
紗奈は小さく頷いた。
それから少しして、静かに言った。
「……私ね」
「うん」
「悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる」
悠真は何も言えなかった。
紗奈は言ってから、少し困ったような顔をした。
「なんか変なこと言った、ごめん」
「変じゃない」
「でも」
「変じゃないよ」と悠真は繰り返した。
紗奈は少し下を向いた。
廊下の窓から、夕方の光が細く入っていた。
「友達として、そう思ってるんだけど」と紗奈は言った。
また、注釈だった。
友達として。
その注釈を、今日で何回聞いただろう。
悠真はその注釈の薄さを、今日初めてはっきりと感じた。
紗奈自身にとっても、その言葉は、もうあまり機能していないのかもしれない。
でも使い続けている。
使い続けることで、何かを守ろうとしている。
「分かった」と悠真は言った。
「うん」
「俺も、紗奈に誰かができたら嫌だ」
紗奈が悠真を見た。
「それも、友達として?」と紗奈は聞いた。
少しだけ、試すような口調だった。
悠真は一瞬だけ考えた。
「……まだ、分からない」と悠真は言った。
紗奈は少しの間、悠真を見た。
それから、小さく笑った。
「正直じゃないね」
「正直に答えられない」
「それも正直か」
「そう」
紗奈はまた前を向いた。
昇降口に向かって歩き始めた。
悠真もその隣に並んだ。
分かれ道で別れた。
「また明日」と言って、「また明日」と返った。
悠真は帰りながら、玲奈の言葉を思い出していた。
言えない、は自分を守ってる言葉だと思います。言わない、と認めた方が、正直かもしれない。
そうかもしれない、と思った。
言えないんじゃなくて、言わないんだ。
言ったら変わるから、言わない。
失いたくないから、言わない。
それが今の自分だった。
でも──紗奈も同じだった。
二人とも、言わないことで今の形を守っている。
それがいつまで続くのかは、分からなかった。
ただ──今日、紗奈が言った言葉は、今までより少しだけ内側から来ていた気がした。
悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる。
友達として、という注釈つきで。
でもその注釈は、もう薄くなっていた。
二人ともそれを、知っていた。
家に帰って、ベッドに横になった。
しばらくして、スマホが鳴った。
玲奈 20:03
今日はお疲れ様でした
ポスターの件、来週までに仕上げます
悠真 20:05
ありがとうございます
よろしくお願いします
玲奈 20:06
あと一つだけ
悠真 20:06
何ですか
玲奈 20:07
今日、廊下で話した後
紗奈さんの顔、見ましたか
悠真は少し考えた。
悠真 20:08
見ました
玲奈 20:08
どんな顔でしたか
悠真 20:10
……複雑な顔でした
玲奈 20:11
そうですね
私もそう見えました
玲奈 20:11
おやすみなさい
悠真 20:12
おやすみなさい
画面が暗くなった。
悠真は天井を見た。
紗奈の複雑な顔が、頭の中にあった。
玲奈の、少しだけ違った笑い方も。
二人の顔が、交互に浮かんだ。
文化祭まで、あと二十五日。
何かが、少しずつ動き始めていた。



