ベストフレンズ

 九月になった。

 二学期が始まった最初の朝、悠真は登校しながら空を見上げた。

 高かった。

 夏の空とは違う高さだった。雲の形も変わっていた。丸くて重そうな入道雲ではなく、薄く引き伸ばされたような雲が、遠くの方に流れていた。

 同じ空なのに、季節によってこんなに違う。

 カメラを持ってくればよかった、と思いながら、持ってこなかったことを後悔した。毎回そうだった。


 教室に入ると、すでに文化祭の空気があった。

 黒板に「文化祭まであと28日」と誰かが書いていた。

 恒一が悠真の席に来た。

「夏休み、どうだった」

「まあまあ」

「合宿行ったんだろ、写真部の」

「行った」

「橘さんも一緒だったんだって?」と恒一は言った。何気ない口調で、でも少しだけ探るような感じがあった。

「部員だから」

「楽しかった?」

「楽しかった」

「ふうん」

 恒一は自分の席に戻りながら、「ふうん」と繰り返した。

 その「ふうん」が、紗奈のものとどこか似ていた。

 悠真は気づかないふりをした。



 朝のホームルームで、城島先生が文化祭の準備について話した。

 今月中に準備を終わらせて、本番に臨むこと。授業に支障が出ないように、放課後の時間を有効に使うこと。

 形式的な話だったが、クラスの空気は明らかに浮いていた。

 文化祭、という言葉が持つ力は、高校生にとって特別だと悠真は思う。日常の延長線上にあるのに、少しだけ非日常になれる時間。そういうものへの期待が、教室の中に充満していた。

 悠真は窓の外を見た。

 九月の空が、高かった。



 放課後、広報班のミーティングがあった。

 図書室の隅のテーブル。メンバーは悠真、玲奈、それから女子が二人。

 夏休みの間に悠真が撮った写真の素材と、玲奈がまとめたデザイン案を合わせて、ポスターの形を決めていった。

 玲奈のデザインは、夏休みの間にさらに洗練されていた。

「いつ作ったんですか、これ」と悠真が聞いた。

「夏休みの間に、少しずつ」

「帰省とかしなかったんですか」

「東京には帰りました。でも向こうでも作業してたので」

「東京でも?」

「友達に会いながら、空き時間に」

 女子の一人が「器用ですね」と言った。玲奈は「暇だったので」と短く答えた。

 ミーティングは一時間ほどで終わった。

 方向性が決まった。後は各自で作業を進めて、来週末に合わせる形になった。


 ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。

 悠真と玲奈が残った。

 いつものパターンになってきた。

「夏休み、どうでしたか」と玲奈が言った。

「まあまあでした。橘さんは?」

「東京に帰れたので、よかったです」

「友達に会えた?」

「会えました」と玲奈は言った。少しだけ表情が柔らかくなった。「久しぶりで、話したいことがたくさんあって」

「それはよかった」

「でも」と玲奈は続けた。「会ってみたら、少し変わってた気がして」

「友達が?」

「お互いに」と玲奈は言った。「向こうも新しい生活があって、私もここでの生活があって。同じ時間を過ごせないと、少しずつ違う人間になっていく」

「それは悲しくないですか」

「悲しくないとは言えないですけど」と玲奈は言った。「でも変わっていくこと自体は、悪いことじゃないとも思って」

「変化を怖がらない人ですね、橘さんは」

 玲奈は少し考えてから言った。

「怖くないわけじゃないですよ。ただ、変化に慣れているというか」

「転校が多いから」

「そうですね」

 悠真は机の上のデザイン案を片付けながら言った。

「それって、やっぱり寂しくないですか。変わっていくことに慣れるって」

 玲奈は少しの間、答えなかった。

 窓の外を見た。

「寂しいですよ」と玲奈は言った。静かな声で。「慣れることと、寂しくなくなることは、別のことだから」

 悠真は玲奈を見た。

 玲奈はまだ窓の外を見ていた。その横顔が、いつもより少しだけ遠い感じがした。

「ごめんなさい、変なことを言いました」と玲奈が言った。

「変じゃないですよ」と悠真は言った。「正直に言ってくれた方が、俺は好きです」

 玲奈が悠真を見た。

 一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。

 それからすぐ、いつもの落ち着いた表情に戻った。

「朝比奈くんって」と玲奈は言った。

「うん」

「自分が正直じゃないから、人の正直さを好むんじゃないですか」

 悠真は少し黙った。

「……そうかもしれないです」

「自覚あるんですね」

「薄々は」

「柊さんに対しても?」

 また紗奈の名前が出た。

 今日は早かった、と悠真は思った。

「紗奈に対しても、正直じゃないと思ってます」と悠真は言った。「言えてないことが、いくつかある」

「言えない理由は分かってますよね」

「分かってます」

「でも言わない」

「言えない」

「言えない、と言わない、は違いますよ」と玲奈は言った。

 悠真は返せなかった。

 玲奈は立ち上がって、鞄を持った。

「言えない、は自分を守ってる言葉だと思います」と玲奈は言った。責めているのではなく、ただ言っているだけの口調で。「言わない、と認めた方が、正直かもしれない」

 悠真はその言葉を、胸の中に落とした。

 重かった。

 重いけれど、逃げられない言葉だった。



 翌日から、文化祭の準備が本格化した。

 放課後のたびに教室で作業が続いた。

 縁日の小道具を作る人、看板のデザインを考える人、調理の手順を確認する人。クラス全体が少しずつ同じ方向に動いていく感じがあった。

 紗奈は調理班の取りまとめとして、動き回っていた。

 誰かに何かを聞かれれば答えて、問題があれば考えて、足りないものがあれば補う。自然にそういう役割を担っていた。

 悠真はそれを、離れたところから見ていた。

 見ていた、というより──目が行った。

 紗奈が誰かと話している時。笑っている時。困った顔をしている時。

 そのたびに目が行く。

 (また見てる)

 自分でも分かっていた。

 でも止められなかった。



 三日目の放課後。

 作業の区切りがついて、少し休憩になった。

 悠真が廊下に出ると、窓際に玲奈がいた。

 外を見ていた。

 悠真が近づくと、玲奈は気づいた。

「お疲れ様です」

「橘さんも」

 二人で窓の外を見た。

 グラウンドで体育の授業をしていた。サッカーをしていた。遠くで声がした。

「紗奈のこと、ずっと見てましたね」と玲奈が言った。

 悠真は少し間を置いた。

「見えてましたか」

「見えました」

「……隠せてないな」

「全然」と玲奈は言った。でも嫌な感じではなかった。むしろ少し、優しいような声だった。

「橘さんから見て、どう見えますか」と悠真は聞いた。

「何が?」

「俺と紗奈が」

 玲奈はしばらく考えた。グラウンドのサッカーを見ながら。

「恋人みたいには見えないです」と玲奈は言った。「でも友達にも見えない」

「どう見える?」

「一番近くにいるのに、一番肝心なことを言えていない二人、に見えます」

 悠真は窓の外を見たまま、何も言わなかった。

「朝比奈くんが紗奈さんを見る時の目は」と玲奈は続けた。「心配してる目と、好きっていう目が、混ざってる感じがします」

「好きっていう目」

「そう見えます」

「俺自身は、まだ分からないんですけど」

「分からなくても、出るんですよ、目に」と玲奈は言った。少しだけ、何かを抑えているような間を置いて。「感情って、自分が認める前に外に出ることがあるから」

 悠真は玲奈を見た。

 玲奈はグラウンドを見ていた。

 さっきの間が、悠真には少し気になった。

「橘さん」と悠真は言った。

「はい」

「合宿の夜に言ってたこと、覚えてますか」

「何を?」

「自分の感情の理由は、そのうち言えるかもしれないって」

 玲奈は少し笑った。

「覚えてます」

「そのうち、はまだですか」

「まだです」と玲奈は言った。「でも、そのうちは来ると思います」

「待ちます」

「待たなくていいって言いましたよ」

「でも待ちます」

 玲奈は悠真を見た。

 少しの間、何かを考えるような目だった。

 それから、静かに笑った。

「困った人ですね」

「よく言われます」

「誰に」

「紗奈に」

 玲奈はまた笑った。今度は少しだけ、違う笑い方だった。

 悠真には、その違いの意味が、少しだけ分かった気がした。

 でも確かめることは、しなかった。



 教室に戻ると、紗奈が悠真を見た。

 目が合った。

「どこ行ってたの」と紗奈が言った。

「廊下で橘さんと話してた」

 紗奈の表情が、一瞬だけ動いた。

 ほんの少しだった。気づかない人は気づかない程度の変化だった。

 でも悠真には見えた。

「そっか」と紗奈は言った。

 いつもの「そっか」だった。

 でも悠真には、それがいつもと少しだけ違う温度を持っていることが、分かった。



 作業が終わって、片付けをした。

 帰り際、悠真と紗奈が並んで廊下を歩いた。

 しばらく無言だった。

「橘さんと、何を話してたの」と紗奈が言った。

「文化祭のこととか」

「他には?」

「いろいろ」

「いろいろって」

「写真の話とか」

 紗奈は少し間を置いた。

「橘さんって、悠真のことが好きなのかな」

 唐突だった。

 悠真は足を止めそうになって、止めなかった。

「なんで」

「なんとなく、そう見えるから」

「見えるって」

「見てる目が、違う気がして」と紗奈は言った。窓の外を見ながら。「うまく言えないんだけど」

 悠真は答えなかった。

 答えられなかった、というより──何と答えるべきか、分からなかった。

「どう思う?」と紗奈が聞いた。

「俺には分からない」と悠真は言った。

「本当に?」

「本当に」

 紗奈は少し黙った。

「もし橘さんが好きだって言ったら、悠真はどうするの」

 悠真は紗奈を見た。

 紗奈はまだ窓の外を見ていた。

「それは、その時に考える」と悠真は言った。

「いまは考えない?」

「考えても、答えが出ないから」

 紗奈は小さく頷いた。

 それから少しして、静かに言った。

「……私ね」

「うん」

「悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる」

 悠真は何も言えなかった。

 紗奈は言ってから、少し困ったような顔をした。

「なんか変なこと言った、ごめん」

「変じゃない」

「でも」

「変じゃないよ」と悠真は繰り返した。

 紗奈は少し下を向いた。

 廊下の窓から、夕方の光が細く入っていた。

「友達として、そう思ってるんだけど」と紗奈は言った。

 また、注釈だった。

 友達として。

 その注釈を、今日で何回聞いただろう。

 悠真はその注釈の薄さを、今日初めてはっきりと感じた。

 紗奈自身にとっても、その言葉は、もうあまり機能していないのかもしれない。

 でも使い続けている。

 使い続けることで、何かを守ろうとしている。

「分かった」と悠真は言った。

「うん」

「俺も、紗奈に誰かができたら嫌だ」

 紗奈が悠真を見た。

「それも、友達として?」と紗奈は聞いた。

 少しだけ、試すような口調だった。

 悠真は一瞬だけ考えた。

「……まだ、分からない」と悠真は言った。

 紗奈は少しの間、悠真を見た。

 それから、小さく笑った。

「正直じゃないね」

「正直に答えられない」

「それも正直か」

「そう」

 紗奈はまた前を向いた。

 昇降口に向かって歩き始めた。

 悠真もその隣に並んだ。


 分かれ道で別れた。

 「また明日」と言って、「また明日」と返った。

 悠真は帰りながら、玲奈の言葉を思い出していた。

言えない、は自分を守ってる言葉だと思います。言わない、と認めた方が、正直かもしれない。

 そうかもしれない、と思った。

 言えないんじゃなくて、言わないんだ。

 言ったら変わるから、言わない。

 失いたくないから、言わない。

 それが今の自分だった。

 でも──紗奈も同じだった。

 二人とも、言わないことで今の形を守っている。

 それがいつまで続くのかは、分からなかった。

 ただ──今日、紗奈が言った言葉は、今までより少しだけ内側から来ていた気がした。

悠真に、誰かができたら嫌だなって、思ってる。

 友達として、という注釈つきで。

 でもその注釈は、もう薄くなっていた。

 二人ともそれを、知っていた。



 家に帰って、ベッドに横になった。

 しばらくして、スマホが鳴った。


玲奈 20:03
今日はお疲れ様でした
ポスターの件、来週までに仕上げます



悠真 20:05
ありがとうございます
よろしくお願いします



玲奈 20:06
あと一つだけ

悠真 20:06
何ですか

玲奈 20:07
今日、廊下で話した後
紗奈さんの顔、見ましたか


 悠真は少し考えた。


悠真 20:08
見ました

玲奈 20:08
どんな顔でしたか

悠真 20:10
……複雑な顔でした

玲奈 20:11
そうですね
私もそう見えました

玲奈 20:11
おやすみなさい

悠真 20:12
おやすみなさい

 画面が暗くなった。

 悠真は天井を見た。

 紗奈の複雑な顔が、頭の中にあった。

 玲奈の、少しだけ違った笑い方も。

 二人の顔が、交互に浮かんだ。

 文化祭まで、あと二十五日。

 何かが、少しずつ動き始めていた。